伊藤聖美:子の奪取条約と各国の外交政策

子の奪取条約と各国の外交政策

 http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2011-12_004.pdf

伊藤聖美 Ito Masami

 はじめに

 2011 年 5 月 20 日、日本政府は「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」(以下「子の奪取条約」と略)に加盟する準備を進めることを閣議了解した。これで日本も先進 7 ヵ国(G7)での孤立化を避けることができた。

日本は、今まで何度も国際社会から厳しく批判され、「親による子どもの拉致を容認する国」、「拉致大国」とまで呼ばれたりしている。各国政府からはさまざまな外交ルートを通じて加盟するようプレッシャーをかけられ、ヒラリー・クリントン米国務長官が日本の外務大臣と会談するたびに子どもの親権問題を取り上げるほどになった。

欧米諸国のこの問題への関心の高さは、日本政府の決定を受けての報道等をみれば明らかだった。『ニューヨーク・タイムズ』、『ウォールストリート・ジャーナル』、BBC などでの報道を通じ、世界中で日本の政府方針は注目を浴びた。『ジャパンタイムズ』では「ハーグ条約加盟に向けて作業開始」と、一面で大々的に報じた。

また、欧州連合(EU)欧州委員会のビビアン・レディング副委員長は「大変前向きな動きである」と評価し、ケビン・ラッド = オーストラリア外相も声明のなかで日本の決定を歓迎すると表明すると同時に、「批准後には、オーストラリア市民と日本との間に存在する、国際的な親による子の奪取の問題が解決の方向に向かうような新たな枠組みが設置される」とまで言い切った。フランス外務・ヨーロッパ問題省報道官も、「多国間協力の枠組みへの加盟に向けた、この決定的な段階を歓迎する」と声明を発表した。

一方、日本のマスコミは閣議了解の事実を淡々と述べつつ、「賛否両論」、「国内反応二分」、「否定意見も」(1)など、国内でのこの問題に対する根強い慎重論を反映する報道が目立った。そもそも子の奪取条約については、国内では今まで比較的目立たないニュースであり、どういう問題なのか自体ほとんど何も知らないという記者も、数年前までは少なくなかった。

国際結婚とはいえ、一見すると家庭内の事情とも思える親による子どもの奪取であるが、欧米諸国では特にここ数年、日本に対し子の奪取条約の批准を促す圧力を急激に強め、外交問題化しつつある。この認識の違いはどこから生まれたのか。

1   在日大使館の取り組み

 1) 子の奪取問題についてのシンポジウム

各国政府によるこの問題への取り組みは、2005 年に遡ると言われている。この年の 12 月 3日に在京領事・総務関係者団体(TCAC)主催でカナダ大使館において開かれた子の奪取条約のセミナーには、大使館関係者、非政府組織(NGO)、法律家、学者、報道関係者など、延べ 150 名ほどが出席し、当時はほとんど知られていなかった「親による国境を越えた子の奪取の問題」について紹介され、話し合われた。

そこにはカナダ人のマリー・ウッド氏などの当事者も参加し、体験談を語った。彼の 2 人の子どもは 2004 年 11 月に日本人である元妻と一緒に、「重体」であると言われた祖父のお見舞いのために日本に一時帰国したまま戻ってこなかった。ウッド氏にはカナダで単独親権が認められていて、元妻に対しては逮捕状も出されていたが、その後日本の埼玉地方裁判所、東京高等裁判所、そして最高裁判所において、親権は元妻に「変更」するという判決が言い渡された。そして、2011 年 9 月現在も子どもは日本に残されたままである(2)。

同セミナー参加者の一人であったマウラ・ハーティー米国務次官補兼領事担当(当時)は、この会合に 21 ヵ国以上の国の関係者が参加したことに触れ、「国際的な親による子の奪取は悲劇」であると指摘した。そして、このような問題を「公平かつ平等に解決する最も良い方法」として子の奪取条約を紹介した(3)。

さらに、セミナー後に行なわれた共同記者会見では、ハーティー国務次官補とともにグレアム・フライ英国大使とカナダ大使館のマッケンジー・クラグストン臨時代理大使(いずれも当時)が、日本が子の奪取条約に加盟することの重要性を訴えた。

しかし、このセミナーについて日本のマスコミで報道されることはほとんどなかった。

確認できた限り、邦字紙では同年 12 月 10 日の『産経新聞』で、そして英字紙では 12 月 4 日の『Daily Mainichi』と 12 月 31 日の『ジャパンタイムズ』で、子の奪取条約の問題について紹介されたのみであった(4)。当時日本国内でいかにこの問題への関心が低かったかが明らかである。

