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司法崩壊の実態を詳らかにして話題の『絶望の裁判所』(講談社現代新書)。著者の瀬木比呂志氏が、世間から隔離された世界における裁判官の非常識な言動、不可思議な人事、不祥事の数々を告発した。
自分がいちばん偉いと錯覚
今回、私が裁判所の内実を明らかにしたのは、多くの国民にその歪んだ実態を知ってもらうとともに、危機感を抱いてほしいと考えたからです。今の裁判所は、国民の権利や自由を守ってはくれません。
私は’79年の任官から’12年に大学教授に転身するまで、33年にわたって裁判官を務めてきました。そのなかで目の当たりにしたのは、最高裁の意に沿わない人材を排除する人事システムの問題点や、モラル、そしてパワー、セクシャルなどのハラスメントが横行する、裁判所の荒廃ぶりでした。
上層部の意に沿わない裁判官に対して人事局が再任を拒否する事例や、裁判長が部下である若い女性事務官に性的な関係を強要した例など、枚挙に暇がありません。ある優秀な裁判官が、裁判長にさんざんハラスメントを受け精神的に追い込まれた結果、心を病み、人事局長に直接「私をいつ裁判長にしてくれるんですか!」と詰め寄る、という事件もありました。その裁判官は、結局は退官に追い込まれました。
一般の感覚からすれば驚くべきことに、裁判所にはこれらの問題に対するガイドラインも相談窓口もありません。「裁判官がそんなことをするはずがない」という妙な意識があるからです。退官させられた彼も、相談や治療を受ければ復帰できたかもしれないのに、人生を潰されてしまった。
日本の裁判官は、努めて外部の世界と関わらないように行動します。たしかに、裁判の公正中立を守るため、司法の独立は必要だとは思います。しかしその閉じられた世界の内側には、最高裁判所をトップとした、強固なヒエラルキー型の人事システムがあり、出世ばかりを気にする裁判官が溢れているのです。
この人事システムが、裁判所を荒廃させた一因なのは間違いありません。現在、日本の裁判所は最高裁長官をトップとし、その腹心である最高裁事務総長が率いる事務総局が、全国の裁判官を人事や組織の圧力で支配しています。事務総局は意に沿わない判決や論文を書いた裁判官に対し、昇進を遅らせる、住まいとは遠く離れた地方に単身赴任させる、あるいは前述したように再任を拒否するといった嫌がらせをします。
その結果、裁判官は刑事被告人、あるいは民事訴訟の原告・被告の権利や結論の適正さを自分で考える前に、とにかく事務総局の意向ばかりを気にするようになってしまったのです。事実、ある地裁の所長はことあるごとに「それは事務総局の考えと同じか?」と確認していました。
つまり、本来目指すべき「正義」はおざなりになり、出世にばかりとらわれているのです。もちろん、すべての裁判官がそうだとは言いません。自らの考えをしっかりと持ち、正義を貫く優秀な裁判官もいますが、それは全体の中でみればわずかです。そのような裁判官は上級の裁判官になれないばかりか、裁判所という組織に嫌気がさして、辞めてしまうことも多い。
また残念なことに、精神構造に問題がある裁判官が多いのです。自己中心的で、他者の存在が見えていない。内心では、自分より偉い人はいないと思っています。
’00年ごろから、裁判官の質は著しく劣化してきています。これは私の個人的な感想ではありません。実際、過去の報道を調べると、’01年から’13年にかけて、裁判官による痴漢や児童買春、ストーカ—、盗撮といった性的な不祥事が7件も起こっています。裁判官の母数は3000人弱ですから、問題を起こす割合は高い。もし、従業員数3000人弱の企業で、そんなペースで不祥事が起これば、その会社にはなにか問題があると考えるのが自然でしょう。しかもこれらがすべてではない。内部でもみ消されているものもあります。
生協を利用したら「左翼」
こうした不祥事が続出するのはなぜか。裁判官が仕事のみならず、私生活でも多大なストレスを抱えているからです。
たとえば、ある裁判官はバードウォッチングが好きなので「野鳥の会」に入りましたが、外部団体に所属することについての遠慮などから、活動はしませんでした。また、ある裁判官の妻は、生協に品物を注文すると、左翼的と思われてしまうのではと悩んでいた。
一見すると、くだらないことのように思われるかもしれません。しかし、「裁判所の掟」を過剰に意識し、外部との関わりを避ける裁判官は、絶えず周囲の目を気にすることで、いわば「見えない檻」に囚われているのです。
官舎で暮らしている頃、こんな事件がありました。ある裁判官夫婦が、自分たちの所有する高級車に傷が付いているのを見つけ、「官舎の子供が自転車で傷を付けた」と大騒ぎしたのです。私もその傷を見ましたが、どう考えても自転車によるものではなく、何者かが鋭利な物で故意に付けたようでした。冷静に考えれば、子供のせいではないと分かりそうなものなのに、夫婦がしつこく騒ぐので、仕方なく、官舎に住む子供のいる母親たちが揃って、その夫婦に謝りに行く羽目になってしまいました。問題を明らかにせず、うやむやに終わらせてしまったのです。
