この連載を始めたのは、一年ほど前、親子断絶防止法という略称の法律案が国会への上程がもくろまれたとき、この法律に反対するために、「子どもに会えなくなった親がおかしい」「会えない親に原因がある」という別居親や男性に対する攻撃が、大量に世間にではじめたのがきっかけだ。
こういった攻撃は、子育てを担うのは女性、別れた親子は会わない方が子どもが落ち着く、別れた父親は母親側の家庭の安定を乱すべきではない、さらには、女子どもを養うのが男の仕事、といった固定観念を強化するものだったことは何度も説明してきた。そのために、面前DVにおける子どもの脳の萎縮、アメリカにおける男性が養育権や訪問権を得た場合の殺人事件の統計、さらには国内において、面会交流中に起きた殺人事件などが利用された。さらに戸籍や単独親権といった日本独特の法制度の存在や、家庭裁判所はきちんとした審理をしている、という一般的な国家機関への信頼感が批判のためにくすぐられてきた。
この連載ではそれらがいかに男性や別居親へのヘイトを正当化してきたのかを、現場の実情に即して批判してきた。そしてこういったヘイトが、フェミニズムを標榜してきた学者や弁護士、活動家の中からなされてきたことについては、否定のしようのないことである。彼らは、「東アジアの価値感」を掲げて、親子引き離しを擁護する梶村太市のような元裁判官と並んで論文や出版を続けている。戸籍制度や天皇制のオリジナリティーを拠りどころに、彼らが現状の社会構造を支えるための論陣をいつ張るのだろうかと心待ちにしている。
左派系メディアがフェミニストの主張に引っ張られて、この問題に逃げ腰な一方で、右派系のメディアは、フェミニズムを叩くツールとして、意識して引き離し問題を扱う場合がある。その現状分析は当事者の目から見て公平な部分のものが少なくないが、右派系のメディアを当事者団体が持ちあげれば、「やっぱり彼らは反動」という印象付けを許すことにはなる。答えは反動的な側面は右も左もメディアにはある。
フェミニズムが、男女平等の観点から、女性が置かれた不利な地位の解消に向けて、様々な社会的な課題に取り組んできたことについてはその通りだろうし、その概念が社会的な権力構造を批判するものとして一定の有効性を持っていることについてことさらに否定することはしない。しかし、現状の不平等の改善ではなく、弱者としての女性の保護や、権力者としての男性の批判、といった男女平等のための手段が目的化すると、個別の男性が置かれた不平等や権利回復の主張に対して、課題として取り扱わないだけでなく、敵視することにもなる。小学生の「男子対女子」の戦争とレベル的にたいして変わらない。
昨今、女性専用車両に対して男性たちが抗議の声を挙げている。しかし、イギリスでは女性専用車両について、フェミニストが、性犯罪を公認するというメッセージを社会に送ってしまうと、反対したというのが報じられている。「女性優先車両」ならまだましだったのかもしれない。しかし、男性を排除するために女性専用車両が用いられるとすれば、それは新たなアパルトヘイトだろう。
では男性専用車両を作れば平等か。男性運動の観点から批判するなら、それは痴漢冤罪を公認するというメッセージを社会に送ってしまうのでやはり許されないことになる。分離強化が問題解決に至らない一例だ。
引き離し問題へのフェミニストの中からの敵意は、当事者の目からすれば、彼らの目的への限りない猜疑を抱かせるに十分である。
ぼくは昨年週刊金曜日が別居親へのあからさまなヘイト特集を掲載し、それに対して抗議や公開質問をした時点で、ライターとして週刊金曜日とのつきあいはやめてしまった。もめている最中に編集長には、「宗像さんが代諾養子縁組されたことについて記事にするのはどうか」と提案されたことがある。「だから黙らせてくれ」というおよそ人権問題を扱う雑誌として不道徳な提案だったが、この件については読者投稿欄で現在公開討論会を呼びかける手続きをとっている。
そもそもぼくが運動しているのは、子どもやそのために自分を守るためであって、主義主張はその手段にすぎない。自分の子どもを犠牲にしてまで、説得力のないフェミニズムの理論をよいしょするほどの余裕はない。実際、ヘイトキャンペーンの煽りを受けて、ここ1年ほどの裁判所の決定は、肌感覚で別居親に冷たくなっており、ぼくも家裁で得られた月1回8時間の決定が、高裁で月1回4時間に、たいした理由もなく減らされたりしている。こういった損害が、見開きの記事程度の原稿料で贖えると思っているとしたら、週刊金曜日のライター蔑視も相当だろう。
昨日、この春高校に上がるはずの上の子の部活の最後のコンサートがあって、見に行った。単独親権制度であろうと、親が子どもを育てること自体が否定されるものでもないだろう。しかし、月に1回2時間や4時間といった、常軌を逸した決定を裁判所が出し続ける根本的な理由は、男性が子育ての主体でという認識が彼らに欠けているからだろう。その古い感覚を正当化する手段として、単独親権制度が用いられる。
上の子は元妻の連れ子で、ぼくは2年間いっしょに暮らして、2年半引き離され、その後4年ほど下の子と定期的に会い続け、そして中学校に上がる前に再び引き離されている。一週間に一度は手紙やはがきを送るのをこの10年欠かしたことはない。その間も学校行事には行き続けてきた。しかしこういったぼくの上の子へのかかわりは、法的には無関係の他人への「執着」として元妻側の弁護士は執拗に批判し、現場を知らない裁判官はその主張に迎合する(実際ぼくは未婚だったので上の子との法的地位はずっと変わらない)。
これを逃せば上の子の進路もわからなくなるし、せめて話す機会でもあればと、休み時間やコンサートの後に声をかけようとしてみたが、対応はしてくれても会話には入っていかなかったし、プレゼントも渡せなかった。毎回会った当初はふてくされてはいても、慣れてくればぼくとの交歓を拒まなくなる下の子と違って、かつてはいっしょに暮らしていても、ときどき顔を見るぼくの存在は、この子にはどう映るだろうと、いつもいつも考えるし、そっけない態度を示されれば諦めの気持ちが強くなる。
でもよく考えれば、諦める中身もぼくに確信が持てるわけではない。それでもこの先会わないことがその子のためになるとはどうしても思えない。そんな会話を年末の授業参観のときに、たまたまする機会があった。
上の子が聞いてきた。
「どうして」
ぼくは答えた。
「だって寂しいじゃない」
(宗像充、「府中萬歩記」49号より)