この文章は、DCI日本支部において、共同親権運動ネットワークの会員でもある
DCIメンバーが基礎報告書をもとに作成したレポートの草稿です。
実際には、DCI日本支部からこのレポートとは別のレポートが提出されました。
国連子どもの権利委員会からは、離婚と子どもに関するいくつかの勧告が今年出ましたが、
親子引き離し問題については触れられることがなく、先日8月10日DCI日本支部が開いた
子どもの権利委員会のクラップマン委員との対話集会でも、
「家裁をとおして解決をはかるべき」との委員の発言があり、
家裁に行けばこじれて子どもと引き離されるだけの、
日本の実情がまったく伝わっていないと感じました。
もちろん、委員は、両方の親から子が養育されることの必要性を述べていましたが。
他方、他の勧告では、養育費の徴収強化とともに
事実上連れ子養子の禁止を求める勧告があり
単独親権制度を現行のまま維持することは、
国連勧告からしても不可能となっています。
離婚後の親子のつながりについて
副題:「離婚は縁切り」の文化と子どもたち
子どもの権利条約違反条項:第7条1項、第9条3項、第12条、第18条、第21条(a)
関連基礎報告書:237~265
(「縁切り」とは、双方の人間的な関係、接触、つながりを絶つことを意味する。)
1.はじめに
家庭環境において、子どもの権利が最も不安定な状態になるものの一つが、両親の離婚だ。面会交流は、別れ別れになった親子が人間的な関係および接触を維持するために必須のものであり、子どもにとって、親を知り親によって養育されるための重要な権利である。
しかし、日本では面会交流の実現が極めて困難なものとなっており、多くが実現できず、子どもは離婚によって別れた親との人間的なつながりや接触を絶たれてしまう。そのため、子どもは、大事な成長発達の過程において、別れた親から受けるべき多くのものを、全て受け取ることができない。
ニュースで報道される虐待児の多くが、離婚家庭の子ども、という指摘がある。現実に、離婚後、母親の連れ合いによって子どもが虐待され死に至るなどのケースが、昨今よく新聞やテレビで、報道されている。(⇒基礎報告書265)
離婚が貧困につながる場合もひじょうに多い(日本の母子世帯の貧困率は66%と突出、阿部彩著「子どもの貧困-日本の不公平を考える」2008年岩波新書より)。
しかも現実は、別れた親の側には、子どもたちがどうしているのか、ほとんど知る術がない。例えば、裁判所でも、子を監護する親が拒否をすれば、別れた親に対して、子どもの住所、消息さえも教えてくれない。
もし子どもが虐待されていても、貧困に陥っていても、別れた親には、それを防ぐことはおろか、子どもたちがどのような生活をしているのか、どこに住んでいるのかさえ、知ることができないのだ。
2.日本の離婚の増加と旧来の家族意識
1970年の離婚率(離婚件数/婚姻件数)は9.3%であったが、それが2007年は35.4%と3.8倍に増加している。2003年から2007年までの5年間をみても、毎年約24~29万人の子どもの親が離婚している。これは、その年の出生数の22~26%にも達する数値である(厚生労働省の人口動態統計より、但しこの統計では子どもとは20歳未満の未婚の子をいう)。このような状況にもかかわらず、離婚で別れ別れになった親子の問題について、日本では関心が払われてこなかった。
日本には、「離婚は縁切り」という旧来の家族意識がある。そのため、親が離婚をすると共に、多くの子どもたちは、別れた親との人間的なつながりや接触を絶たれてしまう。それに伴い、別れた親の側の祖父母、伯父伯母(叔父叔母)、従兄弟等の親戚との関係も絶たれてしまう。
また、離婚は恥あるいは後ろめたいことという倫理観や偏見が存在し、離婚にかかわる問題がなかなか表面に出にくい社会となっている。
面会交流を扱う家庭裁判所も非公開となっているので、裁判所で面会交流がどう扱われているかの実態も、なかなか表面に現れてこない。