2) 子の権利に関するハーグ条約の第一人者

数年後の 2008 年 3 月に、同じカナダ大使館で「ハーグ条約― 21 世紀における国際的な子の権利」というシンポジウムが開催され、当時のハーグ国際私法会議常設事務局次長ウィリアム・ダンカン教授が基調講演を行なった。ダンカン氏は子の権利に関するハーグ条約の第一人者として知られていて、制度の仕組みやなぜ日本が加盟すべきかを説明した。

基調講演のなかで教授は、日本が子の奪取条約に加盟することにより日本から連れ去られた子どもたちの権利を守ることができ、日本に残された片方の親の支援も海外で保障されると強調しつつ、加盟は国際社会で法的義務を果たすことでもあると述べた。また、日本で強く懸念されている元妻などが家庭内暴力(DV)の被害者であり、日本に逃げて帰ってきた場合も子どもは戻されてしまうのか、ということについては、条約の例外事由に該当し、子どもに「重大な危険」が及ぶ場合は、例外的に返還されないことを説明した。

3) 各国在日大使館の連携

また、ここ数年、各国在日大使館の連携も強化されつつある。2009 年 5 月には在日米国大使館で開かれた子の奪取条約に関するシンポジウムの後、米国、英国、フランスおよびカナダの 4 ヵ国が共同記者声明を発表した。そのなかで、日本が G7 のなかで唯一、子の奪取条約に調印していないことを強調し、日本が加盟することによって子の奪取問題を抱える日本との関係が「改善することを切望している」と述べた。

それ以降、多くの各国駐日大使などが一緒に日本の法務大臣や外務大臣などと面会し直接働きかけるようになった。同年 10 月には、当時の法務大臣であった千葉景子氏に、米国、オーストラリア、英国、カナダ、フランス、スペイン、イタリアおよびニュージーランド

第 1 表 わが国の子の奪取条約加盟をめぐる欧米諸国等の主な動き

日 時

関係国

関係機関・会議

概 要

2005年12月在京領事・総務関係者 団体(TCAC)

子の奪取条約についてのセミナー

わが国の子の奪取条約加盟を要請

2008年3月ハーグ国際私法会議常 設事務局等シンポジウム「ハーグ条約 ―

21世紀における国際的な子の権利」

子の奪取条約へのわが国の加盟を要請2008年7月カナダ日加首脳会談子の奪取条約へのわが国の加盟を要請2008年11月カナダ日加外相会談子の奪取条約へのわが国の加盟を要請2009年3月�米国�連邦議会下院�子の奪取条約未加盟国への加盟要求を決議�2009年3月�米国�日米外相会談�わが国の子の奪取条約加盟の検討を要請�2009年5月カナダ日加外相会談子の奪取条約へのわが国の加盟を要請

2009年5月

米、英、仏、カナダ

臨時代理大使・公使等わが国の子の奪取条約の早期批准を求める 共同声明発表2009年9月英国日英外相会談子どもの親権問題に言及

2009年10月

英国主席大臣兼ビジネス・イノベーシ ョン・技能大臣総理表敬

わが国の子の奪取条約加盟の検討を要請

2009年10月米、豪、カナダ、仏、 伊、NZ、スペイン、英

法相と大使・公使の会談

わが国の子の奪取条約早期批准を要請

2009年12月

米国連邦議会上院超党派議員(外交委 員長等)大統領にわが国の子の奪取条約早期加盟要 求等を内容とする書簡送付

2009年12月

米国

連邦議会下院人権委員会公聴会米国政府に子どもの連れ去りに対応しない 国に罰則を科することを求める意見あり

2010年1月

米、豪、カナダ、仏、 伊、NZ、スペイン、英

外相と大使・公使の会談わが国の子の奪取条約早期批准を要請、会 談後に同条約加盟は日本を母国とする親に も利益になるとの声明発表2010年3月フランス外務・欧州担当大臣総理表敬子どもの親権問題に懸念表明2010年3月フランス日仏外相会談子どもの親権問題に言及

2010年3月

米、豪、カナダ、仏、 伊、NZ、スペイン、英

大使・公使による共同声明わが国が関係する国際的な親による子ども の連れ去り増加に懸念表明、子の奪取条約 早期批准を要請

2010年5月

米国

連邦議会下院国際結婚破綻後の日本人による子どもの連 れ去りを非難し、わが国の子の奪取条約早 期加盟等を求める等の決議案提出

(出所) 大山尚「国際離婚と国境を越えた子どもの連れ去り― 子どもの奪取条約について考える」『立法と調査』307号(2010

年8月1日)、126ページhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2010pdf/20100801120.pdf)。

