「原則面会交流実施」の実態(後)
古賀礼子さん(弁護士)インタビュー
聞き手 宗像 充(ライター、共同親権運動ネットワーク)
問題がある親……
――ところがなかなか子どもに会えない実情は無視して、週刊金曜日では、「面会が認められない親は子の福祉に反することが明らかな、相当問題がある親といっていい」(斉藤)という結論になります。
これはかなり乱暴で不適切な表現なんじゃないんですか。面会が認められない事情としては、会わせたくない拒否感情が強いときもあるわけだから。
反抗期もあって子どもがどうしても今は嫌だということもあると思う。そういうのを受け止めて今は会わない(間接交流にとどめる)というのも一つの選択だと思う。
そして、これは、本来国や同居親が面会を禁止するのではなくて、あくまで、面会実施の中での親子関係で解決すべき問題だと思いますから、審判としては直接交流を認めるべきです。その意味で、裁判所の考え方にも異論はありますが、ただ、どちらにしても、間接交流というのは、あくまで「今は」会わないという限定的なことだと思うんです。
裁判所が間接交流(手紙や写真など間接的な手段での「交流」)を命令することもあるけど、それは一時的であって、直接交流に将来移行するためにあるものというのが、裁判所の共通認識らしい。つまり面会が認められない親に問題があるというわけじゃない。
面会が認められていないというのが、面会をしない方がよいということではないんです。面会をした方がいいが、間接交流からスタートするということです。
――そもそも「問題がある」って何なんですかね。
はっきり言って百点満点の親なんていない。いろんな親がいて、運動が得意か勉強ができたかできないか、稼ぎがあるかないか……いろんな個性がある親を子どもは背負っている。親も子どもも人間ですから、それぞれ癖があります。一緒にいてストレスに感じることもそりゃあるでしょう。
そういう中で、子どもなりに幸せを見つけて生きるというだけであって、問題がない親なんているんですか。金もあって優秀な親のほうが過干渉や過保護等、問題があると言われることもある。
あと育児に関心がない親もある種問題だと思う。会わせたくない親にとってはありがたい結論なんでしょうけど……会いにも来ないけど、決められた養育費しか絶対払わない。学費とか別途協議するとかいう文言で決めるけど、後々難航するのは見える。子どもも親も本当に苦しむことになると思う。
シングルマザー系の当事者の方から「子どもの学費は何とかがんばってねん出した、でも私の老後の備えがまったくできない」という話も聞く。それは本当に誰も手当してくれないと思う。どうするんでしょう。これは、結局、子供が別居親との関係を構築しきれなかったことが原因と思えることが多い。
――子連れ再婚をして元の夫に会わせないというパターンもある
で、その男性もうっかり養子縁組して親権者になっていて、面会交流義務違反で裁判所に呼び出される。再婚自体はいいと思うんですけど、そういう覚悟をした上で養子縁組をしていますか。みんな知らずにやっちゃってる。
実際にその子には父がいて父が生きているのに、父に断りもなく養子縁組して親権者になる。これは今の法律上可能ですが、相当不思議なことですよ。意図的できなく、親子断絶に加担してしまうことがあるように思います。
原則面会交流実施反対は「女の味方」か?
