78歳で倒れ、入院した父。息子で40代の「ぼく」は、ぶっきらぼうで家族を顧みなかった父にずっと反発を覚えていたが、父に前妻がいたこと、そして自分の腹違いの兄が存在することを聞かされて以来、家族の過去を調べるようになっていた。
父のかつての知人を探し出し、昔のことを尋ねてきた「ぼく」だったが、ある日、ずっとためらってきた「もうひとつの家族」に会うことを決意する。現役証券マンで作家の町田哲也氏が、実体験をもとに描くノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』。
父の前妻である下田栄子さんの実家に行ってみようと思ったのは、10月末、JR宇都宮線に乗っているときだった。
ぼくは都内の自宅からO市の実家に通うのに、新宿経由の赤羽で乗り換えることが多かった。その日の電車は宇都宮行きで、ふと停車駅を確認すると、栄子さんの実家の最寄り駅が目に入った。
このまま電車に乗っていけば、栄子さんたちに近づくことができる。そう考えると、遠い存在だった父のもう一つの家族にたどり着けるかどうかは、自分次第のような気がした。
ぼくは今まで、彼らに直接会うことを避けていた。父の人生をたどるうえで、栄子さんと健太郎さんの存在は無視できない。しかし彼らにとっては、父はすでに関係のない他人でしかない。40年以上前の過去を掘り返すような行為を、簡単に受け入れるとは思えなかった。
とくに気になったのは、栄子さんと健太郎さんの関係が良好でないと聞かされていたことだった。再婚した母親に離反していく子どもという図式は、離婚した家庭において典型的に見られる。接触の仕方次第では、興味本位で過去をあさる行為と見透かされる可能性があった。
しかし今のタイミングを逃せば、彼らに近づくことのできる機会が当面訪れそうにないのも事実だった。
父はたこ焼き屋を通じて、健太郎さんに少なくない金額を送っていたという。父ともう一つの家族の間に、どんなつながりがあったのだろうか。
たこ焼き屋を通じた二人の関係は、依然として詳細がわからないままだった。母が調べたところでは、店のシャッターに貼り出された案内には、たこ焼き屋の店長が体調不良のため長期休業に入っている旨が書かれていたという。
残された選択肢は、栄子さんの実家に行ってみることくらいだった。父の病気という理由だけが、共通の父親を持つぼくと健太郎さんが近づくことを可能にしてくれるような気がしていた。
栄子さんの実家は、父の昔の戸籍謄本で確認してあった。電話番号もわかったが、直接自分の目で見ておきたかった。「下田徹」という名義で登録されていたのは2012年のことなので、もしかしたらすでに転居しているかもしれない。
父は昔、栄子さんの父親に大金を借りたままになっているという。もしこの土地が下田さん家族のものでないならば、そこには父が影響していると思えてならなかった。
ぼくは最寄り駅で降りると、駅前にあるコンビニに入って目的地までの距離を確認した。歩いて50分以上はかかるという。駅からタクシーに乗ると、栄子さんの実家に向かった。
10分程度走ると、周囲には畑しか見えなくなった。車から降りると、舗装していない農道にバッタが飛び跳ねている。小学生の頃、K市の田舎道を歩いていた頃を思い出した。マップで確認した家にたどり着くと、ちょうどおじいさんが草むしりをしている。
「下田さんのお宅はこちらでしょうか?」
近所付き合いの深い田舎では、一帯が全員知り合いの可能性がある。隠さずに切り出すことにした。
「どこの下田さんかわかるかい?」
「はあ……」
「この辺じゃ、たくさん下田さんがいるからさ」
「下田栄子さんです」
「何歳くらいの人だい?」
「もう70を超えてるんじゃないかと思います」
「ああ、だったらあっちだ」
おじいさんは手を挙げると、奥の家を差した。
「2階建ての家があるだろ。あそこに奥さんがいるから。今頃は家にいるんじゃないかな」
「ご本人がいらっしゃるんですか?」
「いやいや。弟さんが亡くなってその奥さんがいるから、話を聞いてみるといいよ」
おじいさんは畑を大回りして、下田さんの家の近くまで送ってくれた。ぼくが間違えて隣の家に挨拶すると、自転車で追いかけてきて家の前まで連れて行ってくれるほど親切なおじいさんだった。
「ごめんください」
何度か大声で呼びかけると、70歳を過ぎたくらいの女性が不審そうに外を見ている。ぼくはなるべく大きな声で聞こえるように、挨拶をした。
いきなりの訪問客を怪しむ気持ちはわからなくもないが、ぼくにとっても勝負だった。対応を間違えれば、この先話を聞くことがむずかしくなってしまう。栄子さんや健太郎さんに近づけるかどうかがかかっていた。
「こちらは下田さんのお宅でよろしかったですか?」
「そうですが……」
