http://aoyagiksodan.seesaa.net/article/454763035.html
9月末、親権裁判で負けた父親が、自分のことを「DV」と呼んできた母親側の弁護士たちや、支援の女性グループの役員などを名誉棄損で告訴し、警視庁は受理している。親権裁判では通常、子どもを確保した側に親権が与えられる。法曹関係者は、これを継続性の原則と呼んでいる。ぼくたちは子どもを引き離したほうにご褒美に親権が与えられるので断絶性の原則と呼んでいる。
この事件では、一審の松戸家裁が、自分が親権者になれば、年間100日の交流を母親側にさせると主張した父親側が、慣例通り月に1回の交流を提示しただけの母親側に勝訴し、「フレンドリーペアレントルール」を採用した判決として注目を集めた。フレンドリーペアレントルールというのは、共同養育権の付与や親権選択において、相手の子育ての意義を認めて積極的に関与させる側の主張を重視するというもので、一方の親子関係がその後も疎外され続けるのを防止するための措置でもある。
この判決が注目されたのはもう一つ、こういった原則を裁判所が重視するようになれば、離婚目的で子どもを連れ去っても親権獲得という面ではインセンティブがなくなるので、野放しにされている実子誘拐にブレーキがかかるという意味を持つからだ。
この判決に対して母親の側に支援者たちが続々と現れ政治問題化させたのは、一審判決後からだ。フレンドリーペアレントルールが定着すると、交流の制約の主張をすると親権者としての適格性を問われるので、暴力被害について主張するのを差し控えることにもつながってしまい、一方の配偶者や子どもの安全の確保という側面からマイナスだ、という主張が対抗的になされる場合がある。
実際、オーストラリアではその主張に配慮して、法改正時にフレンドリーペアレントルールが共同養育を採用する際の基準として取り下げられた経過がある。週刊金曜日もオーストラリアの共同養育の法律が廃止されたという記事を掲載したが、それが誤解を招く記述であることは週刊金曜日も認めている(しかし訂正はしていない)。
2009~2010年の調査ではオーストラリアで離婚後に月に1回以上子どもと会っている割合は59.1%だ。一方日本では、家庭裁判所で面会交流を申立ても何らかの取り決めに至るのは53%で、月に一度以上の交流の取り決めは30.7%となっている。
ちなみに、相手が会わせなければ面会交流の申立などする必要もないから、これは実子誘拐がなされた場合に子どもと会える確率とほぼ同じと考えていい。子どもを連れ去られて、運良く月に1回以上の取り決めが得られる親の割合はおよそ16%にしかすぎない。さらに日弁連の2014年の調査では、裁判所で合意しても44%が守ってもらえていないというデータが出ている。
オーストラリアでは毎日あるいは毎週子どもと会っている親の割合は31.4%となっているが、いかに日本で子どもを連れ去られてその後親子関係を維持することが奇跡に近いか理解いただけるだろうか。
そんな離婚後の子育てについての日本の圧倒的な貧困の中で、フレンドリーペアレントは世界的に通用していない、などとオーストラリア一国の法改正の事例を挙げて立証しようとすること自体が、海外の状況にうとい国内の人々をだます意図をもってしていることがよくわかる。
こういった主張は、武蔵大学の千田由紀という社会学者が、福岡大学の小川富之という法学者にインタビューする形でヤフーニュースで拡散し、週刊金曜日は彼らのキャンペーンの一環としてヘイト記事を作りだした。
もちろん、彼らがこういったキャンペーンを強力に推進すればするほど、男性の子育てや働く女性への敵視が如実になる。小川が海外と日本の養育格差を知っていながら(先ほどのオーストラリアのデータは小川の論文をもとにしている)、日本の単独親権制度、実はよかったのではと日弁連のシンポで言っているのを聞いたことがある。男性の側が抱く心情を小ばかにすることが業界では「進歩的」であることの証明であるようだ。
男女平等をかなぐり捨て、時代錯誤のメンタリティーの大学教授を探してきて、自分たちの側でしゃべらせる日弁連の両性の平等委員会や週刊金曜日の堕落ぶりが、見ていて無残だ。
先ほどの裁判の話に戻る。この裁判の高裁決定では、父親の暴力が認定されなかった一方で、フレンドリーペアレントルールを採用した一審判決は覆され、それは最高裁でも維持された。母親の側の弁護団は裁判所はきちんと判断していると、わざわざ記者会見をしてコメントしていた。この弁護団の一人が週刊金曜日でヘイト記事を書いた斉藤秀樹だった。ぼくは慣例通りの雑な判決、と批判したが、断絶性の原則など日弁連の出版した本にも書いてあるので、記者も知っているそんな事実を斉藤がわざわざ否定するのは、自分たちの主張に自信がない証拠だ。
団体の役員らが1審判決後、「元妻は男性から暴言、暴力、精神的・経済的な虐待を受けていた」などと記した署名を呼びかける書面を、不特定多数の人に配布したこと、斉藤らが、高裁判決後に開いた記者会見で、「夫妻仲が悪くなった理由は、男性によるDVがあったため」などと記した資料を配布したこと、などを理由に父親側は名誉棄損で刑事告訴した。一方で母親側の団体などは「父親側は自身のDVについて無自覚だ。DVを行う父親のところに子供を残すわけにはいかず、子供を連れて行くのはやむを得ない」と主張しているのを産経新聞は報じている。
お互いの主張するDVの意味が違うことがよくわかる。しかし母親側の弁護団が主張するDVが、刑事罰の対象とは必ずしもなりえないし、する気もないというのは記事を読み取るだけでもわかる。そうだとすると、DV被害の主張と刑事罰の対象となるような暴力被害からの避難の正当性とは別物ということになる。もちろん「なかった」ことを「あった」と言うのはでっち上げだ。前回の予告と違う内容になってしまったが、続きはまた。
(宗像 充、「府中萬歩記」第44号に掲載)