面会交流に関する統計的データも、ほとんど存在しない。親の離婚によって多数の子どもたちが、別れた親との人間的なつながりや接触を絶たれていると推定される(少し古いデータだが、1997年の当時厚生省による人口動態社会経済面調査報告「離婚家庭の子ども」によれば、調査した親1,885人の内約65%が、別れた子どもとほとんど会っていないか全く会っていないとなっている(調査対象は1997年1月以降に別居しその年の6月に協議離婚した者、したがって、調査時期は不明だが調査対象者は離婚後さほど期間が経ってないものと思われる))。
2000年に家庭裁判所で取り扱われた面会交流の件数は2,180件であったが、それが2007年には5,591件となっており(司法統計より)、面会交流に対する意識の高まりとともに7年間で2.6倍に増加している。しかしそれでも、2007年に親が離婚した子どもの数は245,685人であるから、家庭裁判所で取り扱われた件数はその僅か2.3%でしかなく、面会交流全体からみて氷山の一角だ。
子どもと別れた側の親の多くは、日本の旧来の「離婚は縁切り」という家族意識により、子どもと会うのを諦めている。一方の、子どもを監護する親の多くは、子どもを別れた親に会わせなくて当然、という考え方を持っている。同様に、面会交流を扱う裁判所も、旧来の家族意識の下に、面会交流の実現に対して消極的であるか、否定的だ。裁判所には、別れた親はそっと陰で見守るべきであり別れた家族の前に表立って出てくるべきではない、という日本の美徳的な考え方が未だに根強く残っている。
別れた親の側が知らない間に、親権者(日本は離婚時単独親権制)が再婚して子どもに法律上の新しい親が出来るという、「連れ子の養子縁組」の問題も存在している。
以下に述べる、法律の不備と、理不尽な裁判所のために、子どもの権利条約第9条3項に定める面会交流は、日本において実現されていない。
3.法律の問題
日本の民法の家族制度にかかわる部分は、第二次大戦後の1947年に改正されて以来、その後の核家族化や離婚再婚の増加、少子化、女性の社会進出等の社会変化に対応しないまま、現在に至っている。親権については、1898年(明治31年)に施行された民法の条文がほぼそのまま残る等で、「法は家庭に入らず」として公的介入を抑え多くを親権に委ねた、家父長制大家族(核家族に対して)時代の強い排他的な親権(例えば、親権の有無でオール・オア・ナッシングになる等)が維持されている。
a)面会交流の法律がない
日本には、面会交流に関する法律がない。父母間の協議が調わないときは、裁判所の判断に任せられる(民法766条を類推適用、最高裁2000年(許)第5号決定)。
しかし、以下で述べるように、裁判所は面会交流に前向きではない。たとえ、裁判所で面会交流の実施を決めることができたとしても、監護親が拒否をすれば、強制力も罰則もないため、面会交流の実施は守られず、絵に描いた餅となる。はじめの数回だけ実施されて、後は実施されないというケースが多い。裁判所による履行勧告も強制力がないため、相手側の対応次第では、意味を成さない。
さらには、法律等の明確な判断基準がないため、子どもに会う会わせないで父母が互いに自己の主張を押し通そうとして、父母間の葛藤がより深刻化しやすい環境となっている。
裁判所で決めた面会交流の、不履行に対する唯一の対応策として、慰謝料請求の申し立てが可能だが、多くは、その後の父母間の関係を悪化させ面会交流の実現をより困難にする。
b)単独親権制
日本は、離婚に際して単独親権制をとっている(民法819条)。婚姻中は父母が共同で親権を行う。しかし、離婚をしたときは、父母のどちらか一方が親権者となり一方は親権を失う。親権を失った親は、法律上、親として扱われなくなり、子どもを養育する権利も義務も失う。
現実に、親権を持たない親に残るのは、扶養義務としての養育費の支払い(多くは子どもの顔も見えない銀行振込)と、死後の子どもへの遺産相続だけだ。消息(住所、学校、学業、健康状態、病気、身長体重等の発育状況、職業、等々の情報)さえ、たとえ子どもが重大な病に陥っていても、監護親が拒否をすれば、別れた親には何も知ることができない(家庭裁判所で面会交流の調停中にもかかわらず、子どもが拒食症になっていても知らされない例がある)。面会交流が実現しない場合には、人間的なつながりは全て絶たれると言える。
