https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180620-00010000-gendaibiz-soci&p=1
児童養護施設暮らしの9歳女児が…「秋田・長女絞殺事件」の深層
2016年6月、秋田県で9歳の女児が心神耗弱状態の母親に殺害されるという痛ましい事件が起こった。この事件の第一審判決を伝える記事を読んだとき、幼い娘がいる私はやりきれない思いがした。
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小4の長女殺害母親に懲役4年
秋田市の自宅で昨年6月、小学4年の長女を殺害したとして、殺人罪に問われた住所不定、無職千葉祐子被告(41)の裁判員裁判で、秋田地裁は31日、懲役4年(求刑懲役5年)の判決を言い渡した。(中略)
判決によると、千葉被告は昨年6月20日ごろ、当時住んでいた秋田市八橋大沼町の自宅アパートで、長女愛実さん=当時(9)=の首を圧迫し、殺害した。
(河北新報2017年6月1日)
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この事件を知ったとき、もう一つの思いが私の心に浮かんだ。
「父親はどこに行ったのか。父親がいなくても、せめて親戚がいれば救えた命ではなかったのか――」
なぜこの痛ましい事件が起こったのか。その背景を追った。
「お絵かきや色塗りをしたり、人形遊びをしたり、本を読んだり。施設の玄関でシャボン玉を飛ばして『きれいでしょ』って言ってみたり……。一人で過ごすのが好きな、女の子らしい女の子でした。小さい頃は自分の気持ちを言葉でうまく伝えられなくて暴れちゃうところがあったんですが、小4になるころには、心も体も急成長。自分の意見を言えるようになったし、勉強も頑張っていました」
生前の愛実(めぐみ)ちゃんの様子を話してくれたのは、秋田県の某児童養護施設の院長と副院長である。愛実ちゃんはこの施設に住み、毎日学校に通っていた。
後述するが、愛実ちゃんの両親は事件が起こる7年前、愛実ちゃんが2歳の時に離婚。母親は精神疾患を抱えており、何度も児童相談所に「娘を預かってほしい」と連絡していた。
児童相談所は「彼女一人では育てられないだろう」と判断し、母親もこれに同意したことから、4歳の愛実ちゃんを児童養護施設に入所させた。以後、愛実ちゃんは9歳で亡くなるまでの間、この施設で暮らした。
愛実ちゃんが住んでいた児童養護施設とはどんな施設なのか。
<保護者のない児童や保護者に監護させることが適当でない児童に対し、安定した生活環境を整えるとともに、生活指導、学習指導、家庭環境の調整等を行いつつ養育を行い、児童の心身の健やかな成長とその自立を支援する機能をもちます>(厚労省HP)
こうした施設は日本全国に600箇所ほど存在し、2万人あまりの児童が入所している。
愛実ちゃんを殺めてしまった母親は、事件現場となったアパートで一人暮らしをしていた。愛実ちゃんとは年に4~6回のペースで、一時帰宅という形で児童相談所の許可のもと連れ帰っていた。
母親はどんな人だったのか。前出の院長が続ける。
「メイクにしろ、着こなしにしろ、きちっとしていたし、ニコニコして人当たりは良かった。
一時帰宅のお迎えや面会のために施設を訪れたときは、『会いたかった』と言って愛実ちゃんを毎回ぎゅっと抱きしめるんです。そんな様子を目の当たりにして、『愛実ちゃん、愛されてるんだなあ』と思いました」
――愛実ちゃんは母親のことをどう話していたのでしょう。一時帰宅の様子について愛実ちゃんは何か話していましたか?
「一時帰宅から帰ってきた後に様子を聞くと『ママはずっと家で寝込んでた』と言うんです。『何食べてきたの?』と聞くと『チョコレート』などと答えるので、ちゃんとご飯を与えられていたのかと、心配になりました」
母親は自身の養育能力の不足を自覚していた。だからこそ児童相談所に助けを求め、最終的にはこの施設に愛実ちゃんを預けることになったのだ。
――話を少しさかのぼります。離婚後、どういった経緯で母親は愛実ちゃんをこの施設に預けることになったのですか?
