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かつての同僚であった可児康則弁護士が面会交流について批判的な論文が判例時報に公表された。
彼は「こどもを中心の面会交流」でも立場性をもって論じているが、さて第一人者の彼の論文を拝見していくと、離婚=DVというドグマが激しすぎるような印象を受ける。
この点、最近は、DVでもCCV、SCV、SIV、VRに分類して危険性評価をするのが一般的であり、別居に際してのトラブルの多くがSCVであり、これをDVとするのは「レッテル貼り」の印象をぬぐえない。
現実に、名古屋地方裁判所保全部の運用は厳しく、現実には、危険度が最も高いCCV以外では発令されていないのではないかと思われるくらいである。(この点は、各庁の裁量が極めて大きい)
しかしながら、立場性もあるだろうが、互換性のある立場からいえば、今回の可児論文があまりできがよくないように思われる。
第1 軽視されるこどもの意思
軽視されるこどもの意思という項目が立っている。たしかに、私も家事実務の中で、こどもの人権共有主体性自体が否定しているのではないか、と思ったこともあり、人間の尊厳をどう考えているのだろう、と考えたことがあった。それは具体的には、大変男性親に懐いている男の子だったのだが、その子がどれだけ声を上げても裁判所によって封殺されること自体に違法性を感じることがあった。
しかしながら、可児弁護士は、ラジカルにいえば「洗脳」の正当化に近い。一般的には、監護親が非監護親に不安感を感じていると、その不安をこどもが敏感に感じ取り監護親の望む言動をする循環機序にあるとされている。最近では、名古屋高裁が一般論で説示するようになり、もはや経験則といっても過言ではないと思われる。この点、可児弁護士は「こどもの意思を無視した面会交流を決めても実現には困難さを伴う。」などと指摘する。
しかし、問題なのはこどもの真意なのだと思う。私の母親はいつも強きで人の悪口をいうのが大好きな人だったが常に同調を求められていた経験がある。末っ子で家事もできない少年としては、母親のいうことにうなづくしかないだろうと思う。したがって、こどもの表面的な言動にはとらわれず、両親の紛争の経緯等から慎重に真意を見極める必要があると考えられる。ただ、調査官実務における意思の分析は私も真に疑問だと思う。調査官のある研究論文では面会交流というのは監護親と非監護親の感情の調整といった程度のレヴェルの叙述がみられるものも散見される。
私は、これまで黙殺されてきたこどもの「声なき声」が拾われるには、ある程度真意を見極めなければならないという一般論には賛成せざるを得ないと思う。可児弁護士は面会交流ありきの方向性での調査結果しか出ない、と断じるが、大よそ2年ほど前の名古屋家裁の実務を論難するものとみられる。現在は心情面では父親とは会いたくないといった記述がされることもあり、分析・評価といえるほどのものはないように思われる。他方で、数年前に見られたのは、「血縁上のルーツを知るのはこどもの福祉に資するから面会交流を認めないのは子の福祉に反する」という血縁主義的な気持ち悪い報告書も何件か読み、その調査官が血統主義、優性主義者であるということはよくわかったが、最近のいわゆるDNA判決以降、自然血縁関係を重視した大阪家裁決定が出されるなどしており、こどもの精神状態を不安定にさせないかどうかという理論的視座から面会交流の実施の可否を判断するのが相当のように思われる。したがって、可児弁護士がいうように面会交流に向けて、結論ありきであれば、それはこどもの精神的安定を害する場合もあればそれは不当としかいいようがないように思われる。
可児弁護士は、司法関係者は幼年心理につき素人同然というが、たしかに調査官は数年前は養育費の調査を担当していたのであり、数年経過したら「こどもの専門家」などというのは笑止というしかない。そして、こどもが面会を拒絶しているという調査報告書が出されつつも調停委員会のあっ旋で面会にこぎつけて、「面会できてよかった」と感想を漏らすこどももいる。したがって、調査官報告書の分析・評価というのは「その程度のもの」とみなければならないように思われる。