子どもの消息さえ知ることができないこのような状況は、別れた親の養育費の不払いにつながる要因にもなっている。
日本では2007年のデータで、親権者の81.1%が母親、15.2%が父親となっている(厚生労働省の人口動態統計より)。離婚に際して裁判所も、母親が親権者となるよう勧める。一方で、旧来の「嫁」という家族意識(男尊女卑の一種)により、母親が親権者となれず、母親が子どもとの接触を絶たれる悲惨なケースも存在する。
c)養子縁組(子どもの権利条約第21条(a)に違反)
親権者が再婚し、その新たな配偶者と子どもが養子縁組をする、いわゆる「連れ子の養子縁組」の場合、別れた親には何も知らせる必要がない。即ち、別れた親の側が全く知らない間に、子どもに親権を持つ法律上の新しい親(「養親」)ができる。この場合、役場に届けを出すだけで済み、裁判所等の「権限のある当局」の許可を必要としない(民法798条ただし書き)。これらは明らかに、養子縁組に関する、子どもの権利条約第21条(a)に違反している。
元来は、新たな配偶者との「連れ子の養子縁組」の場合は子どもの福祉を害することはない、という見方に基づいて裁判所の許可を必要としないとされたものであるが、「養親」らによる虐待が多発するなど、今の時代、実態から乖離している(虐待の加害者が男性では検挙数比、実父38%、養父継父30%、内縁24%、その他親戚知人等で保護者と認められる者8%となっている、警察庁生活安全局少年課2008年「少年非行等の概要」より)。
子どもが養子縁組をしたことで、離婚のときに親権を失い法的に親でなくなっている子どもと別れた親は、事前に何も知らされないにもかかわらず、養子縁組で法的に子どもの親となった「養親」に対抗することができず、益々、面会交流の実現は困難なものとなる。
養子縁組後、裁判所は、別れた親に対して、面会交流は再婚家庭の平安を乱し子どもの精神的安定を害する、または、「養親」の監護権を害するおそれがあるとして、面会交流の実施を嫌い認めない。
元々、日本の養子縁組は、「家」制度(下の※参照)の維持を目的として発展してきた歴史的背景から、子どもの利益というよりは、現代社会においても、「家」の承継などの「家」のためあるいは相続のためといった要素が未だに濃いものとなっている。そのため、面会交流においても、養子縁組をした「家」の平穏および安定が優先される。
また、親のための養子縁組として、子を養いたい親のためとか親の老後の扶養のための色合いも、濃く残るものとなっている。大人社会のための養子縁組だ。そのような背景から、例えば、成人や孫や配偶者のある者も養子となることができる。諸外国で認められているような子どものための養子は、日本では1987年に「特別養子縁組」として創設され、ここで述べた普通の養子縁組とは別に存在するが、ひじょうに数が少ない。
(※「家」制度とは、第二次大戦まで続いた、同一「氏」の家族から成りその長である「戸主」(主にその家族の最年長の男がなる)が統制する、「家」を単位とした、日本の旧来の家父長制家族制度。「氏」はその「家」の名称として代々子孫に引き継がれる。
現代でも「家」制度の意識は存在し、今も有る日本独特の、同一「氏」の夫婦と子どもを家族の単位とする戸籍制度(戸籍法)が象徴的な存在。戸籍は「家」と同等と見なされる。個人ではなく「家」を中心に考える「家」制度の意識が、「離婚は縁切り」の文化と共に、離婚後の親子関係に影響を与え、今でも、離婚で「家」が別々になった親子の接触を困難にしている。)
4.裁判所の問題