「栄子さんはご在宅ですか?」
「栄子はこちらにはおりませんけど、どなた様ですか?」
女性の警戒する表情に、ぼくは慌てて説明した。
「私は町田と申します。以前栄子さんが結婚していた町田の長男です。父が体調を崩しており、そのことをお伝えできればと思い、お伺いしました」
「じゃあ、健ちゃんの?」
「はい」
ぼくはうなずくと、義理の弟になりますという言葉を飲み込んだ。その必要がないことは、女性の表情を見れば明らかだった。ぼくは父の症状や今までの経緯、挨拶に来た理由を話した。
「事情はわかりましたけど、私から変なこというわけにはいきませんからね」
ぼくの話を聞くと、女性は悩ましそうな顔をして携帯電話を取った。栄子さんに掛けようとしているのだろうか。
家に入っていく女性に、ぼくは自分がここに来た趣旨を、もう少しきちんと説明したかった。決して何かして欲しいわけではない。ただ父が最期を迎える前に、人生をたどってみたいだけなのだと。そんな思いを伝える余裕もなかった。
「話すことは何もないみたいですね」
しばらくすると、女性がふたたび顔を出した。ぼくは唐突な幕切れに、何もいえなかった。
「そうですか……」
「もう何十年も前の話ですからね。今さらどうこういわれてもね」
「何かして欲しいわけじゃないんです。父の気持ちは、もうどうにも確認しようがありません。ぼくが気になったのは、栄子さんや健太郎さんの気持ちなんです。これが最後だとわかってたら、やっぱりそのことを伝えるべきなんじゃないかと思って、それだけがいいたかったんです」
「なかに入りますか?」
ぼくの顔に、強く落胆した様子が出ていたからかもしれない。話だけでも聞こうと思ってくれたのがわかった。
家には誰もいないようだった。玄関を入ってすぐ右手にある客間には、ソファやテレビが置かれていた。カレンダーの下には記念写真が飾られていた。生活の痕跡がないこともなかった。しかしそれは、にぎやかだった頃からもう長い時間が経過していることがわかる種類のものだった。
ぼくは正座すると、ここに来るにいたった経緯を話した。父が倒れ、もう一つの家族の存在を知らされたこと。父の人生をたどるなかで、どうしても栄子さんと健太郎さんの存在が避けて通れないこと。
本当の父の姿をさがすことが、ぼく自身のルーツをたどる旅でもあった。
「実は、私もずっと気になってたんです」
女性がはじめて、自分の気持ちを話してくれた。
「健ちゃんは、私にとっても子どものような存在でしたからね」
「一緒に住んでいらっしゃったんですか?」
「そうです。まさにこの家で、家族のように暮らしてましたよ」
過去を思い出すように、表情を崩したのがわかった。
女性は栄子さんの義理の妹で、下田伸江といった。昭和20年生まれで、都内から弟の徹さんに嫁いできた。今でこそ近所に家がいくつか建ったが、昔は畑しかなく、はじめてこの地に来たときにはあまりにも田舎で驚いたという。
伸江さんが23歳で結婚してこの家に来たとき、下田家は両親、栄子さん、健太郎さん、栄子さんの弟、伸江さんの6人暮らしだった。すでに健太郎さんは2歳になり、栄子さんは働きに出ていたという。
伸江さんが26歳のときに双子の男の子が産まれ、8人家族のにぎやかな家になる。伸江さんが3人の子どもを育てているような感覚だった。
健太郎さんが引っ越してきたとき、伸江さん夫婦や祖父母は、一家ではじめての子どもがかわいくて仕方なかったという。しかし健太郎さんが成長するにつれ、父がいないことに不満を募らせるようになる。
父と会う話が出たときは、健太郎さんは会いたがったが栄子さんの反対で実現しなかった。栄子さんにとっては、消し去りたい昔の記憶に過ぎないのだろう。事情を理解する年頃になった健太郎さんは、栄子さんを苦しめたくないと我慢するようになっていた。
栄子さんは背がすらっと高く、結婚前は都内で理容師をしていた。おそらくそこで父と出会ったのだろう。神経質な性格で、気が強い女性だったという。
健太郎さんを伸江さんに預けて働いていたが、昭和51年、34歳のときに再婚して家を出る。健太郎さんが小学五年生のときだ。横浜に引っ越し、その後新しい夫との間に男の子が生まれた。
新しい家庭では、平穏な生活が待っていたようだ。父という存在とはじめて接し、兄弟もできた。しかし家族が増えていく一方で、疎外感は消えなかった。今まで見たことのない母親の幸せな表情を見るたびに、母親を取られたという思いが強くなっていく。
高校を卒業してすぐに横浜の家を出ると、以来ほとんど栄子さんと連絡を取らなくなったという。健太郎さんも、自分の家族をさがしていた。
(第1回はこちら:「危篤の父が証券マンのぼくに隠していた『もうひとつの家族と人生』」)
(7月19日公開の第25回につづく)
町田 哲也