――結局、週刊金曜日は、会せなきゃいけなくなる法律はやばいと言っているだけです。子どもと引き離された側から見ると、離婚目的の連れ去りを肯定するための論陣です。そんな中、斉藤さんは、父親は養育費さえ払っていればかっこいい(『子ども中心の面会交流』)と書いて別居親を怒らせていた。斉藤さんはこれが女の味方だと、本気でいいことだと主張しているつもりなんでしょうか。
男は家庭を顧みなくて女が子育てを抱え込むというステレオタイプのイメージでは、女性の味方かもしれません。そして、自ら子育てを抱えながら夫や社会にこの形を保護して、という要請から見れば、味方そのものでしょう。
逆に、女性も社会で活躍するし、家事育児は当然父母で分担するものという感覚の女性もいる。その場合、男性も家事や育児に参加して、実動員としてやってもらわなきゃいけないとなると、自ずと面会交流もしておくようになる。面会交流というか、ちゃんと子どもをみて子どもと一緒に生きていく意識を別居親も持って欲しいという気持ちになる。もう女性の意見として一枚岩じゃない。
例えば、面会交流は無料のベビーシッターだと思えばいいっていう発想の人は、自分も社会に出て、実際に、ベビーシッターの利用もしているような人だったのかもしれない。子育てを抱え込む人は、子どもを預けている間に活躍しようという発想自体が難しい。
社会はもう女性も稼がないとやばいよというふうに動いているのに、辛い・大変と言いながら子育てを抱え込むことにこだわる人もいる。別にこの考え方自体は悪いと思わないし、実はそんな女性は少なくない。そして、この発想の味方をする人も弁護士に限らず存在する。
でも、自ら父親を子育ての実働員から排除しておいて、やれ経済を支えて欲しい、子育ては大変だ、と言われても子育てをしたい父親は納得しないに決まっています。
――だから男は金だけ払ってほしい、という発想がでてくる。
そう、養育費が少ないという話にばかり走っている。そんなの眠れる森の姫様の呪いですよ。女性ってそんなんばかりじゃないんです。面会交流という名の監護をしてもらわなきゃ仕事行けない、分担してよという要望の方が切実です。
養育費が多い少ないではなくて、まず、父母が別居する場合に、どう子どもの監護を分担するかという発想がなくてはいけない。そうすれば、自然にどっちが学費を出すとかそういった前向きな話になる。
実際、養育費の制度に否定的なお父さんも、子供にお金をかけること自体には前向きな人もいる。この点の発想が、やたらステレオタイプだから、養育費が少ないとかなんとかいう議論ばかりになってしまう。
――それでもDVや虐待があったらどうするのかという意見が必ず出ます。
DVが過去あったらあったなりに、それを防ぐ手立てさえした上で、会っていいというふうになるならば合意で会えるわけだし。親どうしは会わない約束をして、DV虐待事例でも会っているケースは逆にある。
むしろ、会わせたくないという同居親の意見があって、そういう中で出てくるのがDV、虐待。それを立証できなかったときにはいろんな理由をつけて会わせないことを言ってくるから、合意が難しくなるんじゃないでしょうか。別居親も子どももお互い会いたくないってなったら、それこそが不幸なことなのに。
子どもを連れ去るときに意見を聞いたのか?
――「親子断絶防止法」への批判には、子どもの意見表明権が保障されていないというものがありました。だからちゃんと手続き的に子どもの意見が聞き取れる体制を法的に保障しろと、そういう修正条文も入った。ぼくたちはそれに対して、それが入っているから反対した。子どもは引き離される過程で「会いたくない」と言い出します。
だから会せないほうがいいって、子どもの意見を悪用しますからね。
――そもそも現状もう一方の親に会いたいと言えない状況で、自由な意見表明を前提にした意見表明権というのを今の体制で保障することは難しい。
子どもの意見っていったら、「父か、母か」じゃなくて、聞くまでもなく「父も母も」なんですよ。それを親が別居していても実現するにはどうしたらいいかを考えるべき。
「父も母も」じゃなくなってしまった子どもさんってどんな子なのか。そこは何でそんなふうになったのか寄り添っていかないといけない。そのためにその周りの環境についても事実を調べて調査をして、というのは今もやっている。あえて子どもの意見表明権というのを前面に出す必要はないんじゃないか。
大事なのは面会をするかどうかの場面での意見表明ではなくて、子の利益です。意見表明は、父にも母にも十分会える状態になってから、父と母に意見して、場合によっては裁判所に意見を表明すればいい。これが子の利益です。
「父も母も」という子どもの意見を実現する方向でまず調整したらいいのに、会わせたくないという人たちの発想はそこじゃない時点ですでに利益相反でしょう。
――週刊金曜日に、父母との交流を定めた法案の骨子は子どもの権利条約に沿ったものと指摘すると、子どもの権利条約12条の子どもの意見表明権について、法案が蔑ろにしていると批判されたのをわかってないと反論してきました。
そうはいっても、うちの子は、ぼくと引き離されて後、「お父さんに会いたい」なんて言うのも遠慮があるし、言ったところでちっとも会えない。そう指摘すると、週刊金曜日の編集長の小林さんは「だから支援しなくちゃいけない」。小林さんがうちの子の聞き取りでもしてくれるんでしょうか。
この法律は、単独親権で子どもを連れ去って会せないという現状を肯定した上での、支援にしかならないから、こういう詭弁がまかり通る。
それ自体が問題なのに。
――離婚目的で子どもを連れ去ることの問題点は、斉藤さんも週刊金曜日も意識して無視する。
そこを言うと、別の軸に置き換えて言い返している感じがします。会わせたくない親にとって、子どもが「父も母も」っていう意見を一般に持つだろうというのはけっこう止めがたいでしょうから。
では意見表明権って言うなら連れ去ったときに意見を聞いたのか。それも子どもに確認したい。
――聞いたとしてももう一方の親の同意なく連れ去っていいのか、聞いたとしても親に会わせなくていいのか。
聞かれてとっさの判断で答えたことでどういう結論が待っているのか。未熟な判断では正解が導けない。それを過大に評価するということが子どもの利益になるとも限らない。そういうふうに子どもの意見表明っていうのを強調するのには、逆に危険があると思う。
先ほど述べましたとおり、大事なのは子が意見を形成できる環境、つまり、両親との交流ができている中での意見を表明できる環境です。
法律に何を求めるのか?