「離婚が成立した2009年、愛実ちゃんが2歳のころです。お母さんは民間の子育てサポートを利用していました。子供が生まれる前から精神疾患は抱えていて、次第に症状が重くなったようで、サポート出来る範囲を超えてしまいました。その後、お母さんは児童相談所と面接を行い、『調子が悪いので一時的に娘を施設に預けたい』という訴えを何度か繰り返したようです。
そのとき、私たちの施設が一時保護委託※という形で、愛実ちゃんを一時的にお預かりしていました。そして4歳のときにお母さんと児童相談所との相談のうえ、入所措置※という形で愛実ちゃんを正式に迎え入れました」
※虐待などの理由で親による養育が困難と児童相談所が判断した場合、採られる措置。都道府県の知事が施設への一時保護や入所を決定する。
――ずっと寝込んでしまって、子育てすらままならなくなる……というのはかなり重い症状ではないでしょうか。母親の患っていた病気はどんなものだったのですか?
「妄想性障害といって、現実にありうるようなリアルな妄想を抱き続ける病気です。見た目も表情も一見、他の人と変わらない。ただ普通の人よりもずっと疲れやすかったり不眠が続いたりという症状がお母さんにはあったようです」
――そんなに重い症状なら施設に預けるより先に、別れた夫や親戚に助けを求めたらよかったのに……と思います。
「それどころか、彼女はお父さんやお祖父さんを避けていたようです。『施設内で愛実という名前を出さないでほしい』とお母さんに強く言われていました。例えば、廊下や教室に貼り出される絵や習字の名前も別の名前を使ってほしいと言われましたし、配布される施設のお便りもそうです。『元夫はDVでストーカーだから、居所を知られると愛実が何をされるかわからない』というのが理由です。
また『父親(愛実ちゃんから見ると祖父)にはくれぐれも連絡しないでください』と強く言われてもいました。『元夫と連絡を取っている父親(祖父のこと)に施設から連絡したら、元夫に話が漏れて、施設に押しかけるかもしれない』と。
実のところ、児童相談所と施設が共有している書類にはお祖父さんの連絡先が記されていました。だから連絡は可能だったのですが、そこは親権者であるお母さんの希望に従いました」
――では次に父親のことについて伺います。父親がこの施設を訪れることはあったのでしょうか?
「お父さんがどんな人なのか。私たちはまったく把握していませんでした。調停によって、月1回程度愛実ちゃんと面会するという取り決めがあること自体、事件前は知りませんでした。
彼が施設に訪れることはもちろん、連絡してくることすらありませんでした。それでも、彼が暴力を振るったり、つけ回したりする、危険人物だという認識はもっていました。というのも、以前、児童相談所に父親がどんな人かを問い合わせた時に、過去に警察に被害届が出されたという記録がみつかったからです」
施設の職員たちが愛実ちゃんを送り出したのは2016年6月17日(金曜)の午後だった。一時帰宅のため、タクシーで迎えに来たお母さんに愛実ちゃんは抱きつき、仲良く手を繋いだまま施設を出た。このとき、事件の兆候はまるで見られなかった。それから数日後のことだ。事件が発生したのは。
「本来なら、お母さんの家に2晩泊まった後の日曜夕方、施設に帰ってくるはずでした。ところが予定の19日午後6時を過ぎても帰ってこない。そのため午後8時半、9時半とお母さんのアパートまで担当の職員に行ってもらい、様子を見てきてもらいました。
中に灯りはついておらず、呼び鈴を鳴らしても反応はない。携帯電話を鳴らしても、『電源が入っていない』というアナウンスが流れるだけだったそうです。
翌朝、すぐに児童相談所に連絡して、児童相談所の職員とともにアパートを訪れました。しかし、やはり応答はなし。そこで昼に警察署に行方不明届を提出しました」
20日午後4時すぎに、アパートに踏み込んだ警察署員が、すでに亡くなっている愛実ちゃんと、そのそばで意識不明の状態で倒れている母親の姿を発見した。そのとき、愛実ちゃんはタオルケットにくるまれ、ベッドの上で冷たくなっていた。その隣で意識を失って倒れている母親の腹には数ヵ所、刺し傷があった。