可児は、臨床心理士など外部の機関の利用を推奨するが、私は、こどもの意向や心情調査については、弁護士を選任して、1カ月程度数回の面談を重ねるということがいいように思う。たしかに、監護親には負担だろうが非監護親からすれば15分程度の司法面談で「パパは嫌い。ママを殴るから」と覚えてきたセリフを言われて、面会交流を却下されたり、「ママは嫌い。パパと僕より不倫相手の方が好きなんだ」とやはりお決まりのセリフが登場することにはあきれ返る。そして、調査官自体が人生経験の乏しい若い少年のようなケースもあり、当事者間の納得が得られなければ、父母間の緊張関係の低下や建設的な面会交流の策定に向かわないように思われる。
可児弁護士はこどもが示した意思の安易な分析はよくなくないというが、現実的にそのとおりだとすれば、もっとじっくりと話しを聴くという意味で、こどもの代理人制度の導入、ひいては、こどもの手続代理人制度の活用範囲を拡大するべきである。現実に間違っていた例を目の前にして、可児のいうとおり、こどもの意思の分析、評価の仕方には問題があるように思われる。
可児弁護士の論旨は、結局、こどもの調査に多方面の外部者を入れるべきだ、という論点は正しい道筋のように思われる。
しかしながら、それ以降のDVに関する叙述に関するものは読むに堪えない、といったレヴェルのものだと思う。
繰り返すとおり、DVには、危険性のレベルがある。早期に警察も介入が必要であるのは、CCVのみというべきであり、SCVなど強引な子連れ別居の際の小競り合いをもって「DV」「DV」と騒ぎ続けるのは不当な「レッテル貼り」のように思われる。そして、保護命令が出た後の調停でも監護親から「生理的に嫌」など、主として、又は、専ら個人的な感情の重視が調停委員会に伝えられることもある。そうだとすれば、危険性が高ければ別論だと思うが、危険性に比例した対応を面会交流で行うというのが警察比例の原則からいっても理に適っていると思われる。そういう意味で可児が批判する「家裁はDV被害者支援の機関ではない」との指摘は正鵠を射るものであるのであって、危険性が低いDVについて警察比例の原則からいっても面会交流が相当な場合にまでネガティブと言い続けるのは、フェミニストの党派的主張と批判されても真にやむを得ないだろう。その辺りの繊細なバランシングが、可児の論文において、段階的かつ分析的に行われていないのは、彼の論文の骨子が十分成り立たないことを示すものである。
また、可児弁護士は、どちらかといえば、片親でもいいじゃないか的発想が強いと思うが、V6の岡田もまた離婚家庭で育ち理想の父親像を考えながら過ごすのが趣味とかって新聞のコラムで紹介されていたことがあった。可児弁護士は、片親でも健全に発達しない実証はない、というが、他方では、父母両方から愛着が得られることこそ、こどもの心理に安定感を与えて、愛情豊かなこども、そして大人に育つという考え方の方が経験則には合致している。このような理論的視座から欧米では共同親権がとられているのである。欧米で一般的な考え方を「実証的根拠がない」という程度の理由では否定できないと私は考える。かつて少年付添事件で、警察の一件記録を拝見すると「欠損家庭」と書かれていたものだ。また、ある映画では父親がいないと同性愛者になるそうだ、というセリフもある。そして、これは本来的には実証が可能なことであるが、プライバシーが強いことから実証はされないだけで、例えばLGBTの人などでは片親の人が多いのはある程度は事実であるといわれている(もちろん偏見的な意味合いはない。私は平等主義者であり、米国連邦最高裁のケネディ法廷意見に賛成している。)。
それだけに、可児の主張は、「面会ありき」といわれるが、それはビューポイントを変えるとこどもを人質にとって財産分与や慰謝料の要求の駆け引きに用いていると、大きな見方では可能になるということも、可児の主張は批判に耐えられないであろう。また、夫婦間のDVがこどもに必ずしも向かうとの的確な証拠はないように思われる。
面前DVは児童虐待防止法に違反するものであるが、家裁のこれに対する消極姿勢には多少、私も疑問を感じるときがある。例えば、立命館大学の二宮周平の家族法では、こうしたことをもって面会交流拒否事由になると論じられている。ただ、面前DVといっても、こどもを閉じ込めてわざわざDVをするケースも少ないだろうから、やはり危険性の判断との警察比例の原則で決するべきで、可児の議論は極端かつ一方的に採用の限りではない。