の各国駐日大使が面会し、「日本が関係する、親による子の奪取は、私たちの国の非常に多くの国民に影響を及ぼしている」と訴えた。そしてさらに 2010 年 1 月には、当時の岡田克也外務大臣とも会い、「日本は私たちにとって大切な友人であり、またパートナーでもある。

そして私たちと多くの価値観を共有している」と強調し、加盟するように促した。参加国も次第に増え、2010 年 10 月の柳田稔法務大臣(当時)や 2011 年 1 月の山花郁夫外務大臣政務官との面会時には、上記 8 ヵ国以外にハンガリー、コロンビアおよび EU などが加わり、さらに圧力を強めた。

2   父親たちの訴え

 1) ある父親の決意

しかし、日本政府の答えは、常に「検討中」であった。そこで、待ちきれないある父親は自分の手で子どもを取り戻そうと強硬手段に訴えた。これは、後に米国政府が日本への圧力を強めるきっかけとなったとも言える事件にまで発展した。

それは 2009 年 9 月 28 日福岡で起きた。日本人の元妻が日本に連れて帰った 2 人の子どもを取り戻そうとしてアメリカ人男性が逮捕されたのだ。男性は、自分の 8 歳の息子と 6 歳の娘(いずれも当時)を連れて在福岡米総領事館に入ろうとしたところを未成年者略奪容疑で逮捕された。

事件が起きた直後は日本でほとんど報道されることもなかったが米国では連日大きくニュースとして取り上げられていたことを受け、次第に地方紙、全国紙などで、この事件を取り上げる動きが広まっていった。多くの記事では、日米間の国際結婚が破局した後のルールの違いにより、問題解決の難しさが指摘された。さらに、米国では子どもを一方の親の同意なしに海外に連れ出すことが犯罪行為であり、その元妻は米国では逮捕状が出されていたこと、そして、子の奪取条約に加盟していない日本に欧米諸国からさまざまな圧力がかけられていることについての記述もあった(5)。

一方で、米国のメディアの論調は違った。コリン・ P ・ A ・ジョーンズ氏の『子どもの連れ去り問題』にも書かれているように、米国の一部メディアはこの男性を「英雄」扱いし、子の奪取条約に加盟しようとしない日本に対し批判が集中した。そして、この事件を発端

に、日本でこの問題への認識が以前より高まったと同時に、米国では今まで以上に幅広く子の奪取条約と子どもの奪取問題について報道されるようになり、日本に対しより厳しい目が向けられた。

この男性は、後に執行猶予で釈放されたが、逮捕された当初から米国政府による支援もあった。フィリップ・クローリー米国務次官補(当時)は 9 月 30 日の記者会見で「この事案は元妻が不当に 2 人の子どもをアメリカから日本に拉致したものである。領事面会もすでに

実施し、できる限り彼を支援する用意がある」(6)と述べ、日米間のこの問題に対する認識の違いが露呈した。

「子どもを奪われたどの親もが一度は考えたことを彼は実行した。この事件によって米国でもこの問題についての認識が広がった」、そう語るのはポール・トーランド米海軍司令官だが、彼もまた「残された親(LBP: Left Behind Parent)」であった(7)。

2) ポール・トーランド海軍司令官の事案 

日本に駐在中であった 2003 年 7 月 13 日、横浜市にあった米海軍根岸住宅地区の自宅に戻ると、娘、そして日本人の妻が荷物とともにいなくなっていた。残っていたのは「弁護士に連絡をしてください」との置手紙だった。その日から戦いは始まった。

トーランド氏によると、娘と会うために日本人の弁護士を代理人として立て、家庭裁判所での調停なども申請した。しかし結果的には、2004 年に裁判所内で 2 度ほど面会できたのみだったという。しかも、その面会には妻の母親と裁判所の関係者も同席のうえ、マジックミラー越しに別室から妻や代理人などが自分と娘を監視し、ビデオテープに録画されていた、と彼は語った。自分は子どもを奪われた立場なのに犯罪者のような扱いを受けた、と振り返る。

「米国ではあんなことはありえない。本当に屈辱的だった」と、話すトーランド氏。しかし事態はさらに悪化した。なんと 2007 年 10 月にその妻(8)が自殺してしまったのだ。しかも、その頃すでに米国の基地に移っていたトーランド氏は、その事実を 1 ヵ月以上も知らされなかったという。