午後4時を少しすぎたころ、施設に電話が鳴り響いた。
<た、大変なことになってる。もうダメだったみたい――。>
「現場を見に行ってくれていた主任保育士が、大泣きしながら電話をかけてきました。その電話を聞いて、いてもたってもいられず、すぐに現場まで駆けつけました。すると現場周辺はすでに大騒動。パトカーや救急車が建物を覆うようにして停まっていました。
夕方のニュースで報道されたということもあり、事件のことはたちまち施設内に知れ渡りました。子供だけでなく職員一同皆ショックを受けてしまって…。泣き崩れました」
施設では翌7月の夏休み時期に愛実ちゃんのお別れ会を行っている。
「一番広い部屋を祭壇にして、職員と子供たち、みんなで愛実ちゃんとお別れをしました。仲良くしていた子供何人かが弔辞を読んだ後、みんなで玄関先のベンチに移動しました。そしてそのベンチにシャボン玉のセットを置いたり、職員たちが『めぐちゃんにシャボン玉を見せてあげて』って言うのを合図に、子供たちがシャボン玉を飛ばしたりしました」
玄関外のベンチの前に座りながらシャボン玉を飛ばすのが愛実ちゃんは大好きだった。
――ここでひとつ違う質問をさせてください。事件発覚直後、院長や施設側は事件をどう見立てていたのですか?
「愛実ちゃんの事件が起こったのと同じ月、当施設の男性職員が県青少年健全育成条例違反(淫行)の疑いで逮捕されました。その直後の愛実ちゃんの事件でした。だから『職員が逮捕されたことで、お母さんの精神が不安定になり、こんなことになったんじゃないか……』と自責の念が浮かびました」
ところがだ。事件から1年後の2017年5月末に刑事裁判の判決が下されたことで、施設側の見立てが違っていたことが判明する。裁判を傍聴した院長はその場で、母親の動機について本当のところを知ることになった。
「裁判を傍聴して驚きました。まず、彼女が私たちに話していたことの多くは、ウソ…妄想に基づくものであったことがわかったのです」
――妄想とは?
「愛実ちゃんのお母さんが話す、お父さんやお祖父さんについての情報。そこにはかなり嘘がまじっていました。『元夫はDV夫でストーカー』というお母さんの言葉にしても、被害届の内容にしても、どうやら妄想が膨らんだことによる嘘でした。被害届を確認したと申しましたが、あれも全く違っていました。確かにお母さんは被害届を出していましたが、父親が害を加えた、という実態がなかったのです」
――なぜそうしたことが分かったんですか?
「被害届を出したという事実までは確認できても、その内容の真偽は、こうした事件にでもならない限り、確かめられません。つまり、個人情報を漏らせないので、警察がわざわざ『夫本人に確認したら被害の事実はなかった。だから、この被害届は無効です』とは公表・伝達しないのです。そうした”ズレ”に気がつかないまま、施設側は、愛実ちゃんが亡くなった後も、『お父さんは危険人物』だと信じ込み、対応していたのです。
また、裁判を聞くまでは、施設の職員が逮捕されたことが彼女の精神を不安定にさせてしまい、それが殺害に影響を与えたんじゃないか、と思っていましたが、そうではありませんでした。むしろ、その逆だった、と言った方がよいかもしれません」
――えっ! それはどういうことですか?
「裁判で、お母さんがつけていた日記が読み上げられたんです。その中に次のような言葉がありました。『自殺をしてしまったら、愛実はどうなるんだろう。あのDV夫に連れて行かれるのは嫌。だったら愛実も一緒にあの世に連れていくしかない』と」
――彼女が思い込みを強くした結果、愛実ちゃんを殺してしまった、ということがこの一文からうかがえます。
「この一文は、うちの施設職員が事件を起こす前に書かれていたものです。そして、うちの職員が事件を起こしたとき、お母さんは『ようやく(愛実と死ねる)チャンスが来た』と書いていたそうです。これらの文章から警察は『計画的犯行』と断じました。裁判で有罪判決が下されたのも、そのためです」
――事件後、父親が施設を訪れたことはあるのですか?
