ジェンダーウォー第11回 子どもの奪い合いと子どもの意思

2月、一昨年9月に申し立てていた親権者変更の裁判で、二審東京高裁の決定が出た。結果は現在の隔月4時間の子どもと過ごす時間が、毎月4時間に変わった。回数は回復したものの、一審で出ていた毎月8時間という決定を覆して時間は減っていたから正直がっかりした。

親権者変更については、元妻が別れた後に結婚して子どもが養子縁組され、子どもが「新しい家庭の子ども」とされたことから、数年前の最高裁の決定によって認められないことはわかっていた。離婚や未婚で子どもが親権者の結婚相手の養子に入れられると、最高裁は親権者変更の申請自体を認めず、その場合は、親権者2人の親権喪失の手続きをとるように言っている。親の再婚はその親の選択なのだが、その場合、親権のない親はただちに親権者として立候補できなくなっている。そんな人権侵害の法適用があっても、2007年に子どもと引き離されて以来4度目の家裁で、時間と回数が回復したのだ。

家裁の決定も、学校に行ってもいいが子どもに声をかけないようにというような、別居親への偏見丸出しのものでいいものではなかった。それでも遠方に出かけたりすることもあるだろうからと時間は延長していた(宿泊については時期尚早としていた)し、双方の対立状況を解消したいという意思はあった。しかし高裁は未成年者の陳述内容からその意向を尊重し、時間の増加は必要ない、と現状維持にとどめた。ただどの子どもの意向が尊重されて、現在の時間になったのかは決定文を読んでもわからない。具体的な理由がないのだ。

千葉家裁は決定を出すにあたって裁判所の調査官による子どもの意向調査を行った。手続き保障とは聞こえがいいけれど、現実には子どもの意思を聞き取ることなく子どもの身柄を移した後、引き離しておいて子どもの意向を聞く。言うまでもなくこの意見表明は強制されたものだ。何しろ会わせたくない親のもとで「会いたい」なんて不用意に言ってしまったらどんな目に遭うかぐらいは、年かさの行った子どもであればあるほど想像できる。

ぼくの娘もこれまで3度の調査官調査をしている。最初のときはまだ小学校に上がる前の交流時間を回復させるための申し立ての中だったけれど、会うことを楽しいと素直に答えていた。だけど小学校6年生にもなって、そんな無邪気な言動ができるわけもない。それでも今回の調査に当たった調査官は、以前の調査官の聞き取りで楽しがっていたことについて触れると、子どもが「にっこりと笑った」と報告書に記載していた。

今回の調査にあたって、ぼくは裁判官に対して、以前の調査官調査ですでに子どもの意向は表明されているんだから、今更意向調査なんて必要ないと言っている。親権者変更は、母親とその夫が半年の間親子関係を引き離したうえで、そのことについて不法行為を認められ損害賠償を支払ったことをきっかけにしている。父子関係を壊す母親側の意思は明白なのだから、それを抑止する程度に養育時間を回復させるか、親権者を変えるしかないというのが訴えた理由だ。母親側の引き離し行為は立証済みなのだから、そもそも子どもの意思は関係ない。

「こんな状況だから子どもは今のままでいいと言うと思いますよ」とそう主張した。調査官は高裁で覆されないためにも手続きはとっておかないとという。つまるところ裁判所の都合だ。でも調査官や裁判官の解決への意思も一定感じたので、協力することにした。調査官も子どもの表面的な発言だけで判断することはないと言っていた。

子どもには調査の前に会ったときに「裁判所の人には、あなたが『今のままでいいと言うかもしれない』と伝えているから。好きなこといいな」と事前に伝えていた。調査官調査では、子どもが「好きなことを言う」と冒頭調査官に話していたことが記録されている。子どもはぼくが「会いたい」ということはわかっていたし、母親が「会わせたくない」というのもわかっていた。

どうしてそう思うのかと聞かれて、ぼくが子どもの学校に行ったとき、子どもの部活動をたまたま見かけたのに気づいた子どもが、それを母親に知らせると「いやだね」と言われたことを理由に挙げている。とはいえ、たしかに子どもは時間を延ばしたり、宿泊することについては消極的な発言をしている。にもかかわらず、調査官は時間を6~8時間にすることを提案している。子どもの意向ではなく親どうしの対立状況が低くなっているからというのだ。

家裁の決定が出た後、母親は子どもの意向を支配し、対立を高めるためにさまざまなことをした。子どもにぼくが送った手紙を、子どもの名前とともに「受け取り拒絶」と書かせた紙を貼り付け送り返す。授業参観に行くと子どもが欠席していた。問い合わせると弁護士を通じて「宗像さんが学校に行き続ける限り今後も休むことがありうる」と返事が来る。高裁には子どもが面会を減らしてほしい、と書いた陳述書が提出される。こういったハラスメントに過剰反応すれば、対立が強いと言われて交流を制約される根拠とされる。

結局高裁は、調査官調査に記載された子どもの表面的な発言をもとに、調査官の勧告も無視して時間を縮めた。何のための「専門家」なのか意味不明だ。裁判所に振り回され決定が出るまで一年半かかった。驚いたことに、一審が述べていた遠方に出かけることについては、そうしなくても福祉は増進できる、とおよそ不道徳な理由で否定していた。

現在面会交流を進める立法の議論の中で強調されるのが、子どもの意思を聞き取る手続きの保障だ。実態はこんな感じだ。結局、「会いたい」と言えない子どもを尋問して親をあきらめるように口を割らせる行為が「手続き保障」の名のもとに正当化される。その間は「手続きが取られていないから」と親子が引き離される。

言うまでもなくその間に引き離しが固定化され、連れ去り自体が問われることはない。どうしてこんなことがまかり通るのだろうか。結局、父親自体が子育ての主体とはみなされず、別れれば母親が子どもを見ればいいのに権利を主張するなんて、という偏見の中で裁判所が中立を維持するのは本質的にできないということだ。

そこで重視されるのは、戸籍という枠組みだ。子どもは自分の意見や欲求を表明する権利はある。しかしそれは周囲や大人が自由に欲求を表明できる環境を整えることができてこそだ。それもないのに、子どもの意思を持ち出すこと自体、大人の責任逃れと言われても仕方がない。(宗像充、「府中萬歩記」48号)

http://aoyagiksodan.seesaa.net/article/458784167.html

6年前