妻の死を知らされたトーランド氏は一人娘と米国で住む準備を始めようとし、妻の家族と連絡をとった。そのとき、娘は米国にこっちから連れていくから少し待ってほしいと言われたらしい。しかし、そのまま待っていたらいつの間にか妻の母親が法定後見人と認定されていて、「唯一生きている親」であるトーランド氏には、日本の裁判所からも家族からも何の連絡もなかった。

最終的には 35 万ドルほど費やしたにもかかわらず、今年の秋で 9 歳になる娘とは 2003 年以降 3 回しか会えず、「あらゆる手段を尽くした。もう議会に頼むしか方法はなかった」と、当時の決心を語る。

彼は、クリス・スミス米下院議員(共和党)など、子の奪取条約と子どもの奪取問題にかかわっていた議員に事情を説明した。2009 年当時、スミス議員は米国とブラジルとの間で起こっていたある子どもの奪取事件について議会で公聴会を開いたり、その子どもの父親と一緒にブラジルを訪れたりしていた。トーランド氏の話を聞くと、スミス議員は最初からとても同情的で、その後議会や国務省などにいろいろ働きかけをし、全面的に支援をしてくれたという。

3BAC Home について

そこで、トーランド司令官は他の LBP たちと一緒に Bring Abducted Children Home(BACHome)というグループを 2010 年に立ち上げ、その組織は 2011 年にはバージニア州において正式に非営利法人(NPO)として認定された。BAC Home は日本に連れ去られた子どもたちのみを対象とする組織であり、米国のみならず、英国、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、カナダからなど、100 人ほどの LBP が参加している(9)。この団体によると、日本に「拉致」された子どもたちは今までにたった一人も帰国できていないことから、日本は「子どもの拉致のブラックホール」と位置づけている。

さらに BAC Home のホームページでは、北朝鮮との間で日本人拉致問題を抱える日本と北朝鮮を比較し、北朝鮮は 5 名帰国させたのに日本はいまだに「返還率 0%」と、日本語での記載もされている。日本人を拉致した北朝鮮と国として比較されることに違和感を覚えるのは確かであるが、同時に、このような見方を日本に対しもっている LBP も少なくはないことを認識しなければならない。

BAC Home は、その目的を、国民、マスコミ、議会や政府などに働きかけ子の奪取への問題意識を高めることとし、さまざまな集会やデモを通じて活動を広げている。子の奪取とは「たしかに家庭の問題ではあるが個人的なものではなく人権問題だ」とトーランド氏は語る。

さらに BAC Home は、今年 8 月に来日したジョセフ・バイデン米副大統領に、当時の菅直人首相と会談する際には「子の奪取問題について公式に言及してほしい」と、手紙で要求した。また、議会の公聴会などでも BAC Home の活動について取り上げられたりしていた。

例の福岡における「アメリカ人男性による未成年者略奪」事件後の 2009 年の年末以降、トーランド氏などの BAC Home のメンバーたちは、国務省とも定期的に会談をもち、現状報告などを受けている。2011 年 9 月現在、すでに 6 回行なわれたミーティングには、30 人ほど

の LBP に加え、カート・キャンベル国務次官補(東アジア・太平洋担当)をはじめとする多くの国務省関係者やホワイトハウス関係者が参加し、さらには、司法省や連邦捜査局(FBI)からも参加者がいるという(10)。いかにこの問題が米国ではトップレベルの間でも認識されているかが伝わってくる。

「子どもを拉致されるのは人権侵害である。親と子の権利を守ることこそ公共の利益だ」とトーランド氏は語る。この、子の奪取は欧米においては基本的人権の侵害だとする認識こそが、家庭内の個人の問題として民事不介入の立場をとる日本との決定的な違いなのではないであろうか。そして、より普遍的な人権問題としての認識が広まらない日本への反発が、政府や議会などをも後押しする原因なのではないであろうか。

3   強まる「外圧」

 欧米におけるこうした子どもの拉致問題への関心の高まりに反して、子の奪取条約加盟 に関して国内での慎重論が強く、なかなか前進しない日本に対し、国際社会の苛立ちは高 まった。そこで、米国政府を中心に各国はさまざまな方法で、日本に対するプレッシャー をさらに強めた。

1) 米国政府の取り組み

①米・ブラジル間の子の奪取問題

福岡での事件が起こる前、米国では 2009 年当時、ブラジルとの間で 1 件の子の奪取問題が注目されていた。ブラジルは子の奪取条約を批准しているにもかかわらず生じた事案で、前述のスミス下院議員などが何度も父親と一緒にブラジルに行くなど、精力的に解決に向け取り組んでいた。