「事件後、当施設のことを知ったお父さんが電話をかけてきたことがありました。『できれば娘の写真だけでもいいので、遺品を何かもらえないでしょうか』と話されていました。しかし施設側はそのとき、『できるような状況になったらば、こちらから連絡いたします』と言って断ったんです。というのも、そのときはまだ、父親が愛実ちゃんに会うには、親権者であった母親の許可が必要だったからです」
――子供が亡くなった後もまだ親権者の方を見ていないといけないんですね。つらいです。それで、施設を父親が訪れたのはいつでしょうか?
「事件発生から約1年後です。裁判で有罪判決が出た後に、『遺品の引き取りができる状態になりましたが、いかがされますか?』とこちらからお電話いたしました。するとお父さんは『伺います』と即答され、後日、お父さんはジュースの段ボール箱を二箱持参して、施設に現れました。『これまで娘がお世話になりました。子供たちや職員のみなさん、飲んでください』と言って、くださいました。
そのときのお父さんの顔を見て、印象がまるきり違うと思いました。お母さんが口にしていた”DV夫でストーカー”という言葉からはほど遠い、穏やかで優しそうな人でした。しかも目や顔つきが愛実ちゃんにそっくり。
お父さんには施設での愛実ちゃんの暮らしぶりなどをお話しし、ランドセルとアルバムと絵や賞状、そして母子手帳などをまとめてお渡ししました。彼は涙を浮かべていました」
人生これからというときに、一番身近な人の手で人生の幕を下ろさざるを得なかった愛実ちゃんが、私には不憫に思えて仕方なかった。
また、7年ぶりに会えた娘の死を受け入れるしかなかった愛実ちゃんの父親の心痛はいかばかりのものだろうか。私は同じ父親として同情はできても、再会のとき何を思ったのかについては、想像することが難しかった。
話を伺った後、私は母親の住んでいた秋田市内のアパートに行き、周囲で聞き込みをした。しかし、彼女のことを知っている人は誰もいなかった。近所付き合いは皆無だったようだ。
秋田県が同年9月にまとめた本事件の『死亡事例検証報告書』には、「生活保護を受けていた母親は、祖父宅には帰りづらい状況があり、祖母やその他の親族とは交流すらなかった」ことが記されていた。
母親は親戚の誰にも頼っていなかった。家族だけではなく、周り近所とのコミュニケーションすら絶っていた。そうして自ら、孤独を選び、追い込まれていったのだ。
一方、父親は離婚が成立して以来、愛実ちゃんに一度しか会っていなかった。娘が施設にいることも知らされず、蚊帳の外に置かれ続けた。
「(離婚して娘に会えなくなってからは、)藁をもつかむような思いでした。市役所に行って相談に乗ってもらったり、娘の居場所も分からないので探偵社に片っ端から電話したり……。娘に会いたいという気持ちしか、当時ありませんでした」
元妻に娘を殺害された、愛実(めぐみ)ちゃんの実の父・Aさん(45)はゆっくりと、しかし力のこもった声でこう言った。
Aさんはなぜ愛実ちゃんに会えなくなったのか。その経緯を語ってもらう前に、まずは二人の出会いについて語ってもらった。
「元妻とは20代後半のとき、友達を集めた飲み会で知り合いました。第一印象は、明るくて気の合う美人。話をしたところ、同じ県南の出身ということや、お互い精神疾患をもっている同士ということで意気投合しました。実は私も軽い精神疾患をもっていて、そのことを打ち明けたところ、『実は私もそうなんです』って彼女は答えたんです」
波長が合い、共感し合うようになった二人は、まもなく交際を開始する。信頼を深め合い、知り合って6年後に結婚、秋田県D市に家を借り、同居を開始した。2002年のことだ。
そこで彼はこれまでは気づかなかった、彼女の性格を思い知ることになった。
「『知らない番号から電話がかかってくる』と実在しない人物のことを怖がったり、隣の家の人がこっちをじっと見ていると言い張ったり。そんな被害妄想を抱くようになりました。自分の都合にあわせて、事実を曲げて解釈して、その考えに固執するところがあったんです」