可児の分析が間違っているのは、一般的に監護親の方は、DVを主張し、非監護親の方は、児童虐待を主張するという点である。つまり児童相談所への虐待通告は非監護親から行われることも少なくないということである。
なお、別居中の面会交流と異なり、離婚後は事情の変更があったとして、面会交流は量的拡大を目指すべきものと考えられる。今までは、離婚したら縁切りということが多いと思うが、可児の主張には、「子の最善の利益」という最も根本的な視点が欠落しているのである。DVについての事実認定は困難を伴うから、愁訴を前提に反省していないとか、どうして暴力を振るわないといえようか、という主張には論理に飛躍がある。そもそも、離婚後は親権者が指定されるから、こどもの連れ去りは刑法上の問題が生じる。面会交流といっても、不代替的作為義務であるから、こどもがいきたくないといってしまわれたらそれでおしまいであることから、面会交流親は楽しい面会交流を心掛ける必要がある。特にこどものペースに合わせてあげることが必要である。
また、離婚後は暴力を振るえば、即逮捕という世界である。現実的な暴力が生じるとするならば、刑事的な制裁を与えるのが理に適っており、もはや家事法の領域を超える末期的病理現象を標準として議論をしている点でまた失当と云わざるを得ない。
なお、可児が縷々述べるところをみると、かえって、その監護親は、こどもに不安を伝染させており、非監護親の悪性を吹き込んだり、悪いイメージを与えたりしているのであるから親権者として不適格ではないか、という議論が正面から会っても良いのではないか。どうも可児が縷々述べるところをみると、面会交流には不安が付きまとうというテーゼがあるように思われる。それはそのとおりであることから、それを取り戻すための調整活動をすることも弁護士の仕事のように思われる。また、可児のこどもの行動観察は、何かリーズナブルなこどもがいる、というが、こどもはそんなに合理的には行動しない。いうこともころころと変わるし、それに寄りそってあげるだけの監護能力が必要であるように思われる。
良い面会交流と悪い面会交流があるのは事実である。ただ、私見は、共同親権に近くなるよう面会交流制度の定義づけ比較衡量が行われるべきではないかと思う。一般的に「良い面会交流」は、大人からいえばサンタさんのような面会交流になってしまう。もちろん感情的なつながりを深める場でもあるが、旅行やおいしいものを食べる場になってしまうのではないかと思う。そもそも、それが面会交流なのかということもある。例えば男の子は父親は貴重なロールモデルであって、全てがDV男ではない。だから、こどもの精神において父親の下に移転したいとか、会いたいと願うこどももたくさんいる。その反対もしかりと思われる。ただ、面会交流というのは、家裁の基本的な考え方は、アタッチメントの形成にあるものの、物や食べ物、おもちゃといったものを使わないで、それを形成できる親はあまり多くはない。だからこどもにとってアタッチメントの形成の機会ではあるものの、楽しくなく正月とお盆に会えればいいよ、となってしまうこともあるかもしれない。
可児弁護士は、縷々面会交流について批判し、すべての離婚事件を「DV」と断じて、親子関係を断絶させるのが相当であるが、そのような考え方は、少数意見であり、本来的にはこどもをもうけた以上、「生理的に嫌」などの理由ではなく、リーズナブルに話し合っていく建設的なものとして定義づけをしていくにはどうしたら良いのか、という理論的展開が求められるといえよう。なお、今般、名古屋高裁金沢支部は引渡しの際に、面会交流親と会わなければならないことは通常甘受すべき負担と断じている。その程度の負担も甘受できないのであれば、フレンドリーペアレントルールにも反し、親権者として相応しくないというところに戻ってくるのではないだろうか。なお、面会交流親にも、こどもと会えず心身を害している方もいるわけであって、互換性をもって論じなければ、無意味のように思われる。
可児弁護士がいうとおり、監護親や非監護親のいずれからも家裁が社会から信頼を失っていることはそのとおりであり、それは保護命令の管轄が地裁にあることが物語る。
裁判所によって、傷つけられたこどもたちの発達の程度に応じて、その愛着が得られるような形となるよう知恵を絞るべきで、欧米のバラは曲がったら一生曲がったままだ、という否定的な論旨は、我が国の健全な社会通念には到底合わない。