ニュージャージー州居住のアメリカ人男性とブラジル人女性との間に生まれた一人息子は、2004 年ブラジルに連れ去られ、その後男性は、取り戻すための訴訟を 5 年以上続けた。

女性は、ブラジルで離婚手続きをとり、その後再婚を果たしたが 2008 年に亡くなってしまった。その後は、再婚相手の男性との親権争いになり、訴訟は続いた(11)。

この事案は、オバマ大統領をはじめとする首脳レベルでも取り上げられ、2009 年 3 月に米国議会の下院、続いて上院でも、ブラジルに対し子の奪取条約を遵守しその子どもをアメリカの父親の許に返すよう要求する決議が、満場一致で採択された。また、名指しはされなかったものの、未批准国への加盟要求も決議には含まれていた。そして 2009 年 12 月、ようやくブラジル最高裁判所は子どもを戻すように決定を下した。そしてブラジルの次に目を向けられたのが日本だった。

②米下院決議 1326

2010 年 5 月、米下院では、国際結婚が破綻したのち日本人の親が無断で子どもを日本に連れて帰ることを「拉致」と非難し、早急に子の奪取条約を締結するよう要求する決議が付議され、9 月には米下院議員 416 人中棄権 15、反対 1 という圧倒的多数で可決した。

この決議では、日本人とアメリカ人との間で生まれた子どもたちが日本に「拉致され、または不当にとどめられること」を非難し、LBP と子どもたちが直ちに接触できるよう対処し、子の奪取条約に「遅滞なく加盟」すると同時に、過去の事案に対し遡及効果のない同条約の代わりとなる枠組みを設置するよう、求めた。

なお、唯一の反対票を投じたのは共和党テキサス州選出のロン・ポール議員であり、9 月29 日の AFP 通信によると、同議員は「他国への不必要な内政干渉だ」とみなす案件に関しては反対する立場をとるという(12)。

長年子の奪取問題に取り組んでいるスミス議員は、この決議の共同提出者の一人であり、厳しく日本を批判した。子どもの連れ去りを「児童虐待」であり、「重大な犯罪」と指摘し、たとえ「大切な友人」である日本であってもこの問題を看過することはできない、と話す。

「日本はわれわれの友人であり同盟国であるが、米国市民である子どもたちや親の人権を侵害し、法の支配を妨げている」と同議員は非難する(13)。

③「オバマ政権にとって最優先課題」

上記決議を受け、米国政府関係者はさらに積極的に発言するようになった。今年の 2 月上旬、キャンベル国務次官補はワシントン市内で記者会見を開き、「多くのアメリカ人家族が不法に子どもを奪われ、離れ離れになり子どもと親が会えない状況は深く憂慮すべきだ」と強い懸念を示した。さらに「米議会では懸念の声に加え怒りの声さえ上がっている」と問題の深刻さを強調した(14)。

同じく 2 月上旬に、国務省児童問題担当特別顧問であるスーザン・ジェイコブス大使が来日し、外務省・法務省の各担当者、国会議員、日本在住の LBP、マスコミ関係者や NGO のメンバーと会談した。ジェイコブス大使は、都内にある在日米国大使館において記者会見を開き、最近になって日本のマスコミや国民がこの問題に関心を示し出したことや、日本政府の取り組みを歓迎しつつ、検討ばかりしているのは「有用」でないと指摘し、早期加

盟を求めた(15)。

そして 3 月 1 日には、クリントン国務長官が米議会下院の外交委員会で「この問題はオバマ政権にとって最優先課題である」と強調し、日本を含む未批准の外国政府に対し早期加盟を「積極的に」求めている、と証言した。また、彼女は、日本の「カウンターパート」

である外務大臣が次から次へと代わっていることを指摘しつつ、「毎回(外相会談等で)この問題を取り上げている」とも話した(16)。

2) 他国での取り組み

子の奪取問題をめぐっては、近年、米国政府の動きが注目されているが、実はカナダは、2006 年 6 月に日・カナダ首脳会談の頃からこの問題を取り上げている。その年の 2 月に就任したスティーブン・ハーパー首相は、自由民主党の小泉純一郎首相(当時)とカナダで会談

し、この問題がカナダ国内で重視されていることを説明したうえで、「二国間でいかに対処すべきか協議したい」と要求した。その後も首脳、外相レベルで話題になることもあり、最近では、2010 年 11 月にアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に出席するため来日