3年後に長女の愛実ちゃんが誕生すると、3人は近隣にあるAさんの実家で過ごすようになる。
「出産のダメージで元妻はずっと床に伏せるようになりました。娘はまだ産まれたばかり。日中、酒造店で働いている私の代わりに、母や祖母に実家で愛実の面倒を見てもらいました。
実家にやってきた愛実は『A家の宝物』として親族一同から大切に扱われました。
元妻は気まぐれに起きてきては『○時にミルク飲ませた?』などと母や祖母に聞いていました。その通りに飲ませていなかったり、愛実が泣き止まなかったりすると、母や祖母を強い調子で罵倒するんです。そういったことが続いたため、母や祖母は元妻に対し腫れ物にさわるように接するようになりました」
愛実ちゃんの首が据わるようになったころ、一家は結婚後住んでいたD市の借家に戻った。Aさんの母や祖母を元妻が毛嫌いし、不仲となってしまったためだ。
Aさんは、仕事に子育てにと、一人きりで頑張った。
「朝に愛実を保育園に送り、仕事に出ました。両立は大変でしたが、子供の成長を見つめる喜びもひとしおでした。遊びながらうたた寝してしまったり、ねんねしながら布団を蹴って布団から出たり。愛実のかわいい姿に心癒やされたんです。1歳ちょっとのとき、はじめてつかまり立ちしたときは、町中を走り回りたくなるぐらいに嬉しかった」
もともと理系の大学で研究をしていたAさん。お酒の営業という仕事は不慣れで、日々強いストレスを感じていた。しかも家に帰ると、ヘトヘトなAさんに元妻の罵倒が追い打ちをかけた。
「なんで時間通り、ミルクを飲ませてないの?」
「おむつの替え方、そんなんじゃダメでしょ」
Aさんが心も体も健康ならば、そんなストレスフルな生活でも乗り切れていたかも知れない。しかし彼には20代の後半に鬱病が原因で会社を辞めたという過去があった。そしてある日、Aさんの我慢は限界を迎え、爆発してしまった。
「鬱病が再発してしまって、仕事にならなくなり、会社からクビを宣告されました。
その日の夜のことです。途方に暮れた私は、まっすぐ家に帰らず、車で寄り道をして、不法侵入及び窃盗という罪を犯してしまったんです」
Aさんは逮捕され、執行猶予付きの実刑判決を受ける。その間、彼は診察を受けており、「統合失調症」と診断された。彼は治療も含め、3ヵ月ほど拘留されてしまった。この症状のひとつに「盗癖」があるが、日々強いストレスを感じる中で、この症状が出てしまったのかもしれない。
釈放された後、Aさんは実家に身を寄せる。元妻と愛実ちゃんが住む家へと通い、食料を届けるという日々を過ごした。
「元妻はずいぶん怒っていました。『玄関にお米を置いて、そのまま帰って』とドア越しに言うだけで、娘には会わせてくれません。そうしたことが続き『もう離婚するしかない』と腹をくくるようになりました」
ほとんど寝たきりなのに、元妻は一人きりで愛実ちゃんを育てていた。家に入れようとしなかったのは『こんな状況に追い込んだのは夫のせいだ』と夫を恨んでいたからなのかもしれない。
2009年5月、Aさんは弁護士をつけず、離婚調停を申し立てた。
「その年の8月、調停を3回行った時点で決着しました。財産分与は半分ずつ。もめたのは愛実の親権でした。私はこう主張しました。『妻に愛実は育てられないだろう。こちらには面倒を見る人はたくさんいる。それに私自身、回復次第働ける』と」
対する元妻は次のように主張した。
「犯罪者には預けられない。私の家族は私や愛実をしっかり支えてくれる。愛情をこめて愛実を育てられます」
こう主張したが、実際には元妻は家族との付き合いをほとんど絶っていた。父親とはかろうじてつながっていたが、ほとんど会っていない状態だった。それは後にD市や秋田市の児童相談所が把握したり、本件の刑事裁判で検察官が指摘したりしたことだ。
当時、調停委員は、彼女が孤立していることについて、気がついていなかったようだ。それどころか、個別の事情について、注意を払おうともしなかったことが窺える。
「二人の調停委員は、時間に追われた中でいかに早く調停を成立させるかということばかり考えている印象。すべてが事務的で何の感情も挟まずに進行しているようでした」
