安積遊歩ブログ「多様性の宇宙へ」:親権の問題について

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親になってからこの社会が子どもにとってどんなに厳しい世界か、残酷なシステムがいかに多いかということに気づいてきた。たとえば教育や医療のシステムなど、感じること考えることがいっぱいある。今日は特にそのなかでも親権の問題について考えていることをまとめたい。

私の友人たちは、女性も男性もずいぶん離婚経験者が多くなった。おとなであれば、離婚ということで2人の関係を清算できるが、子どものほう は親が離婚した時から大変な問題に直面させられる。これは今まで一緒に暮らしていた父親母親のどちらかの許可がなければ、ちょっと顔を見ることすらできな いという基本的人権にかかわる問題だ。

私も法的には離婚経験者であり、彼との関係は今では事実婚の別居だ。そもそも結婚というシステム自体が日本ではセクシズムと障害者差別のあ りようがあまりに強いので、初めからそれを選ばずに同居を始めた。しかしいろいろな事情があって、一度は結婚してみるのもいいかという好奇心もあり、彼が 私のほうの名字に変えてくれるということもあって、3ヶ月間だけ法的な結婚をした。しかし、自分の名前を変えないことがあまりにも結婚というシステムの不 平等を見えづらくしてくれた。逆に名前を変えた彼のほうがいろいろと大変そうだった。またその頃、結婚している人とつきあっている友人がいわゆる婚外子を 産んで悩んでいたこともあり、やはり結婚というシステムがどんなに差別的かに嫌気がさし、彼に頼んでペーパー離婚をした。生活形態はまったく変わらなかっ たので、片親親権や共同親権の問題はその時にはほとんど見えていなかった。

その問題性が自覚されたのは、父親たちのグループが立ち上がって以後のことだった。今ではそのグループには父親だけではなく、女性もいて、 子どもに会えない理不尽さと非人間的状況をともに訴えている。最初はシングルマザーの友人たちから、ドメスティックバイオレンスやセクシズムが強い日本の なかでは、この片親親権という制度がどんなに重要かということを聞いていたので、あまり共同親権の重要性を考えられなかった。しかし、父親たちのグループ のなかに非常に親しい友人が加わることとなり、その彼からしょっちゅう話を聞くたび、これは両親の問題というより、そのなかで板挟みになっている子どもの 権利の問題だということをしみじみ自覚するようになった。

私の娘にとっては、彼はあまりにも大切なお父さんであるから、私は彼に会わせないという権利は自分にはまったくないと思っている。DVを受 けた母親たちにとってみれば、子どもの命を守るためには会わせないことも必要だという気持ちになるのはわかるけれど、それ以上にわかるのは私にとっては子 どもの気持ちだ。私は自分が子どもだった頃に医療関係者との闘いのなかで自分の主体性というものをかなり培ってきた。あの時の闘いはいつも私のそばで医者 に向かって頭を下げてくれる母親がいてくれたからこそできたのだ。

もっとも、頭を下げる母親に「弱虫! 私とともに闘え」とさえ思っていたから、今考えてみれば本当に完全に私の味方として立っていてくれた 素敵な母親であったのだと思う。つまり、何を言いたいかというと、子どもは完全に別個の人格なのだ。その人格をもった存在である子どもに自分の命の出所で ある親に会うなという仕打ちは虐待であり、完全な人権侵害なのだ。  もちろん子どもはものすごく賢いので、いつでも会っていいよと言われる状況のなかであれば、自ら進んで会わないという選択もするかもしれない。DVのな かを果敢に立ち上がった母親に対する尊敬と愛情で、そして大好きな母親にDVをふるった父親に対する恐怖で、いくら会いに行っていいと言っても絶対会いた くないという決断をする子もたくさんいるだろう。

しかし、目の前でのDVもなく、なぜか突然のようにどちらかの親に会ってはならないと言われている子どもたちも、片親親権というシステムの なかではたくさんいるに違いない。子どもの権利というところからみれば、世界のほとんどの国が共同親権のシステムをもっていて、片親親権である国はいわゆ る経済的に裕福な国々のなかでは日本のみと聞く。戦前の封建主義のなかで子どもの権利などというものはまったくなかった時代の遺産ともいうべき片親親権を やはり見直すべき時期にきているのだと思う。

子どもは正しいサポートさえあれば、おとなと対等な関係をつくり、よりよい人生を選んでいける人たちだ。だから、子どもをどちらかの親の許 可がないと会わせられないと考えるシステムは、まず正しいサポートを提供していないということを強力に認識すべきだ。正しいサポートどころか、子どもは何 もわからないとか、何も考えられないというふうに見なして、子どもの選択権、決定権をことごとく奪っている。もちろん私はDVに苦しんでいる女性たちが下 した結論を責める気持ちは毛頭ない。ただ、ひたすらに思うことは子どもを信じてほしいということだ。女性に不利益を強いる結婚というシステムのなかで産ま れた子どもたちを守ってやりたいと思うあまり、子どものもっている力を信じられなくなるのではなく、女性にとって生きがたい結婚というシステムをこそ変え るべく、あるいはそこに乗ることなく、動いていってほしいものだ。そもそも結婚というシステムの不平等性と理不尽さが見えない限り、片親親権の子どもに とっての非道さも見えないだろうから。

多くの言葉をもたないすべての子どもたちが社会の真ん中で幸せに生きるには面接交流権等が完全に保障されなければならないのは火を見るよりもあきらかだ。これは障害をもつひとへの差別を闘ってきた私だから決然といえることだと確信している。

12年前