したハーパー首相が菅首相(当時)に条約締結を求めた(17)。

また、英国やフランスも、外相レベルでここ数年、この問題に言及するようになった。そして 2011 年 1 月、米国の後を継ぎ、フランスの上院でも、日本に対し子の奪取条約の批准を求める決議が、与野党の賛成多数で可決された。1 月 27 日付の『朝日新聞』によると、この決議では日本の早期加盟を求めるとともに、日本の民法で離婚後の親子の面会に関する規定を明記するよう促した。

このようにして欧米諸国は日本へのプレッシャーを強めた。前述のトーランド司令官は「結局日本を動かすには外圧しかなかったのだと思う」と語る。

4   日本国政府の対応

 日本国内では、世論の関心が低かった自民党政権下の頃、日本政府の対応には特に進展 があったようには見受けられない。

2006 年の日・カナダ首脳会談で、この問題について当時の小泉首相は「話し合い、協力 できることがあれば協力したい」と述べ、2008 年の同国との首脳会談の際、福田康夫首相

(当時)は、子の奪取条約は子の権利を確保するための「有力なツール」であると認識を示 し、「わが国としても同条約締結の可能性やいろいろな論点につきしっかりと議論していく」 という趣旨を発言した(18)。しかし、事態はそれ以上特に前進しなかった。

1)「子の親権問題担当室」等設置

一方で、民主党政権になった直後に例の福岡での事件が起こり、日米双方の国民やマスコミの関心が高まるとともに、国際的にも条約批准の要求が強まり、次第に状況は変化しつつあった。特に岡田外務大臣(当時)の在任時、目に見える形で日本がこの問題に対処しようとしている姿勢が示された。

外務省によると、最近までは各国在日大使館が外務省内の担当課、つまり米国なら北米課、フランスや英国などは西欧課を窓口として、連れ去られた子どもの件などについて問い合わせをしていた。例えば、アメリカ人と日本人との間に生まれた子どもであり米国籍を取得していれば、「在留アメリカ人の保護」という観点から在日米国大使館が動くことになり、子どもとの領事面会や行方を捜してほしい等、外務省に支援要請をすることがあるそうだ。しかし、相談されても、外務省としては基本的に対応できないのだ。「アドバイスはできるが、それ以上は(法的)根拠もなく、何もできない。子の奪取条約に入っていれば捜すことなどはできる」と外務省関係者は説明する。

しかし、岡田外務大臣の下、米国とフランスとは、それぞれこの問題を直接協議する場を設置することになった。2009 年 12 月には第 1 回日仏連絡協議会、2010 年 1 月には第 1 回日

米協議が開催され、子どもの親権問題について、関係国と個別の事案が話し合われた。こ

の 2 ヵ国は、政府だけではなく政治レベルでも動いていることから、このような場を設けら

れたのではないかと推察する。さらに、2009 年 12 月には、外務省総合政策局内に新たに

「子の親権問題担当室」を設置し、条約に加盟する場合の課題などを検討し、問題への取り

組みを強化した。

また、2010 年 2 月には、子の奪取条約と子の親権問題に関し外務省で在京大使館を対象に説明会を開催し、加盟への検討状況と予防策などについて説明した。しかしその 3 ヵ月後には、米議会下院に前述の決議が提出されてしまった。5 月の記者会見で、当時の岡田外務大臣は、政府が「問題解決に向けて努力」をしていると説明し、条約についても「私としては、早くハーグ条約の締結に向けて検討を急ぐべきだと考えております」と述べた(19)。

2) 子の奪取条約に関する副大臣会議を新設

そして、2011 年 1 月に、菅政権は関係省庁による「ハーグ条約に係る副大臣会議」を設置し、福山哲郎官房副長官を座長として検討をさらに進めた。会議には、法務省、外務省、厚生労働省の副大臣および政務官が参加し、子の奪取条約の手続きの流れから返還拒否事由や国内担保法など幅広く議論され、4 月まで 7 回開催された。その間、子の奪取条約加盟に反対する立場と賛成する側の当事者数名ずつとのヒアリングも行なわれた。

反対する立場の女性たちは、いずれも元夫の DV などが原因で、現地米国の裁判所に訴えても主張を認めてもらえず帰国せざるをえなかった、と説明した。一方で、賛成派の当事者は、いずれも子どもを海外に連れ去られてしまった経験をもち、日本政府からは「民事不介入」と突き放され、外国の裁判所では日本が子の奪取条約に加盟していないことで不利な扱いなどを受けた、と証言した(20)。

3G8 サミットに持参した「お土産」

フランスのドービルで開かれる主要国首脳会議(G8 サミット)を 1 週間後に控えた 5 月 20日、世界中が注目するなか、菅政権は子の奪取条約への加盟の準備を開始する決定を下した。方針を発表した枝野幸男官房長官(当時)は、同条約を国際基準と位置づけ、「国際社会との交流が深まっているなかにおいて、こうした基準についてはできるだけ整合性をとることが望ましいと思う」と述べた(21)。

