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1.「親権侵害」は違法ではない?
民法第818条3項は、「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」と定め、同第820条は、「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」と規定している。すなわち、婚姻中は、「共同親権」「共同監護」である。また、離婚については協議離婚を原則としており、離婚後は単独親権(民法819条)になるからこそ、「離婚後の監護に関する処分」について条文が規定されている(民法766条)。すなわち、離婚後は「単独親権」「共同監護」というのが民法の前提である。
ところが、実際には、離婚後の監護問題を含めて夫婦が協議する過程を経ないで、離婚を仕掛ける配偶者が一方的に子の「身柄」を拉致し、他方配偶者と子の交流を遮断することから離婚紛争が勃発する。すなわち、共同親権者の一方が子どもを連れ去ると、他方は、子どもに会うことさえままならなくなり、「家庭破壊」にさらされた配偶者こそ悲惨である。
しかしながら、離婚成立前はたとえ別居になっても、法的には「共同親権」「共同監護」である。そうすると、未だ親権者である他方配偶者の親権の行使を不可能にさせることを適法と解する余地はないはずである。それにもかかわらず、弁護士も裁判官も、このような一方配偶者による他方配偶者の親権侵害行為を違法と認識しない。欧米では、このような親権侵害は誘拐罪に該当するなど犯罪行為とされていることと比較すると、日本では、親権・監護権が「親の固有の権利」と認められていないのだと思われる。現に、離婚後の単独親権制では、裁判官が「子の福祉」の見地から片親の親権・監護権を合法的に剥奪している。しかし、「固有の権利」とは、奪うことも、放棄することもできないものを言うのであり、民法第820条が「権利を有し、義務を負う」と定めていることは「固有の権利」を意味している。
2.「単独親権制」の逆襲 ― 大阪2児放置死事件
ワンルームマンションに幼い姉弟(当時3歳と1歳)を放置して餓死させたとして、殺人罪に問われた母親(24歳)に懲役30年が言渡された(大阪地裁3月16日)。判決の報道によれば、被告は2009年5月に自らの浮気がきっかけで離婚した後、子どもを引き取ったものの、風俗店で働き始めてから2か月後の10年3月以降、現実から逃避してホストクラブの男性宅に連日外泊し、6月に帰宅した際、衰弱した2児に十分な食事を与えずに再び外出し、6月下旬に死亡させた。2児が苦しんでいる時、現実から目を背けて男性と遊び、遺体発見後も遊興したという。そして、判決は、最後に「子育てに苦しむ親に社会が理解と関心を示して協力することを願う」とし、行政を含む社会全体が児童虐待の発見と防止に一層努めるよう求めている。
これって、何かおかしくないですか? 2児の父親は、どうしていたのかしら? この被告は「子育てに苦しむ親」なの? 行政や社会全体は児童虐待の発見と防止に努めよ、ですって? 裁判官は法律家なのに、こういう事件に直面してなお「単独親権制」に疑問を持たないらしい。
考えてみれば、親権・監護権は「親の固有の権利」ではないのだから、奪われるだけでなく、放棄だってできる。2児の母親も、父親も、「親業=ペアレンティング」を放棄している。つまり、「単独親権制の逆襲」というべきことで、2児を殺したのは「単独親権制」にほかならない。
3.法執行の現場 ―人間不在
親権者指定・監護者指定・子の引渡・面会交流など「子の監護をめぐる処分」を行う裁判官は、当該子どもの養育に全く責任を負わない。ただ、「子の福祉」をお題目にして、単独親権・単独監護を貫徹させるだけである。
しかし、日本の官僚裁判官が、「子の福祉」とは何かを理解しているとは思えない。それは、裁判官だけでなく弁護士も同じで、家族法を学ばずに法曹になるし、何よりも現行法を絶対的与件として疑わない思考方法のせいで、現実に対する感受性が欠如している。「子の引渡し」の強制執行や人身保護請求事件の現場で、泣き叫ぶ子どもを権力的に連れ去る(これは「司法拉致」というほかない)ことに「正義の実現」という高揚感を覚えるなら、人間として倒錯している。ナチスのホロコーストも現実の執行者がいればこそと考えれば、日頃から、こういう非人間的なことができる「人」を許さない対応が重要だと思う。なぜなら、つまるところ、その人の「人間性」「倫理」「良心」の問題だからである。
とはいえ、このような「現場」が出現するのは、「単独親権制」に起因する。つまり、父母のうちどちらかが親権・監護権を失うとなれば、「椅子取りゲーム」のように、子の「身柄」の争奪になるのは必然である。それにもかかわらず、40年にわたって離婚問題に取り組む杉井静子弁護士は、「親の権利ばかりを振りかざすのではなく、子どもの幸せを最優先に考えるべきだ」と話している(読売新聞2012.4.2)。しかし、これは、原因と結果を逆転させている。「単独親権制」を廃止しないで親に説教しても、子の「奪い合い」を沈静化することは期待できない。
4 誰のための司法? ― 「当事者主権」
日本の弁護士は、依頼者との関係が異常だと私は思う。紛争を抱えた当事者は、幸せになるために弁護士に相談や依頼をするのだから、何が依頼者の利益かについて判断するのは、依頼者本人のはずである。しかるに、多くの弁護士は、素人である依頼者にはその判断ができないとの前提に立って、弁護士が「依頼者のため」に弁護方針・内容をすべて決定し、依頼者に押し付ける。しかも、驚くべきことに、その弁護士の判断自体が現行法の解釈として間違っていることが少なくない。そして、弁護士が有効な助言や方策をしないで依頼者が窮地に陥ると、依頼者を見棄てて自己保身を図る。弁護士の法的援助が真に必要となる土壇場で逃げるのである。
このような弁護士と依頼者の関係は「弁護士主権」というべきもので、これでは依頼者だけでなく、相手方当事者や関係者を不幸にする。こんなことは、私にはできない。私にできることは、紛争の全体像を明らかにしたうえで、具体的解決方向や方法について依頼者と協議し、依頼者自身の主体的力によって解決できるように援助することである。したがって、依頼者の意向や決定を尊重するのは当然である。すなわち、「当事者主権」である。
「単独親権制」という不正義に乗っかったまま、親に説教したり、引渡し強制執行や人身保護請求に尽力する弁護士が跋扈しているかぎり、日本の親子は幸せになれるはずがない。しかし、そのような弁護士しかいないとすれば、問題は当事者に返ってくる。当事者が依頼しなければ弁護士業は成り立たないのだから、弁護士を鍛え育てるのも依頼者なのである。
翻って、当事者は、国の主権者であり、最高裁判事をリコールする国民審査権も有している。さらに、裁判員制度や検察審査会制度など、司法を動かす側に参画するようにもなった。すなわち、司法や法制度は、もはや専門家の独占物ではないのである。したがって、専門家の横暴に怯むことなく、「自分の人生は、自分が支配する」という自律の精神を涵養しながら立ち向かえば、司法を幸福追求の道具とすることができるのである。