法律の整備がされていないため、面会交流は裁判所の判断に委ねられる。しかし、裁判所の実態は、面会交流を扱う家庭裁判所が非公開のため、なかなか表面に出てこない。当事者も、離婚に対する世間の偏見があるため、なかなか話そうとしない。そのため、離婚で子どもに会えないでいる親は、自分の問題しか見えず、同じ問題で困っている人々が他に多く存在していることや、その実態、情報を知ることができず、家庭裁判所の非公開あるいは密室性(個室で行われ、外部へは当事者が話さない限り漏れない。以下で述べる基礎報告書238~264を提出したグループが、全国の家庭裁判所へ質問状を送ったが、回答は口頭で一律「事件処理に関する方針、見解、法解釈を求める質問については、各事件の内容によって家事審判官が個別に判断する事項であるので、お答えすることはできません」となる)が、これら子どもに会えないでいる親の横のつながりや連携をも阻害する結果となっている。また、外部から実態を見えなくしている。
しかしやっと、昨今のインターネットの普及等により、当事者の声が少しずつ外部に流れてきて、僅かにだが当事者間の連携もできるようになってきた。そこから見えてきたことは、裁判所による親子の引き離しが野放しに行われている、と言っても過言ではない状態だ。(⇒基礎報告書238~264。これは、昨年2008年7月に結成された我が子に会えない親達のグループから提出されたものである。悲惨な現実が書かれている。)
以下に、日本の面会交流に一番身近に接している、裁判所の問題をいくつか述べる。
a)子どもの権利条約が効力をもたない
子どもの権利条約第9条3項に面会交流を定めていても、日本の裁判所では子どもの権利条約が効力を持たない。憲法第98条2項に「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とあるにもかかわらず、当事者が裁判所へ子どもの権利条約の存在を申し出ても、裁判所は無視無反応だ。
b)「子どもの福祉」という言葉の危険性、および、裁判所内で聞かれる言葉
海外では「子どもの福祉」のために、面会交流を行う。しかし、日本の裁判所は、「子どもの福祉」を理由に、面会交流をさせない。
「子どもの福祉尊重による面会交流の制約」、「面会交流の実施は子どもの福祉を害する」等々、裁判所では面会交流の制約のために頻繁に「子どもの福祉」という言葉が使われる。しかし「子どもの福祉」という言葉がどのような意味を持って使われているのか、本当に「子どもの福祉」になっているのかどうか甚だ疑問だ。使い方や意味の十分な吟味もされず、安易に使われて、定義も基準も明らかではない。ただ「子どもの福祉」と言えば何事も最優先で通ってしまう便利な働きを持つ言葉として、裁判所では使われている。意味曖昧な偽善のまやかしの言葉となっている。裁判所が面会交流を認めない判断を下すほとんどの場合に、「子どもの福祉」が主要な判断理由として使われている。日本の裁判所で使われている美名「子どもの福祉」は、面会交流にとって極めて危険な言葉となっている。
裁判所内では、次のような言葉が聞かれあるいは文書(審判、決定文等)となる。「子どもの福祉のためには別れた親に会わせない方が子どもは混乱しなくてすむ」、「子どもが自発的に会いに来るまで親は待つべきだ」、「別れた親は(子どもの前に表立って現れるべきではなく)子どもを影からそっと見守るのか最も良い選択だ」、および、「(親が再婚した場合に面会交流は再婚家庭の安定を乱すとされて)『実父』の面会交流は『養父』らの監護権を害してはならず、『家』の平穏な安定した生活が子どもの精神的安定に結びつく」等々。これらの言葉は、裁判所内に存在する日本の前近代的家族意識に基づくもの、あるいは、旧来の「家」制度の意識が残るものである。
なお、裁判所では、「子どもの最善の利益」という表現は使われない。これは未だ、裁判所においては、子どもの権利という概念が希薄で、福祉として大人から子どもに与えるものという、大人の側から見た意識が支配的であるためだと考えられる。
c)誤った子どもの意見の尊重(子どもの権利条約第7条1項、第12条に違反)