当時、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた福島第 1 原子力発電所から大量の高濃度放射性物質が漏出し、その対応に対し国際社会から菅政権が厳しく批判されていたなか、菅首相は、何とか子の奪取条約という「お土産」をもって G8 サミットに参加することができた。

現地で行なわれた日米、日英、日・カナダなどの首脳会談で、菅首相は、日本の子の奪取条約締結に向けて準備することを決定した、と報告した。外務省は、英国のデビッド・キャメロン首相からは「検討の進捗を評価する」という趣旨の発言があり、カナダのハーパー首相からは「カナダとしても経験を共有していきたい」との発言があったと発表したが、バラック・オバマ米大統領からの発言はなかったのか、特に公表されなかった。

おわりに

 

以上述べたように、子の奪取の問題がここまで外交問題化した背景には、日本と国際社 会との間に存在するこの問題に対する根本的な認識の違いがあると思う。

日本では、DV など個々の家庭の事情によって母親が日本に子どもを連れて帰って来たと いう事例はよく報道等でも見受けられ、こうした場合、日本政府も「子の福祉」の観点を 重視する姿勢を常に前面に出している。しかし、これが人権問題であるという見方はほと んど聞いたことがなく、離婚というプライベートな事案である、と捉えられがちである。 さらに、日本では公権力による民事不介入が原則であることから、今まで政府として積極 的に動けなかったという面もある。

一方で、トーランド司令官などの LBP の強い訴えは、米国やフランスの議会を通じて各 国政府による「外圧」を高めた。上記で述べたように、LBP や米議会は子の奪取を「重大な 犯罪」と捉え、「人権侵害」だと主張し、日本を批判している。家庭内の個別の事案ではな く、アメリカ合衆国憲法で保障されている基本的人権の侵害であると位置づけ、議会、政 府、そして当事者がしっかりと連携し情報共有しながら日本への圧力を強めている。

だからこそ、何年もかかり、やっと子の奪取条約加盟の「準備」を開始するところまで きた日本に対する海外の評価は「一歩前進」にすぎなかった(22)。むしろ、日本の対応が遅 いとの不満もすでに出ている。G8 で子の奪取条約を批准していなかったのは日本とロシア だけであったが、そのロシアも 7 月末には正式に加盟し、10 月には条約が発効した。まだ準 備中である日本は、対応の遅れが際立つ格好となった。そして、米国の圧力は弱まるどこ ろか強まる一方である。

菅政権が方針を発表したにもかかわらず、直後の 5 月 23 日に、前述のスミス議員は下院 議会に子の奪取条約の「遵守を担保」し、迅速な返還手続きを進められるよう HR1940(「国 際的な子の奪取の防止と返還に関する 2011 法」)という法案を提出した。この法案は、「非協力」 な国に対し、米大統領が、公式な抗議から経済制裁などを含め幅広く対応することを認め るなど、かなり踏み込んだ内容であり、前述の当事者であるトーランド司令官も強い期待 を抱いている。

また、法案が提出された翌日に開かれた米下院外交小委員会では、子どもを日本に連れ 去られた父親たちが公聴会で証言をし、日本に対する不信感や不満を吐露した。スミス議 員は、子の奪取問題について「国際的人権侵害」であると強調し、「すべての子どもを帰す まで、この議会において、日本は児童拉致の聖域と呼び続けられる」と発言し、条約締結 だけでは米国は満足しないと証言した。

さらに、7 月には、同じく米下院外交小委員会において、キャンベル国務次官補は、日本の対応が「きわめて遅い」と批判し、「犯人引き渡しも含めたあらゆる手段を検討している」と、強硬手段に出る可能性も示唆した。また、9 月の時事通信との単独会見で、同氏は、この問題が今後日米関係の悪化につながる恐れがあると警告した(23)。

このように、子の奪取条約と子どもの奪取の問題に関しては、各国政府のプレッシャー

もしばらく止みそうにない。2006 年以降 7 人目の総理大臣として任命された野田佳彦首相にとって、あまり目立っていないかもしれないが、ここにもひとつ重要な課題が積み残されている。遡及効果のない同条約を批准したとしても、前述のカナダ人ウッド氏やトーランド司令官の問題はまったく解決しない。その切実な思いを米国政府や議会は受け止め、日本が彼らに対しても何らかの対策をとるまでは力を緩めることはないだろう。