離婚裁判では、一緒に暮らしている方が有利という「継続性の原則」や「母性優先」という考えが根強く、親権は女性へと認められることが一般的だ。しかもAさんは罪を犯しているという「失点」がある。残念ながら勝ち目はなかった。
「元妻が提案してきた『月に1回程度、愛実と面会をさせる』。という条件で話が決着しました」
調停が終わった後、Aさんはさらに苦境に立たされる。月1回程度という面会の取り決めが事実上、反故にされたのだ。
「『インフルエンザが流行っているから会わせられない』とか、『子供に会わせろじゃなくて、罪に対して謙虚になることの方が先じゃないの』とか、そんな理由で断られ続けました」
Aさんが愛実ちゃんにようやく会えたのは離婚の少し前。離婚調停の開始から1年
近くがたった後のことだ。
「家に入れなかったので自分の荷物を置いたままでしたし、何より愛実のことが心配でした。今から荷物を取りに行くからと連絡を入れてから、元妻に刺される覚悟で家に入りました。
幸い、何事もなく家に入れて、愛実と会えました。虐待とか育児放棄の気配はなく、その点では安堵しました。愛実は私を覚えていてくれて、見つけた途端、『おとうしゃーんあそぼー』とうれしそうに駆け寄ってきてくれました。
何度も『高い高い』をねだられて、重かったけども、それがうれしかった。その日は夜になるまで一緒に遊びました。疲れて眠ったのを見届けてからそっと、愛実の元を離れ、実家に戻りました。それが愛実と生前に会えた最後の時間でした…」
Aさんに対する警戒心を強くしたのか、その後、元妻は愛実ちゃんを連れて引っ越してしまったのだ。
心配したAさんは、行動を起こす。D市役所へ行ったり、探偵社へ捜索をお願いしたり、幼稚園や地域の民生委員に見守りをお願いして回ったり……。さらには元義父にお願いして教えてもらった住所に「面会させて欲しい」と記した手紙を送ったりもした。
ところがそうしたAさんの必死な行為が元妻の被害妄想を刺激してしまう。
「警察から電話がかかってきたんです。『ストーカー行為で被害届が出ています』とのこと。元妻の言うことを真に受けているようで、私の言い分を全然聞かない。警察から『これは警告ですから。言いましたからね』と言われ、一方的に電話を切られました」
先ほど、児童養護施設の院長が母親から被害届が出ていることを確認し、『元夫=危険人物』と見なしたという話を紹介した。そのときの被害届とはこれのことである。
このとき元妻は「DV等支援措置」という制度を利用し、Aさんが連絡できないようにしてもいる。これは、DVやストーカー、虐待などの被害者が、加害者から「住民基本台帳の一部の写しの閲覧」、「住民票(除票を含む)の写し等の交付」、「戸籍の附票(除票を含む)の写しの交付」の請求・申出があっても、これを制限する(拒否する)措置が講じられるというもの。
被害者が戸籍や住民票を置く市町村に申し立てをすることで、措置の効力が発揮される。この措置が問題なのは、被害の内容が精査されないことだ。そのため、実際に被害がなくても申し立てをするというケースが多い。
本件のケースもそれに当たるのだろう。元妻はDVの被害はなかったものの、Aさんが「面会させてほしい」と連絡をしてきたことを理由に、ストーカーの被害を受けているということで警察に被害届を出した。警察が相談機関として窓口になり、DVの有無を十分に確認しないまま、ストーカー被害についての意見書を提出、最終的にはD市がこの措置を決定した。元妻は縁を絶ちたいという目的だけで、この制度を利用してしまった可能性がある。
元妻が支援措置を利用することで、Aさんは元妻や愛実ちゃんの居所を知るすべがなくなってしまった。
「その後、送った手紙すら届かなくなってしまいました。D市役所に訊ねても住所非開示とのこと。こうして完全に消息不明となってしまいました」
そして、最愛の娘が殺されるという事件が発生する――。