日本の裁判所では面会交流の事案であっても、審理に数カ月かかることは当たり前であり、時には数年かかることもある。その間に、別れた親と子どもはほとんど会わせてもらえず、子どもは監護親の影響を受け監護親の顔色を見たりして、別れた親を中傷したり敵対的行動をとるようになる、いわゆる「片親引き離し症候群(PAS:Parental Alienation Syndrome)」に冒されやすい(⇒基礎報告書239-264の中の報告06、07、09、10)。しかし、裁判所は、そのような子どもが別れた親に対してとる拒否的態度を、そのまま子どもの意志の尊重だとして採用し、その子どもの別れた親に対する拒否的態度や発言に基づいて、別れた親との面会交流を禁止する。背後にある、毎日子どもと生活を共にする監護親の影響が考慮されることはまずない。
ここで、裁判所が別れた親との面会交流を認めない決定を出すということは、子どもが別れた親の正しい情報が届かない中で監護親の影響のみで生活するという偏った環境あるいは閉ざされた環境を、さらに助長する結果につながる。そのため、さらに「片親引き離し症候群」が進行し、子どもの別れた親に対する拒否的態度がより強固になる。すなわち、裁判所のやり方は、別れた親子を益々会えなくするという、悪循環を増幅させる結果となる。
子ども自らに「親と会いたくない」と言わせ、子ども自らが自分の言葉で、別れた親との人間的なつながりを絶つことになるのである。悲しいことだ。子どもの別れた親への自然で自由な気持の成長発達を押し曲げ、別れた親を拒否し嫌いにさせる、このような行為は子どもへの精神的虐待だ。そして裁判所は、子どもの意見尊重という名の下に、子どもが自身の親を知り親によって養育される権利を、蹂躙しているのだ。
裁判所の家事審判規則第54条に、「子が満15歳以上であるときは、家庭裁判所は、子の監護者の指定その他子の監護に関する審判をする前に、その子の陳述を聴かなければならない。」と定めている(人事訴訟法第32条にも同様の条文がある)。ただし実態は、満15歳以上の子どもが「別れた親と会いたくない」と言えば、たとえ幼いときに別れて以来長年、監護親家庭内で、別れた親の情報が絶たれ、別れた親の誤った情報を教えられ、別れた親の書いた手紙が監護親によって子どもに届けられないような環境で育ち、別れた親への自然で自由な気持の発達が抑えられた環境に置かれてきた子どもであっても、裁判所は、そのような成育環境の影響とか、子どもの心の内面等を考慮することもなく、子どもの陳述を根拠に簡単に面会交流を禁止する(⇒基礎報告書237)。これでは裁判所が、子どもの陳述の背景と環境等を考慮しない、家事審判規則第54条の乱用である。さらに、子どもにとっては、別れた親の真の情報という重要な判断材料が欠如したままで、面会交流に対する可否判断の陳述を、裁判所から求められていることとなる。これでは子どもの知る権利の重大な侵害状態を、裁判所が黙殺している。
子どもの意見を聴き採用するためには、監護親家庭内のことで子どもに与える情報に偏りが生じるのは仕方がないとしても、子どもが判断するのに必要な相応の正しい情報と環境を、子どもに与える必要がある。それが、真の子どもの意見の尊重につながる。
さらに、子どもが、別れた親について、監護親から偏り有るあるいは誤ったことを教えられ、別れた親の真実の姿を知ることができないまま育つのは、子どもの人間形成にとって、また、子どもの長い人生を考えた場合に、決してよいことではない。
d)日本の裁判所の面会交流に対する実情
日本の裁判所は、判断を下すところであり、面会交流の面倒をみる場所ではない。裁判所は、父母が自分にとってより有利な結果を得るために、時には弁護士も加わり、自己の主張の正当性と相手方の非を述べ合う、長い戦いの場となる。このことは、父母双方のさらなる関係悪化を招きやすい。そして、その戦いが決着すれば裁判所はそれで終了となる。その間に、裁判所は、時間をかけて親子への教育とか指導、カウンセリングを行うわけでもなく、子どもの成長発達という長い目で見るのでもなく、短視眼的に会わせる会わせないを決定する。本来なら、面会交流は子どもの人間形成にかかわることであるから、長い眼で見た判断とその後のフォロー、教育、指導およびカンウセリング等がひじょうに重要になるのだが、日本の裁判所はそこまでしない。当然、これら裁判所を支援する社会の体制も未発達となっている。
