http://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/sectiion3/2013/01/post-198.html
ハーグ条約と日本 -日本人女性による国境を越えた子の「連れ去り」を経験した父親たち-
嘉本 伊都子(かもと いつこ)
京都女子大学教授
米国務省主催のプログラムに参加して
2012年夏、米国国務省が主催するインターナショナル・ビジター・リーダーシップ・プログラム(IVLP)に参加する機会を得た。この夏のIVLP は「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」(以下、ハーグ条約)1に関するものであった。プログラム期間は8月20日から9月7日で、訪問先はワシントンDC、バルティモア、シアトル、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、ミネソタという大移動であった。参加者は筆者と弁護士の2名が参加した。
ハーグ条約締結国では、中央当局とよばれる機関を設置し、国境を越えた子の連れ去り問題がおきた場合、そこに申請することになっている。米国における中央当局である国務省(日本では外務省が担当機関になる予定)を始め、連邦裁判所、FBI、ロサンジェルス郡家庭裁判所、アメリカ弁護士協会、NPOなど多くの機関を訪問した。事前に訪問先をリクエストしたのがほぼ網羅されていた。
2011年アメリカの複数のマスコミが「100人ものアメリカ人の子どもが日本へ連れ去られている」(ABC NEWS)2などと題して、日本政府がハーグ条約に締結しないのは国家的拉致であると報道した。日本人にとって国際離婚した日本人の母親が子を日本に連れ帰るのはプライベートなことであって、国家的拉致などというのは大げさだと思うかもしれない。だが、米国国務省のキャンベル国務次官補が、北朝鮮による拉致問題解決の重要性と、日本政府がハーグ条約締結国になる重要性を同列に、よりによって訪米していた北朝鮮による拉致被害者家族連絡会のメンバーに直接会見の場で述べた。無論、家族会は不快感を表明した。
しかし、FBIのホーム・ページ(以下HP)は指名手配犯の顔写真を公開している。「親による誘拐」で掲載されている写真のなかには日本人女性が複数確認でき、誘拐された子どもの写真も被害者として掲載されている。3
LBP(Left Behind Parent) ;連れ去られた親
LBP(Left Behind Parent)と呼ばれる連れ去られた親3人(おもにアメリカ人男性)から現地のコーディネーター(すべてボランティア)にまる2日間、時間が欲しいと要求があった。しかし、基本的に一機関に対してセキュリティ・クリアランスという空港の手荷物検査のような時間を含め1? 2時間程度の配分であり、2時間を超過してもなお、話足りなさそうであった。彼らの1人はアメリカのテレビ番組にも出演し、インターネットでその報道には事前にアクセスしていたので、すぐ気づいた。彼らはこの問題を日本に伝えてほしいと要望してきたので、本稿では、日本ではあまり報道されないLBPを中心に取り上げる。
在サンフランシスコ日本領事館のHPに「日本はハーグ締結国ではない」と書かれている部分を示して、日本が国家的拉致を認めているというキャンベル国務次官補と同じ見解を示した。中心メンバーと思われる男性は、日本の国会議員にも会ったと衆議院議員の阿部知子氏らと共に映った写真を何枚も我々に示し、米国の議員に対し100日間ワシントンDCでロビー活動をしたという。さらに‘American Citizen Children Kidnapped by Japan’(日本に拉致されたアメリカ市民の子どもたち)と題されたパンフレット、司法取引により子どもを返還し、釈放されたばかりの日本人妻の写真が一面トップに掲載された地方新聞等を手渡してくれた。パンフレットの表紙は、FBIのHPに掲載されているような子どもの写真12枚がコラージュされている。ページをくると、FBIに指名手配された日本人女性の顔入り実名入りのものが掲載されていた。この女性に見覚えがあった。
