一般的に、「リベラル」知識人は「進歩的」と勘違いされています。
それは女性の権利を救済することが「進歩的」だった時代の名残ですが、もちろん、親権の問題では、子育てから疎外されるのは専ら男性側になります。かつての「進歩的」な批判は、現在では男性の子育てを認めない「保守的」な論調になる、典型的な一例として下記を参考にください。
木村さんは、文中以下のように述べます。
「裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない」という批判の声もある。しかし、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が「子の利益」にならないことによる。
こういった書きぶりは、そもそも平等に関する憲法上の権利に関して論ずべき憲法学者の発言とは思えないが、ただの保守主義者だと思って読むととてもよく理解できます。
前回に引き続き、離婚後の共同親権の導入について検討しよう。日本の民法では、親権は、(1)子と同居し保護する監護権(820条)と、(2)教育・居所・職業選択・財産管理などの重要事項決定権(820~824条)の二つからなる。両者は性質が異なるので、共同親権を検討する場合にも、二つを切り分けて議論を進めるべきだ。
まず、(1)監護権の共同について。離婚後の父母は別居が一般的だから、移動に伴う子の負担などを考えると、父母双方と同等の時間を過ごし監護を受けることは現実的でないことが多い。「共同親権」と呼ばれる制度をとる諸外国でも、離婚後の父母双方が、子と同居・監護する権利を等しく分かち合うケースはまれだ。共同の監護権を活用できるのは、父母が良好な関係のまま近所で別居し、双方の家を子どもが行き来することに無理がない場合など、特殊な事例に限られる。
では、現行法はそのような事例に対応できるか。この点、現行の民法766条、771条は、「子の利益」のためになるなら、当事者の協議や裁判所の判断で、面会交流や監護の内容を柔軟に決めることを認める。例えば、「父に親権を与えた上で、日常同居し監護するのは母とする」ことや、「父母が隣り合った住居に住み、子は1年の半分を父の家で、残りは母の家で過ごす」という取り決めも可能だ。つまり、新たに共同で監護権を行使する制度を導入する必要性は低い。
この点、「裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない」という批判の声もある。しかし、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が「子の利益」にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではない。
次に、(2)重要事項決定権を父母が共有する制度について。この制度の下では、同居親と子が、転居・進学・就職などの際に別居親の同意を得なければならない。もしも、父母の関係が良好なら、親権の有無にかかわらず、重要事項については協力して決定しているだろう。
他方、父母の関係が悪い場合、同居親への嫌がらせや、不適切な面会を強要するために同意権を乱用するリスクがあり、弊害が大きい。そこまでひどい事例でなくても、病院に行ったり、塾を選んだりするたびに別居親の同意を得るのは煩雑だろう。上川法務大臣も「父母の関係が良好でない場合に、親権の行使について父母の間で適時に適切な合意を形成することができない」おそれがあるとの指摘を紹介している。
単独親権者が、子の福祉に反する決定をする危険を指摘するものもいるが、その場合には、親権者を変更すべきだ。共同親権を維持すれば、子の福祉を害する親にまで権利が残ってしまう。
このように、(1)監護については既に十分な条文があり、(2)共同の重要事項決定権は、父母の関係が良好なら不要で、悪いなら弊害が大きい。共同親権制度導入の必要性は低い。仮に導入するにしても、父母が同居し事実婚関係を継続する場合など、親権乱用の危険がないことが明らかな場合に限定すべきだ。(首都大学東京教授、憲法学者)