一方で日本の裁判所は、時間の流れが遅くかつ審理にやたらと時間がかかり、審判の結果を待つだけでも半年かかることもある。上訴をすればすぐに数年が経過してしまう。また一度決定したことは、子どもが成長発達しているにもかかわらず、なかなか裁判所は変えない。このため一度面会交流を否定されると実質少なくとも5年間は、親子の関係を絶たれてしまう。これでは子どもの成長する速度に到底追い付いていけず、裁判所は子どもの成長発達に合わせた臨機応変な対応が全くとれていない。また、長い年月を空けることで、前に述べた「片親引き離し症候群」による悪循環で、別れた親への拒否的態度がより深刻化し、益々、親子は会えなくなる。
また、裁判所では、現状維持の傾向が強く(例えば、「子どもを取ったもの勝ち」)、現に子どもと生活をしている監護親の意見が、子どもと別れた親の意見より優先される。このことは、子どもを別れた親と会わせたくないとする監護親の意見が優先されることとなり、益々、面会交流が実現困難なものとなる。面会交流における弱者である別れた親と子どもが犠牲にされ、解決が図られやすい。家庭裁判所の調停で、監護親が1回出席しただけで、監護親側は後は代理人のみというケースもある。父母の高葛藤状態も、裁判所が子どもに会わせない要因となるため、別れた親の側は、子どもを人質に取られているようで、身動きがとれない。
法律には、面会交流を行えとは書いていない。しかし、するなとも書かれていない。裁判所が介入することにより、それまでの社会としてのゆとりとか大らかさ、人間味が失われ、裁判所の判断が実質法律の役割を演じ、面会交流が規制を受けて親子としての人権が奪われ、より面会交流が実現困難になっている。今のままでは、人権を守るべき裁判所が、面会交流の前に大きな壁となって立ちはだかり、親子間の人間的関係を完全に破壊している。将来にわたってまで、親子関係をつくれなくしてしまう、または、親子の接触を絶ってしまっている。
e)面会交流の頻度および実効性
前の第2項のところで述べた、2007年の家庭裁判所での面会交流の取り扱い件数5,591件の内、面会交流が認められたのは3,180件。認められた頻度は、月1回以上1,691件(取り扱い件数に対する割合30.2%)、2~3カ月に1回528件(同9.4%)、4~6カ月に1回194件(同3.5%)、残り767件はそれ以外(別途協議を含む)となっている(2007年司法統計より)。
見方を変えれば、約70%が月に1回も親子が会うことができない。さらに、面会交流を申し立てた5,591件の内、2,411件(同43.1%)が面会交流を認められず、767件(同13.7%)が半年に1回以上の面会交流を認められない。すなわち、この後者2つを合せると、親が子どもに会いたいと申し立てた内の半分以上の約57%が、子どもに会えないか、ほとんど子どもと会えないのである。これだけ多くの親子を会わせない理由が、本当に存在するものだろうか。疑念を持たざるを得ない。
面会交流の時間も一般に1回が1~2時間程度で、諸外国に比べてかなり貧弱となっている。最近、年に3回子どもの写真を送るだけ、という審判結果も出た(⇒基礎報告書239-264の中の報告14のその後)。
さらには、裁判所で面会交流を決めたとしても、強制力も罰則もないため、はじめの数回だけ実施されて後は守られないケースが、かなり多いと推定される(実態を把握するための追跡調査は行われていない)。たとえ現在、子どもと会えていても、監護親の意向でいつ会わせてもらえなくなるかもしれない状態だ。そのため、裁判所で面会交流を決めていても、長年にもわたり親子が会えないケースが多数存在する(⇒基礎報告書237~264の中にもそのようなケースが複数存在する)。
また、監護親から、子どもに会わせないために、DV法(「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」)を用いて虚偽のDVを申し立てられ、子どもと会うことができない親もいる(⇒基礎報告書239-264の中の報告04、05)。日本はDVで訴えられると、たとえ虚偽でも反論をなかなか受入れてもらえず、およびDVに対する救済支援策が未整備で、ほぼ確実に親子は会えなくなる。