2016年6月21日。Aさんは前日に起こった事件のことを新聞から知る。衝撃を受けたAさんは、すぐに車で秋田市へ向かった。元妻が拘留され、愛実ちゃんの遺体が保管された管轄の警察署につくと、Aさんはさっそく事情聴取を受けることになった。聴取が終わった夕方、Aさんは、警察の計らいで愛実ちゃんの最後のお別れをすることになった。
「もちろん、会いたいという気持ちはすごくありました。だけど不思議なことにすごく足取りが重かったんです。一歩踏み出すのがすごく重かった。
検視室で私を待っていた愛実は、裸に布団をかけられただけの状態でした。司法解剖時に髪を剃って開頭したのか、頭には包帯が巻かれていました。首を絞めて殺したそうでしたが、絞められた部分に痕らしい痕はありませんでした。穏やかな表情とはかけ離れ、赤紫色の顔で、何かを訴えたそうに、大きく口を開けていました。
変わり果てたわが子の姿を目の当たりにし、殺されたという現実をまったく受け入れることができず、何の言葉も出ず、涙も出ず、ただただ体を震わせていました。なぜ震えていたのかは私自身わかりません。他人であってほしいという気持ちかもしれませんし、この子供はたぶん他人なんだという風に自分に言い聞かせていたのかもしれません」
――それが愛実ちゃんとの最後のお別れだったんですか?
「いえ、翌日の午前中に、今度は私の母と祖母の3人で、愛実に会いに行きました。新生児の頃、よく面倒を見てくれていた母と祖母に、愛実を一目会わせたい――そう思ったんです。
『こんなに大きくなったのにな。なんでなんでなんで』と母と祖母が対面した途端から泣きじゃくりました。私も声を上げて、大泣きしました」
そのときの心情についてAさんは次のように語った。
「元妻にどれだけの恐怖を最期、感じさせられて、亡くなっていったのか……ということです。一番信頼しているはずの母親に首を絞められている姿が人生の最期だと思うと、かわいそうでかわいそうで……そんな考えが浮かんできました」
先ほど触れた通り、1年後の2017年に行われた刑事裁判では、元妻が愛実ちゃんを道連れにするといった動機が日記から判明。殺害の意思はあったと認められ、一審で懲役4年が求刑された。
「死因は裁判で判明しました。ゆるい力で十数分間、締め付けられたそうです。近くにタオルがあったということなので、もしかするとタオルで絞めて、そのまま放置をした可能性があると。残忍だと思いました」
元妻は控訴する。犯行の記憶を思い出せず、身に覚えがないということで無罪を主張した。しかし、彼女の訴えは認められず、事件から2年近くがたった今年(2018年)3月、一審の求刑通り、最高裁にて懲役4年という刑が確定した。
現在、Aさんは毎朝、仏壇に飾っている愛実ちゃんの遺影に向かって手を合わせている。そのときAさんは心の中で愛実ちゃんに語りかける言葉があるという。
「『いつも1日たりとも忘れることはなかったんだよ。決して捨てたわけじゃないから。それはわかってね。ずっと今でも愛しているんだよ』という言葉です。もし生きて再会していたら、この言葉を直接伝えてあげたかった……」
そう言うと、Aさんは感極まって涙を流し始めた。向かい合って話を聞いていた私は、無言で頷くことしか出来なかった――。
児童相談所の判断次第では、事件は起こらなかったのではないか。
例えば、愛実ちゃんの一時保護や入所を決定する前に、父親に連絡し意見を求めたのか。
施設に入所した後であっても、裁判所で決定した1月に1回程度の面接(面会交流)という取り決めに沿って面会を行えていれば、ある程度の抑止力になっていたのではないか。
父親との接触が難しくても、迎えに来た母親の様子を施設の職員が注意深く見ることで、異変を察知し一時帰宅を断ったり、一時帰宅時のお宅訪問という形で職員が見回りを実施したり、といったことはできなかったのか。
このうちひとつでも行えていれば、救えた命だったのではないか――。
この事件の背景にある児童相談所の対応について、広報を担う秋田県県庁健康福祉部地域・家庭福祉課の佐藤寧さんに話を聞いた。
――この事件を防ぐ手立てはなかったんですか? 母親の様子に異変があれば一時帰宅を中止することだってできたのではないでしょうか?
