「夫婦は一生添うべし」が当然ではない理由

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江戸時代の日本は「離婚」「再婚」大国だった!

3組に1組の夫婦が離婚する――。これをさもセンセーショナルなことのようにメディアは報道しますが、日本の歴史をふりかえれば、ちっとも特異なことではありません(写真:Satoshi KOHNO / PIXTA)

「結婚しないと、孤独死するぞ!」

既婚者が、結婚しない人々、「ソロモン」たちによく言う言葉です。確かに、そうかもしれません。高齢となって、突然の脳出血や心臓発作などを起こしても誰にも気づかれず、そのまま息絶えてしまう可能性は否定できません。

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とはいえ、結婚したからといって孤独死しないとは断言はできません。結婚してもソロに戻るリスクはあるんです。そのひとつが離婚です。以前この連載でも取り上げましたが、離別した夫の自殺率が高い(「2035年「人口の5割が独身」時代がやってくる」)というデータは、既婚男性の妻に対する依存度が高いことをあらわしています。

離婚率は、戦前と比べて3倍に膨れ上がった。が……

今回は、そんな「離婚」について取り上げたいと思います。2015年の人口動態調査によれば、離婚件数は22万6198件あり、人口千対離婚率(普通離婚率)は1.8となっています。ピークは、2002年の28万9836件(同2.3)で、最近はやや減少傾向にあるとはいえ、太平洋戦争直前のもっとも離婚率が少なかったときからすると、実に3倍に増えています。

ちなみに、人口千対離婚率ではなく、離婚数を婚姻数で割った比率(特殊離婚率)で見ると、2001年以降継続して35%以上をキープしています。よくマスコミが使う「3組に1組は離婚する」という表現は、ここからきています。

この人口千対離婚率1.8という数値は、世界の中ではどのあたりに位置するのでしょうか。総務省統計局の「世界の統計2016」によれば、72カ国中41位(離婚率判明国のみ対象)と、ほぼ中間に位置しています。1位はロシアの4.5(2012年)で、アメリカは2.8(2011年)で11位、韓国が2.3(2013年)で17位となっています。

「夫婦は一生添い遂げるべし」は“日本人らしく”はない?

「夫婦とは一生添い遂げるものだ」。そう考える人からすると、日本人の離婚率の上昇は、「日本人らしさを喪失している」ことのあらわれだと嘆かれる方もいるかもしれません。

でも、そもそも日本が離婚大国だったという事実をご存じでしょうか? 総務省統計局の「帝国統計年鑑」を紐解くと、1893年(明治26年)の人口千対離婚率は3.38でした。現在の離婚率のほぼ倍、現在のアメリカの離婚率をはるかに凌駕していました。江戸時代に遡るとさらに離婚率は高かったようです。2006年参議院調査局第三特別調査室「歴史的に見た日本の人口と家族」によれば、江戸期の人口千対離婚率は4.8もあったそうです。現在の世界1のロシアより上です。江戸時代の日本の離婚率は、いわば現在の世界トップレベルだったわけです。

「三行半(みくだりはん)」という言葉があります。離縁状の俗称で、正式には離別状、あるいは去状(さりじょう)などと言っていました。誤解している人が多いのですが、この「三行半」は、夫が妻に対して一方的に突き付けるものではありません。離婚というものは、双方の承諾がなければできませんでした。決して、夫だけにその権利があったわけではないのです。

また、三行半は、「離縁状」というだけではなく、「再婚許可証」でもありました。江戸時代でも重婚は罪に問われました。だからこそ、離婚の証拠がないと再婚ができないのです。夫から妻に出すのが「三行半」で、それを受けて「返し一礼」なるものを妻から提出します。これにてめでたく(?)2人の離婚が成立し、互いに別の人と再婚することができるようになるわけです。

ただ、すべてが円満離婚だったわけでもなく、互いにもめた場合、調停に至ることもあります。今で言う離婚調停です。それを見ると、夫の経済力や生活力のなさ、つまり甲斐性なしの夫に妻が愛想をつかして離婚してくれ、と訴えたものもありますし、今で言う夫のDVを訴えたものもあります。妻が夫の暴力をただひたすらに耐え忍んで……なんてことは、江戸時代にも一般的ではなかったのかもしれません。また、83歳の夫の介護が嫌で逃げ出した妻もいたそうです。

慰謝料というのも当然ありました。どちらに非があるかによって変わるのも、今の離婚裁定と同じです。夫から妻への慰謝料としては、女性の平均的な年収程度が相場だったようです。婿養子の場合も、婿養子(夫)側に非がなく、妻からの離婚要請の場合は、夫に慰謝料が支払われていたようです。江戸時代は、男尊女卑どころか、きわめて男女平等だった気がしませんか?