――この法律では、双方の親との交流や、面会交流支援の規定以外に、反対するグループの修正を受けて、親子断絶を肯定する条文が明記されたままです。親子関係について規定した法案で親子断絶をわざわざ明記するのは、断絶促進法だろうとkネットは別居親の中でも反対を表明した経緯があります。
なんで両方から聞かないんでしょうね。偏りは失敗ですね。
――両方から聞かないわりには、「母子家庭共和国」を作った新川さんには主張はさせる。
会わせたくない気持ちをほどくために、面会交流支援を充実させようという文脈はありだと思うし共感する部分はある。頭ごなしに会わせなさいと言われるのはやっぱりカチンとくる。
正直、私も当事者として父と子を会わせないという態度をとったことも一瞬あるし、また、今思うと、子にそんな意見を押し付けたこともあったと思う。だから、気持ちは分からなくもないのです。
お金もないし、仕事もなかなかうまくいかない状態の人にとって、子どものことだけが最後の砦だから、追い詰められるあまり、頑なになって、譲歩できなくなる。
――それは多分離婚とは関係なく母親の支援であって、そうはいっても子どものため、会わせなさいと支援者が言えば面会交流支援はいらないと思うんです。
なるほどね。
――シングルマザーを支援しているグループが、面会交流をさせるのが子どものため、どうしても危険とかいうなら、じゃあ自分たちがコンタクトしようという話に最初からなればいいけど、むしろ原則交流の当初の法案には反対した。それで面会交流支援と言われても、その嫌だっていう感情を肯定した上で、別居親を監視して、なるべく会せないようにする支援にしか映らない。
手ごたえとして当事者には、意外に面会交流がいやだっていう人ばかりでもない。実際に会せてもいいと思っている人はいるけど、会うまでの協議が不十分で会わせなくなる傾向もある気がする。
面会交流事件に携わる法曹の本音として、立ち会いましょうとかいうときになったときの負担が大変なことになる。そこで二の足を踏んでいる弁護士に引きずられて、戦略上会わせないっていうことになると、当事者も、引くに引けなくなっているケースもあるんじゃないか。
――たとえば、「クレイマー、クレイマー」(1979年)という映画がある。子どもを置いて出ていった妻にお父さんは子どもを会わせたくなかった。それで自分の弁護士に会わせたくないんですって言ったら、そんなの無理だから法律ですっていって、それですぐに会せた。映画の話ですが当時からアメリカの法律には強制力がありました。
日本の弁護士は会わせたくないほうに乗っかっちゃう。どこかで面会交流は、相手方である別居親の請求だと思ってしまう。だったら、これを押さえるのが同居親の代理人の役目だと。
珍しく同居親側を代理したときに、私は会わせたほうがいいのは決まっているけど、場所やどう会せるかについてはこれをチャンスにワガママを言いましょう、無理がない方法について存分に意見を言っていいというアプローチで、ようやく何年かぶりに会える手はずが進んだ。
実施するかしないかの意見で対立するより、実施するとして、どう実施していくかについて充実した意見交換をする方が実りがあると思います。
面会交流は、別居親の請求という形になることが多いですが、本当は一方の請求ではなくて、子の監護についての父母のあり方の問題です。会ったからどちらが得とか損とかじゃない。
むしろ父母との関係を維持することが、同居親の監護権を強固なものにして、子を安定させる。これが同居親にとっても最終的には利益なんです。
弁護士の関わり方は変わるんじゃないかな。別居親側にしろ同居親側にしろ、父母から子どもが愛される利益を思うと、関係を妨げちゃいけないというのは、私は思っています。
シリーズ 週刊金曜日のデマとヘイト 第2回 「原則面会交流実施」の実態(前)
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