ABCニュースの女性記者がマイクを突きつけ「子どものパスポートはどうやって取得したのか?」という質問に「それはとても簡単だった。紛失したので新しいパスポートを作ってほしいと日本領事館に言ったら再発行してくれた」と答えていた女性であった。目の前の男性が「彼女は自分の元妻である」と言った。なるほど、子どものパスポートを再発行したサンフランシスコ日本領事館を「恨む」のは当然かもしれない。その後、日本のありとあらゆるものへの恨み節を聞かされた。裏を返せば、日本人妻が子どもを連れ帰ることを恐れて、元夫のほうが子どものパスポートを常に携帯していたのであり、その頃には夫婦間の信頼関係は破綻していたのであろう。その空気感は“my son, my son;how one generation hurts the next”を読むと伝わってくる。著者のDouglas Galbraith氏の日本人妻も同様の手続きでスコットランドから子どもを連れ去り、妻にとっては「子どもとの帰国」に「成功」している。おそらくLBPは各国で日本領事館に強く抗議したと思われる。外務省のHPには「未成年の子にかかる日本旅券の発給申請について」で両親の同意を確認する旨が注意点として掲載されている。
元夫の主張によると、元妻はその父親から幼い頃虐待を受けていた。実の娘に虐待をするような父親とともに、自分の娘は暮らしている。今度は元妻ではなく孫にあたる自分の娘が虐待されているかもしれない。父親から虐待された娘が婚姻の破綻後、日本にいる父親の家に娘とともに身をよせるであろうかなどと考えているうちに、彼の日頃の不満が湧き出た。日本では「ハーフ」の子どもは学校でいじめられると聞いている。いじめで自殺するかもしれない。子どもの立場で考えてほしい、父親がこんなに愛していることを何も知らないで育つのは耐えられない。父親からのクリスマスプレゼントは、受け取り拒否をされた。全部の主張は書ききれない。繰り返し自分たちは日本人元妻にはDVをしていないと強く主張した。妻が精神的疾患を抱え、妻による暴力が子どもに及ぶ危険性があったため、離婚の原因となったとする明確な理由がある1人を除いて、なぜ妻が子を夫に黙って連れ去る行為におよぶようになったのか説明を求めたが、明確な答えは返ってはこなかった。
彼らは片言の日本語はわかるが、ほとんど日本語は話せない。一度も日本に行ったことがないという人もいた。つまり、異国の地で「親をする」ことの困難さを経験したことがないのである。「僕のようなお金のないアメリカ人男性はどうしたらいいのか?」と悲痛な顔で訴えた男性もいたが、ハーグ条約への締結こそが解決の第一歩になるとしか答えてあげられなかった。しかし、日本がハーグ条約に締結しても、彼らのようにすでに連れ去られた案件は取り扱われない。
国際離婚論の必要性
ハーグ条約では、子の心身に害悪を及ぼす可能性があったり、子を耐え難い状況に置くこととなる「重大な危険」があるならば返還拒否できる。だが、「重大な危機」がないと判断された場合、結婚が破綻する前に夫婦と子どもが暮らしていた「常居地」と呼ばれるところへ「連れ去られた子」は返還される。ハーグ条約は子の返還に関わる部分のみを扱う。子どもが返還された後、親権や面会交流をどうするかは「常居地」の裁判所が判断する。
離婚後、現地で生計を立てられる日本人女性は「子の連れ去り」などしないであろう。では、子の連れ去りをするか否か逡巡している日本人女性が誘拐犯にならない手だてはあるのか。弁護士からはプロボノと呼ばれる、低所得者のための弁護士費用が無料になる制度や、アメリカの家庭裁判所も多くの案件があるために、法廷で本格的に争う前に裁判所がすすめるメディエーション (日本語にすると調停であるが弁護士がメディエーターをつとめる事も多い)で解決をはかることもできる。その際、アドボケーターと呼ばれる英語が充分できない人のために本人にかわって代弁していくNPOなどがある。アメリカには実に多くのボランティア団体やアジア系のサポートグループが存在する。
問題は移民女性がいかにそれらのサポートグループにアクセスし、活用できるかだろう。日頃から困ったときにはお互いにサポートしあうネットワークを構築できているかが鍵になる。これは国内外を問わず母親になる女性に求められる能力かもしれない。「国際結婚論」 4をかつて執筆したが、「国際離婚論」※4を書く必要を痛感した夏であった。
1:英語名は、Hague Convention on the Civil Aspects of International Child Abduction(1980)
2:ABC Newsは “Abducted to Japan: Hundreds of American Children Taken”と題して報道し、インターネット上でも動画で閲覧できた。http//abcnews.go.com/International/abducted-japan-hundreds-american-children-returned/story?id=12898351
3:FBIのホームページhttp://www.fbi.gov/wanted/parent 2012年11月30日にアクセス時、3人の日本人女性の写真が確認できる。
4:嘉本 伊都子『国際結婚論!?[歴史編] 』『国際結婚論!?[現代編]』 (法律文化社、2008年)