5.社会的支援の不備
a)面会交流を援助する公的な仕組みはない。民間で活動している組織が、営利非営利を問わず僅かに存在する程度である。その民間活動も、面会交流に対する法的裏付けがないため、実効性が薄いのが現実だ。
面会交流に関する組織だった調査も行われず、統計データさえも取られていない状態だ。
昔の家父長制のもとに家族が結びついて生活していた時代とは違い、家庭が核家族化し少人数化し脆く壊れやすく流動的になり離婚再婚連れ子も多い現代社会において、このままの旧来の家族意識では時代に合わず、離婚によって多くの親子は会えなくなり親子間の人間的なつながりは簡単に絶たれてしまう。そして、子どもにとって、クッションとなるべき昔の大家族や親戚も存在せず、影で親子をこっそり会わせようとするような親戚の存在もなく、別れた親の側のより多くの親戚の目に触れる機会も奪われ、核家族化と少人数化および住宅構造の気密化等の変化で外部から家庭状況が見えにくくなり、孤立化しやすく、虐待の温床ともなりやすく、片方の実の親から離されたまま、子どもの立場は益々不安定なものになっている。一人親家庭は高い確率で貧困にも陥る。貧困と虐待は関連性が深いという指摘もある。子どもにとって、「離婚は縁切り」では済まされない時代にきているのだ。
b)刑罰等の対象
監護親の訴えにより、刑罰は容赦なく別れた親に降りかかってくる。子どもと別れて子どもに会わせてもらえない親が、監護親の意に反して、子どもに会いに行ったり接近したりすると、ストーカー扱いされるか、子どもの精神的安定を害するとして裁判所から子どもへの接近禁止命令が出る(⇒基礎報告書237)。子どもを連れ出せば、未成年者略取で有罪となる(離婚係争中に子ども連れ去り事件:最高裁2004年(あ)2199号、弁護士が我が子連れ去り事件:福岡地裁2006年3月27日判決)。子どもと会えない親は、自力で行動することもできず、上述のように裁判所をあてにすることも難しく、八方塞がりだ。
c)ハーグ条約
ただし、日本の伝統あるいはDV被害等からの女性保護の考えに基づくものとして、別居や離婚へ向けての初回の連れ去り、例えば、一方の親が昼間仕事に出ていて不在のときに、不在の親に無断で子どもと共に荷物をまとめて引っ越しは、犯罪にならない。監護親が子どもを連れて行方をわからなくすることも、しばしば発生する。
しかし、国際間のこのような行為は、「1980年国際的な子の奪取の民事面に関するハーグ条約」(日本は非加盟)の違反(海外から日本への子の連れ去り)につながる。(国家間の子の連れ去り⇒基礎報告書239-264の中の報告23~26)
一旦、海外から子どもを日本に連れ去られると、高い確率で子どもと会えなくなる。海外に残された親が、わざわざ日本に来て裁判をしても、ほとんど子どもに会うことはできない。現在、アメリカ、カナダ、フランスをはじめ複数の国が、大きな問題として取り上げている。同時に、日本の親子の面会交流のあり方を、大きな問題として見ている。
6.死ぬまで親子は会えないかもしれない
このような日本の面会交流に対する姿勢により、子どもの成長発達の過程で、長年にわたって親子の関係を絶たれ消息を絶たれたことが、将来にまで影響を与え、子どもが大人になっても親子が会う機会を得ることができず、一生涯にわたって親子の関係を絶ってしまう危険性が、極めて高い。死ぬまで親子は会えないかもしれない。
日本国内の離婚後の親子の間には、北朝鮮による拉致被害と同じ状態が、より数が大規模に、存在している。
これが、子どもの権利条約を批准し、人権の理念に立脚した憲法を有する、国家のすることだろうか。
日本では毎年約24~29万人の子どもの親が離婚し、日々、多くの親子が引き離されている。裁判所の改善と、一刻も早い立法措置が必須だ。
共同親権制への移行等、子どもが両方の親との人間的なつながりの確保と監護養育を受けられるようにするための、「子どもの最善の利益」に基づいた根本的な解決策が急務となっている。
-以上-
2009年10月 染木 辰夫