「米議会は、既存の事案についても解決されるまで活動を止めない。われわれの子どもたちを忘れることは決してない」とスミス議員は言う。

( 1 )『朝日新聞』2011 年 5 月 21 日、『読売新聞』2011 年 5 月 20 日夕刊、『毎日新聞』2011 年 5 月 21 日。

( 2 ) 筆者によるウッド氏へのインタビュー(2005 年 12 月、以降 2011 年 9 月まで聞きとりを継続)。

( 3 ) 在日米国大使館ホームページhttp://japanese.japan.usembassy.gov/)。

( 4 ) セミナーが行なわれた 3 日には、子の奪取問題について『Daily  Yomiuri』が記事(Julian

Satterthwaite, “When parents turn kidnappers”)を出している。

( 5 )『朝日新聞』2009 年 10 月 2 日、『毎日新聞』2009 年 10 月 13 日夕刊、『東京新聞』2009 年 10 月 15 日。

( 6 ) 米国務省ホームページhttp://www.state.gov/)。

( 7 ) 筆者によるトーランド司令官インタビュー(2011 年 9 月 1 日)。

( 8 ) トーランド氏によると、米国では離婚手続きが終了する前に妻が亡くなったため、本文では「元

妻」という表記は避けた。しかし本人も未確認だが、その女性により日本では離婚手続きが完了

し、離婚が成立していると聞いたそうだ。

( 9 ) トーランド司令官インタビューより。

(10) トーランド司令官インタビューより。

(11) Bring Sean Home Foundation ホームページhttp://bringseanhome.org/)。

(12) Shaun Tandon, “US raises pressure on Japan child abductions,” AFP, Sept. 29, 2010.

(13) 筆者によるスミス議員インタビュー(2011 年 9 月 20 日)。

(14) 米国務省ホームページ。

(15) ジェイコブス大使会見(2011 年 2 月 8 日)。

(16) 米下院外交委員会ホームページhttp://foreignaffairs.house.gov/index.asp)。

(17) 外務省ホームページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html)。

(18) 外務省ホームページ。

(19) 岡田外務大臣会見(2010 年 5 月 7 日)。

(20)『ジャパンタイムズ』2011 年 3 月 10 日、11 内閣官房ホームページhttp://www.cas.go.jp/)。

(21) 枝野官房長官会見(2011 年 5 月 20 日)。

(22) トム・バーン英国大使館広報部長(2011 年 5 月 24 日)、英外務省ホームページhttp://www.fco.gov.

uk/en/)。

(23) 時事通信、2011 年 9 月 4 日。

子の奪取条約と各国の外交政策

参考資料(注に挙げたものを除く)

[インタビュー、記者会見等]

キャンベル国務次官補会見、2011 年 2 月 2 日(米国務省ホームページより)。

[本、新聞記事等]

コリン・ P ・ A ・ジョーンズ『子どもの連れ去り問題―日本の司法が親子を引き裂く』、平凡社新

書、2011 年。

参議院調査室『立法と調査』307 号(平成 22 年 8 月 1 日)。

伊藤聖美『ジャパンタイムズ』2005 年 12 月 31 日(“Japan remains safe haven for parental abductions”)、

2010 年 3 月 18 日(“DPJ rule raises Hague treaty-signing hope”)、同 3 月 19 日(“Ambassadors urge action

on child abductions”)、2011 年 2 月 10 日(“Ambassadors push Japan to join Hague treaty on child abduction”)、

同 5 月 21 日(“Process for signing Hague treaty begins”)、同 6 月 7 日(“Hague treaty seeks to balance rights

of kids, parents”)ほか。

「国際結婚破綻トラブル 日本も対応条約批准を 仏上院」『朝日新聞』2011 年 1 月 27 日。

Norimitsu Onishi, “Japan Closer to Giving Rights to Foreign Parents,” New York Times, May 20, 2011. Yoree Koh, “Japan Moves to Join Child-Custody Accord,” Wall Street Journal, May 20, 2011.

“Japan signs up to global child custody pact,” BBC, May 20, 2011.

[ホームページ]

在日カナダ大使館 http://www.canadainternational.gc.ca/japanjapon/index.aspx?lang=jpn&view=d

在日フランス大使館 http://www.ambafrancejp.org/spip.php?rubrique7

駐日欧州連合代表部 http://www.deljpn.ec.europa.eu/

オーストラリア外務省 http://www.foreignminister.gov.au/

BAC Home    http://www.bachome.org/

いとう・まさみ 『ジャパンタイムズ』記者

masami.ito@japantimes.co.jp

国際問題 No. 607(2011 年 12 月)● 39

12年前