13年

 長い間投稿できなかった。
 実は3月8日、岐阜家裁で子どもに会うことができた。調査官調査の一環ということだった。実に13年ぶりだった。当時4歳だった子どもは18歳の青年になっていた。
 もうすでに知らない若者だった。
 でも面影が残っていて最初はうれしいばかりでにやけてしまった。
 泣くに泣けない、うぷぷぷってな感じでまあ泣き笑いをしていたのだ。
 子どものほうは冷静に「お金は持ってきましたか?」なんて言ってる。
 一息ついてからは質疑応答が始まった。仕方がない、感動の再会なんて最初の言葉でぶっ飛んでしまっている。
 「どうしてお金が必要なの?」答えについてまた質問を繰り返した。
 おぼろげに子どもの輪郭が見えるくらいだったけれど、きちんとこちらの質問には答えてくれた。
 最後のほうで「連れ去りはいかんよ」と言われたときに、「えっ?覚えてないの?あのとき私はあなたに聞いたのよ。あなたが一緒に行きたいと言ったから二人で家を出たのよ。行きたくないと言ったら、行かなかったよ。」と言ったときの驚いた顔。
 覚えていないよなあ。長い時間をかけて彼の中で母親の思い出はきっと違うものになっているだろうし、まわりからはあまりいい話は聞かないだろうし、あのころの私の精神状態も最悪だったしな。
 で 少し経って子どもが「今までのことは水に流してやる。」
 時間は30分といわれていたのだけれど、調査官のかたが15分延ばしてくれたので、来る途中で用意したプレゼントを渡すこともできた。連絡先も渡せた。もし何か困ったことがあったら連絡して、私はいつでもあなたを助ける。そんな風なことを言った気がする。ごめんね貧乏だからお金の助けはできないけど、というのも。

 ひとりになってゆっくり泣いた。
 泣いていると隣の部屋が騒がしい。耳をすますと聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえた。そのうち、どたんっ ばたんっ がたっ と暴れるような音も聞こえる。家裁の内線の受話器を持つがどこにかけていいかわからない。身体の震えが止まらない。
 しばらくすると「帰るぞ」と言う声とともに静かになった。
 
 私の知らない13年の間にどんな生活があったのかわからない。父親とばあちゃんと三人の暮らし。きっとその生活の中で母親の存在は忌み嫌われてきたのだろう。
 「母親のいい思い出はひとつもない」と断言されたし。
 それでも今回少しでも何か残っているといいのだが。
 
 その感動の3日後に地震。原発事故。
 私の中で確実に世界が変わってしまった。4ヶ月とちょっと過ぎてしまっても。
 ただ、希望だけはなくさないで生きて行こうと思っている。
 

13年前