親から引き離された子どもの物語
ライラ・エルメルガーウィ
私が4歳の頃のことでした。ある日私は、父によそ行きの服を着せられ、祖父母の家に連れて行かれました。そこには見知らぬ美しい女性がいて、兄はその人を見るなり駆け寄って抱きつきました。私は父から、その女性が「私の母」だと聞かされました。
当時私は英語を話せなかったので、母の言うことを理解できませんでした。彼女は私を抱きしめようとしましたが、私は怖くなり泣き出して逃げてしまいました。父は私を部屋に連れ戻そうとして、大丈夫だよと言い、良い子にして部屋に戻り、米国から私に会うためはるばるやって来た母としばらく一緒に時間を過ごしなさいと諭しました(当時私たちはエジプトに住んでいたのです)。それでようやく母のところに戻って一緒に時間を過ごしました。母の言うことが理解できなかったので、うれしかったのは母がくれたおもちゃだけでした。その日以来、私が母に会うことは長い間ありませんでした。
この直後から私は「連れ去り」、「子どもたちの母親」、「出国」、「弁護士」、「米国大使館員」について話す父と父の家族の会話に注意を払うようになりましたが、それがどういう意味を持つか全く分かりませんでした。父は私を母の祖国である米国から連れ去ったことを話してくれ、母は私を父から引き離すつもりなので、私を二度と母に会わせるつもりはないと言いました。エジプトを出るまでの数カ月間、私たちはおびえて暮らしました。
私たちは母や米国当局から逃れるため、3カ国を転々と移り住みました。このような目に遭ったので、最初のうちは「母」に対し怒りと憤りを覚えました。父をとても好きだったので、彼から引き離されたくありませんでした。その後、成長するにつれ、この怒りや憤りの感情に見捨てられたという気持ちや悲しさが交じり合い、母との再会を願うようなりました。母親と住んでいる友達をうらやましく思い、自分も母のことをもっと知りたいと思いました。当時、母について私が知っていたのは名前と、母と会った日の薄れ行く記憶だけでした。でも母についてそれ以上聞けませんでした。
私には母親がいるとはどういうことなのか全く分かりませんでした。子ども向けの本を読む時にはいつも、他の子どもたちのように妖精とはどのようなものかと思い巡らすのではなく、母親がいるということを本の登場人物はどう感じているのだろうと考えていました。私はいつも、母親がいることは世界で最も素晴らしいことに違いないと思っていました。一方で母についての歌や母の日は大嫌いでした。私は今もそうですが、当時父を深く愛していましたし、また彼が私をこよなく愛していることも知っていました。ですからその父が私を傷つけることをするなどと考えたくありませんでした。父が私を母の元から連れ去ったのには相応の理由があるといつも考えていました。でもいつも寂しさと物足りなさを感じ、それをすべて母のせいにしていました。
13歳の時に、母が兄と電話で連絡を取り合っていると知るまで、私は母に対するこのような複雑な感情を抱いて生きていました。私は兄に対して強い怒りを覚えました。彼が父を裏切り、「流浪」の身となり(当時はそのように感じていました)隠れるようにして生きてきた年月を無駄にしたと思ったからです。ある日兄の部屋に行くと、彼は母と電話で話しており、母が私と話したいと言っていると言いました。私は仕方なく受話器を取り、初めて母の声を聞きました。母は長年、私を探し続け、ようやく私の居所が分かってうれしいと言いました。その頃は私も英語が少し話せたので、彼女が言うことを理解しましたが、私は泣くだけで何も話せませんでした。
その後、何日も何カ月も私は悩みました。母と話すかどうかを、私でなく誰か他の人が決めてくれればいいのにと思いました。また父を裏切っているようにも感じました。当時、父が事情を知り、私に母に会いたいかどうか尋ねていたら、父の気持ちを傷つけないよう「会いたくない」と答えたでしょう。母を私の人生に受け入れるかどうか考えられるようになるまでにも長い時間がかかりました。そして母には会えないと思いました。結局、彼女は私にとって見知らぬ人でしかありませんでした。しかし母の忍耐力と粘り強さのおかげで、とうとう私は彼女に会うことに同意しました。母がエジプトに来たので、私は父の家を抜け出し、長年会うことのなかった母と久しぶりに再会しました。
もっともここでお話ししたいのは私のことではありません。私は今や26歳の成人で、母とは12年前にエジプトで再会して以来、連絡を取り合っています。大学時代は毎年夏を母と過ごしました。母から引き離された後、子ども時代にさまざまな精神的苦痛を経験し、あらゆる苦しみや苦悩を黙って耐えたにもかかわらず、私は幸運です。今は母を知っていますし、以前いつも願ったように、母は私の人生のとても大きな部分を占めています。母親なしで過ごした歳月は決して取り戻せませんが、母親のいない今の自分は考えられません。
ここでお話ししたいのは、人生から片親を奪われ、毎朝目覚めると私が子ども時代に感じたのと同じつらい気持ちになる、日本の多くの子どもたちのことです。昨年、在日米国大使館でインターンをしている時に、この事実を知りショックを受けました。親による日本への、あるいは日本からの子どもの連れ去り事件の今後の発生を防ぐため、日本がハーグ条約に加盟した場合の影響を前向きに検討していることも知りました。
一方で過去に日本に連れ去られた多くの子どもたちが、大人になるまで自分の国に戻れなかったり、残された親に会えないことを知り、悲痛な思いにかられました。こうした子どもたちは、私が経験したような苦悩の中で、つらい毎日を過ごし、無力感を感じながら成長していかなければなりません。私の母は何年もの間私を探し続け、最後に私を見つけ出すことができたので、私たちは共に幸運でした。日本で私が出会った、置き去りにされた親御さんの中には、連れ去られた子どもを見つけるという希望を失いかけている人もいました。十代の時に母に会うために、父の家をこっそり抜け出さずにすめば良かったのにと私は思います。連れ去られた多くの子どもたちが親と再会し、家をこっそり抜け出さなくても苦しみを終わらせることができるよう、日本の制度に選択肢が増えることを願っています。
ライラ・エルメルガーウィ
2010年夏、在日米国大使館でインターンを務め、現在は米国ワシントンDCの地球環境技術財団で、世界各地での持続可能な開発の推進を担当。アインシャムス大学(エジプト・カイロ)で日本語の学士号、デューク大学(ノースカロライナ州)で一般教養・国際開発政策の修士号を取得。