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『わが子に会えない』(PHP研究所)で、離婚や別居により子どもと離れ、会えなくなってしまった男性の声を集めた西牟田靖が、その女性側の声――夫と別居して子どもと暮らす女性の声を聞くシリーズ。彼女たちは、なぜ別れを選んだのか? どんな暮らしを送り、どうやって子どもを育てているのか? 別れた夫に、子どもを会わせているのか? それとも会わせていないのか――?
第13回 尾崎豊美さん(仮名・47歳)の話(前編)
「長女を妊娠してまもなく、夫に700万円の借金があることがわかりました。節約に節約を重ねて完済しても、ねぎらいの言葉はありません。それどころか、私を見下すようになりました」
学校事務員で面会交流支援団体びじっと職員の尾崎豊美さんは高校生2人、中学生1人の子ども3人を1人で育ててきた。元夫に養育費や慰謝料は請求していない。なのに存分に会わせているという。どういうことなのか?
■レストランで一目惚れした男性と知り合って半年で結婚
――旦那さんになる男性とは、どうやって知り合ったんですか?
東京で専門学校を卒業した後、OLとして働いていました。夫になる人は、友達と一緒に出かけたレストランの店員でした。福山雅治をきゃしゃにした感じの人かな。バツイチで、私よりも3歳上。事故で幼子を亡くしています。そのことで、前の奥さんと折り合いが悪くなって離婚したんだそうです。
――好きになったのは、どちらだったんですか?
話をして、あっ、と思ったというか。ビビッときたというか。それは、お互いがそうだったようです。彼のお父さんはすでに亡く、お姉さんは体が不自由でした。そんなふうに肉親や子どもを失うつらさを知っている人だからこそ、結婚や家庭というものをわかってるはず。だから大丈夫。彼となら幸せになれる、って思ったんです。
――アプローチは、どちらからですか?
夫が「豊美じゃないとだめだ。豊美がいなかったら俺は死ぬ」って、そんなことを言うんです。そこまで言ってくれる人だから、守ってくれるはず、って思っちゃった。知り合って半年で結婚しました。春に知り合って数カ月でお互いの実家に挨拶に行き、秋には同居を始めたんです。そのタイミングで婚姻届を提出して、年明けに式を挙げました。20年ぐらい前のことです。当時、私は20代後半という微妙な年齢でした。
――新婚生活は、どうでしたか?
それなりに甘い生活だったんだと思います。新居は、彼の勤務先であるレストランにほど近い、都心の物件。同居してしばらくは、私も働いていました。給料の半分ずつをお互い出し合って、あと半分ずつは貯金をしようっていう約束で、その通りにやっていました。
――出産願望はあったんですか?
もちろん。3人は欲しいと思っていたし、すぐにでも欲しかった。だけど、なかなかできなかったんです。妊娠がわかったのは、結婚して2年近くたってから。ちなみに仕事は、妊娠して1カ月ほどで辞めました。つわりがひどくて、仕事が続けられなくなったんです。
――妊娠後、旦那さんは頑張って働いて、生活費をを豊美さんより多く入れてたんですか?
つわりがひどくて働けない私の代わりに、彼がたくさんお金を入れてくれるのかと期待したら、入れる額がそのままだったんです。「これじゃ、生活していけないよ」って言って、問い詰めたら、多額の借金を抱えてるってことを打ち明けられたんです。その額は約700万円。額の大きさに、開いた口がふさがらなかった。
――なぜそんなに借金が膨らんだんですか?
彼は、以前働いていた某アパレル会社で営業をしていました。その会社で、業務成績を上げるために、自腹で靴を買っていたんです。それに金遣いが荒くて、派手好きな人だってこともわかってきました。だから、余計に借金が膨らんでしまった。ちなみにその借金、全部サラ金で、大手の4社から借りていました。
――借金を目の前にして、どんなことを考えましたか?
それでも、別れようとは思わなかったし、堕ろそうという気持ちも起こらなかった。入籍してから2年近くかかって、やっと授かった子だったので。だから、別れずに借金を返していくことを考えました。
――借金は、どうやって返済したんですか?