ただ、江戸時代の結婚を語る上で大前提となるのが、恋愛と結婚とは完全に別物であるということです。結婚とは生活であり、現実でした。本質的に結婚とは生きるためにするものであって、だからこそ、恋愛のことを「浮気(艶気)」という言い方をしていたのです。浮気とは地に足の着いてない、浮ついた状態(浮世)のこと。江戸の恋愛とはそうした束の間の感情に身をゆだねることであり、現実生活である結婚とは別なのです。

そして、江戸時代の婚姻制度で特徴的なのが「持参金」というものです。女性は結婚する際に、持参金をもってきます。相場は5~10両と言われていました。落語の「持参金」という噺にもありますが、持参金を目当てに結婚する夫もいたし、器量の悪い娘は持参金を上乗せして結婚をしていました。それが普通でした。井原西鶴の『世間胸算用』には、妻の持参金の利息だけで食っていこうと画策する夫の話さえあります。

ただし、この持参金は、夫のものになるわけではなく、今で言う保証金のようなものです。夫の都合で離婚する際には、全額を妻に返さなければいけません。そのため、持参金を返したくない夫は、妻から離婚を申し出るように仕向けたようです。

そして、江戸時代の日本は、離婚大国であると同時に、再婚大国でもありました。享保15年(1730年)の史料に「世上に再縁は多く御座候」と記述がありますし、土佐藩には「7回以上離婚することは許さない」という規則がわざわざ設けられていたくらいです。ということは、6回までの離婚再婚は認められていたわけですね。離婚・再婚がいかに多かったかが、推測されます。

また、これも誤解が多いのですが、江戸時代、農民や町民の場合は、ほとんどが「共稼ぎ」でした。結婚相手としては「よく働く女」というのが重要視されていたくらいです。働かないで済んだのは、公家や武家、裕福な商家の女性くらいなものです。厳密には、「共稼ぎ」というよりも「銘々稼ぎ」という言い方でした。一家の家計を夫婦が共同して支えるという感覚ではなく、個々人がそれぞれに稼ぐという考え方なんです。男だ女だという性別に縛られることなく、それぞれが個々に自立した男女の関係性の上に成り立っていた社会だったのです。浮ついた恋愛感情ではない分、夫婦は互いに人間としての絆で結ばれていた、いわゆる「人生のパートナー」であったわけです。

奇しくも、この時代の江戸は今と同じように「男余り」状態でした(「茨城県が1位!『ニッポン男余り現象』の正体」)。女性の倍の人数の男性がおり、生涯独身で通す男も多くいました。男色も認められていました。それぞれが多様な価値観の中で、それぞれの生き方を謳歌していたわけです。

未婚率・離婚率の上昇は、「揺り戻し」にすぎない

明治期に入って、急激に離婚件数が激減した理由は、1898年(明治31年)に施行された明治民法です。明治民法の最大の特徴は、「家」制度を明確に規定したことにあります。妻は、ある意味「家」を存続させるためのひとつの機能として縛り付けられることとなりました。この「家」制度が、日本人の家族意識や性規範などにもたらした影響は大きかったと思います。それまでの江戸時代から続く庶民のおおらかな性や柔軟な結婚観は否定され、貞操観や良妻賢母を理想とする女性像を是とするものに塗りかえられていきました。ちなみに、”Love=Romance”という概念も明治以降に作られたものです。

大正、昭和にかけて、確かに離婚率は減り、皆婚状態になりましたが、それは果たして日本人にとって望ましいものだったのでしょうか。今の未婚率・離婚率の上昇は揺り戻しに過ぎないのであって、本来の日本人のあるべき姿に戻っている、と言ったら言い過ぎでしょうか。もちろん、決して江戸時代に回帰せよ、と薦めているわけではありませんが、きたるべき「超ソロ社会」(拙著参照)に向けて、もう一度「日本人とは何か?」を考えてみるのも重要ではないかと思います。

7年前