まったく非常識な話ですが、恐ろしいのは、こうした裁判官が刑事事件を担当するということです。言うまでもなく、刑事事件というのは、当事者の事情や気持ちを汲み取った上で、常識的な判断が求められます。それなのに、日本では非常識な人が刑事事件を裁く。極めて危険なことではないでしょうか。
また、日本では裁判官が刑事系と民事系に分けられ、基本的に同じ分野を担当し続けます。そして刑事系裁判官は日常的に検察官と接しているため、考えがどうしても検察寄りになる。被告の中には根拠のない主張をする人もいますから、刑事事件を長く担当していると、被告に対して偏見を抱くようになってしまうのです。その結果、刑事系の裁判官は仲間内で被告のことを蔑視し、「やつら」などと呼ぶようになる。
彼らがそんな言葉を使う場面を何度も見たことがあります。裁判官がこんな姿勢では、冤罪がなくなるはずがありません。日本で刑事事件における無罪率が極めて低いのも、裁判官が検察の言いなりになりやすいことが一つの理由でしょう。
問題があるのは刑事事件だけではありません。民事訴訟においても、日本の場合は「和解」を強く勧める裁判官が非常に多いという特異な面があります。
もちろん、和解が必ずしも悪いわけではありませんが、諸外国では「手続き上の正義」を重視します。たとえばアメリカでは、それぞれの証拠を検討した上、和解を勧める場合は必ず原告・被告双方を同席させます。州によっては判決担当と和解担当の裁判官を分けることもある。判決を担当する、決着をつける人が和解を勧めるのはおかしいという考えがあるからです。
ところが日本では、同じ裁判官が原告・被告を別々に呼んで和解を勧めるため、相手方にどんな話をしているのか、さっぱり分からない。ひどい裁判官になると、双方に「あなたは負けますから和解したほうがいい」とまで言うのです。判決を下す人にそうまで言われれば、当事者は応じざるをえないでしょう。
しかし考えてもみてください。そもそも争いごとを好まないタイプが多い日本人がわざわざ訴訟を起こすということは、和解で済ませるのではなく、理非を明らかにしてもらいたいからでしょう。それなのに日本の裁判官は、自分の抱えている事件を早く終わらせたいがために、当事者の思いを裏切るのです。
実社会を知らず、常識がない
問題ある裁判官ばかり増えたのは、司法修習生を経て任官されれば、よほどのことがない限りクビにはならないというキャリアシステムが限界に来ているからでもあります。実社会を知らないまま裁判所という特異な世界に染まってしまうため、常識のない裁判官が育ってしまう。
それでも昔は相対的に裁判官の質が高く、人に後ろ指をさされまいというプライドと識見を持った人が多かったと思います。ところがバブル期以降、優秀な司法修習生の多くが弁護士を目指すようになりました。大企業の訴訟案件をこなしたり、渉外などの分野で華々しく活躍し、成功すれば年俸も高いからです。
また、昔は人気がなかった検察官も最近は志望する修習生が増えている。日本の刑事司法で一番権力があるのは検事です。裁判官は審査するだけで、検事が実質的に有罪無罪を決めているようなものですから。
裁判所の支配、統制システムは、第11代最高裁長官(任期’85年~’90年)だった矢口洪一氏が確立しました。ただし、矢口氏は若手裁判官の人事にまでは介入しませんでした。少なくとも、若手に関しては能力に応じて処遇するようにしていた。ところが、最近は、新任の判事補を採用する場合でも、その人の能力のみならず、事務総局の言うことをきく人物かどうかまで考慮する傾向が指摘されています。
現在の竹崎博允最高裁長官の実権、支配権は矢口長官以上とも言われますが、なぜ彼がそれほどの力を持ったのか。その背景には裁判員制度導入があります。
現行の裁判員制度については、今後改善すべき欠点はあるものの、市民の司法参加という意味では、評価されるべきだとは思います。しかし、「竹崎氏らには別の思惑があった」といいます。「裁判員制度を導入することで刑事裁判に脚光を集め、近年民事系に比べて著しく劣勢にあった刑事系裁判官の基盤を強化し、同時に人事権を掌握しようという狙いがあった」—そう言われているのです。
そして思惑通り、裁判員制度導入以降は、刑事系の裁判官や書記官が増員され、主要ポストの多くが、竹崎氏に近い刑事系裁判官で占められるようになった。その結果、究極の情実人事が実現したわけです。
その竹崎氏は先ごろ、健康問題を理由に3月いっぱいで退任すると唐突に発表しました。本来の任期(7月7日)から3ヵ月前倒しで、後任も未定の退任発表はきわめて異例といえました。その後、後任は寺田逸郎氏(現・最高裁判事)に決まったようですが、誰が後任になろうと、今のシステムは変わらないのではないかと思います。
本気で裁判所を改革しようと考えるなら、法曹一元制度、つまり弁護士経験者を裁判官に登用する制度を導入するしかありません。現状の日本の弁護士の能力については、上から下までの落差が激しいのは事実でしょう。しかし、質の高い弁護士は人権感覚に優れ、謙虚さもある。そういう人が裁判官をやったほうが、今よりよほど質の高い裁判が行われると確信しています。
せぎ・ひろし/’54年生まれ。明治大学法科大学院教授。東京大学法学部卒業。東京地裁判事補、那覇地裁沖縄支部裁判長、最高裁判所調査官などを歴任し、退官。著書に『民事訴訟の本質と諸相』他
「週刊現代』2014年3月22日号より