「親が施設から子供を連れて、自宅で一時外泊するというケースは珍しくありません。愛実ちゃんの場合、母親の愛情が非常に強かった印象があったので、お迎えの際、職員が数人でチェックをしても、危険かどうかの判断は困難でした」
――両親の離婚がどのようになされたのかとか、そこに面会交流の取り決めがあったことについては把握していたんでしょうか? そうした情報について、児童相談所が独自調査を行うことはあったのですか?
「父親と月1回という面会交流の取り決めについては、D市が母親から相談を受けた時点で把握していました。DV等支援措置によって住所が非開示になっていることや警察への被害届も同様です。
児童相談所には捜査権はありませんし、役割分担ということで警察や役所の判断を尊重しました。ですから調停の経緯を閲覧するといった独自の調査はしていません」
――とすると、施設への入所を決定する前に、父親に事情を聞くことはなかったんですか?
「父親に話を聞くことはありませんでした。児童福祉法の27条4項で『(措置入所させるときには)親権を行う者又は未成年後見人の意に反して、これを採ることができない』となっています。法律上、保護者や親権者の権限が大変に強いので、今回のケースでも親権者である母親の意向に添いました。
そういった事情がありますので、親権のない人に事情を聞くことは今後も考えにくいです。
あと保安上の問題もあります。父親に連絡した場合、子供の居所が特定されかねません。当県の相談所や施設の数は限られていますから」
児童相談所の回答をどう考えれば良いのだろうか。離婚などで会えなくなった親の代理人を務めることがしばしばあり、親権問題にも詳しい今瞭美弁護士。彼女に事件が起こるに至った原因についてうかがった。
「児童相談所は、調停条項に基づいて父親との面会交流をさせるべきでしたし、子供が児童相談所に入所していることを父親に知らせるべきでした。
被害届は誰でも警察に出せるものです。ストーカーで処罰されていれば別ですが、実際に被害にあったかどうかは被害届だけでは判断が出来ません。DV等支援措置にしてもそうです。申請があれば事実関係を調べないまま、住所や戸籍をブロックしてしまうというのが実情です。
Aさん自身、『元妻にDVや虐待、ストーカー行為をしたことはない』と話しています。少なくとも、単に、母親の主張だけで、児童相談所が決めることではないことは明らかでした。子供が両親に愛されて、両親に自分の存在を認識してもらって、そして成長していけるという子供の権利について、児童相談所は無神経すぎます」
Aさんの発言すべてが正確かどうかといえば、多少、自分にとって有利なように物事を理解している可能性もあるだろう。ただ、面会の権利は認められていたのだから、今弁護士の言うとおり、児童相談所がもっと柔軟な態度で対処していれば、悲劇は防げたのかもしれない。
親権者の権利しか考えられていない現在の児童福祉法のあり方からすると、おいそれと親権者の考えを飛び越して行動に移すことができない。一方で、Aさんのような非親権者の権利についてはほとんど考えられていない。
子煩悩だったAさんの娘に会いたいという気持ちも、DV等支援措置の「抜け穴」によって、住所を伏せられ、面会は行われず、最後はこうした悲劇へと至ってしまった。
児童福祉法を改正したり、児童相談所や施設が独自で動いたりすることができない限り、今後もこうした悲劇は起こりうるのではないだろうか。
西牟田 靖