返済プランを考えて、それを実行しました。夫が借りているすべての業者に電話をかけ、利率や借りている額を聞いていきました。当時はまだ個人情報保護法が成立してなかったので、「家内です」と言えば、どこのサラ金業者でも教えてくれました。そして利率の一番低い会社で新たにお金を借りて、高い会社の借金を返済していきました。
2人の持ち物を売ったりもしました。クローゼットがすべて埋まるほどあった夫の靴や服。また、高価で必要のないもの、使ってないものは、すべて売りに出しました。当時は、すごく文句を言われましたけどね。
――ほかに具体的には、どういう節約をしたんですか?
肉や魚などの生鮮食品を、肉のハナマサなどの業務用食品店で、月に数回、まとめ買いしていました。そうやって、なるべく買い物に行かないようにしていたんです。あとは、まったく洋服を買わなくなったり。最終的に3人できた子どもたちの洋服は全部お友達からのお下がりで、何ひとつ買ってあげていません。買ったのは、妊娠してるときに着てた緩やかなワンピースぐらい。服がないので、妊婦なのにOL時代の服を着たりしてました。
夫は子育てにまったく関わらなかった
――旦那さんは、子育てにどうやって関わったんですか? 子煩悩でしたか?
「俺は仕事を優先するから」って明言していて、離婚するまでの間、子育てにまったく関わらなかった。私にどれだけ熱があっても、彼は寝ていましたから。子どもが成長していくにつれ、鉄棒、キャッチボール、補助なしの自転車と、いろいろ付き合ってあげるじゃないですか。そういったことは、普通父親がやりますよね。だけど、うちは別。それらは3人とも全部、私が付き合いました。
――旦那さんはその分、仕事熱心だったんですか?
飲食の仕事で、勤めては辞め、勤めては辞めを繰り返していました。プライドが高いし、困難なことがあると逃げちゃう人なので、人間関係で衝突したりすると、すぐ辞めちゃってた。長男が生まれてからすぐ、彼の実家のある関東北部のG県で飲食店に就職したんですが、そこも1年弱で辞めました。そうやって退職を繰り返しても、飲食業界は求人が多いので、なんとかなってたんです。もちろん、辞めるごとに、給料は下のランクからになりますけどね。
――職を転々とするたびに、引っ越してたんですか?
G県のホテルを彼が1年弱で辞めてからは、多摩にある私の実家に引っ越しました。でも、実家にいたのも1年ほど。というのも、次男が生まれたからです。それからは、新婚時代に住んだあたりに、また引っ越しました。その後、父が二階建ての一軒家を買ってくれてからは、別居中のとき以外、ずっとここに住んでます。
――次男誕生後の生活は、どうだったんですか?
今は健康そのものなんですが、生まれた頃、次男は体が弱くて、何度も手術を繰り返していました。それで私、落ち込んじゃって、よく泣いてました。夫は慰めるどころか「そんなふうになるんだったら、子どもなんて産むな」って怒鳴るんです。腹が立って「そんなこと言ったって……」って言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴りながら、平手打ちされてしまって、私は口の中を切ってしまって、そのとき「この人とは、ずっと一緒にはいないかも」って考えが、頭の中をよぎりました。
――借金は、いつ返し終わりましたか?
北京オリンピックが開催された年に三男を産んで、それからまもなく借金を返し終わりました。限界まで節約したことで、少しぐらいねぎらいの言葉があるかと思ったら、まったくない。それどころか、見下したような話し方と態度でした。たとえば食事時に、料理が気に入らなかったのか、いきなりキレて「こんなもの食えるか」って怒鳴りながら、茶碗やお皿を投げ捨てたことすらありました。
――以前のように、旦那さんから暴言を吐かれたり、叩かれたりしたのでしょうか?
もちろんされました。三男が生まれて、私がつきっきりになっていたとき、長男が若干荒れちゃったんです。通っていた小学校は、そんな長男の異変を把握していたようで、ある日、学校から連絡があって「発達検査を受けるように」と伝えられました。学校から言われたことを泣きながら夫に伝えると、「お前の育て方が悪いからだ」って素っ気なく言われたんです。「全部が全部、私のせいにばかりしないでよ」と泣きじゃくりながら言い返したら、「かわいくねえな」って怒鳴られて、叩かれたんです。そのとき私、「この人とは終わった」って直感的に思いました。