裁判所宛の意見書で
タイトルの仮説について以下のような反論をしてみた
ほかでもどんどん使っていって
日本の面会交流を近代化しましょう。
特に法曹関係者の間では、面会交流については、最低限の協力関係がその前提との仮説があります。しかし多くのケースを見た上で、このような仮説は、現実の面会交流に即したものではありません。
第一に、特段別居親の側が協力の意図を示していたとしても、それが同居親の側の感情に沿わない内容であれば、協力関係を築くことはできず、結局は同居親の側の意向で面会交流が途絶えてしまうということを容認してしまう結果になります。そのことを「子どもの福祉」と呼ぶことには無理があります。
第二に、関係の難しい第三者どうしの共同作業においては、詳細な契約が通常必要であることは法律家であるなら誰もが知っていることであって、離婚後の養育負担のシェアにおいてだけそのことが当てはまらない理由はありません。協力関係を前提にした面会交流の実施という前提に立った曖昧な合意書の内容で、面会交流がうまくいかなくなるのは、必然的な帰結です。もちろん、詳細な面会交流の取り決めをしたからといって、その通りにならない場合もあるし、柔軟な面会交流に移行していく場合もあるでしょう。しかしトラブルが起こりやすいからこそ、基準としての詳細な取り決めが必要であり、協力関係が取り決めの前提になるというのは、会えなくなってもしかたがないという前提の暴論です。
第三に、協力関係が面会交流の前提であるという仮説のイメージする面会交流は、子育ての詳細において両者が話し合える関係を想定していますが、話し合いのつかないケースが家裁に持ち込まれるのである以上、家裁でこのような仮説を云々することは家裁の役割放棄でもあります。特に、共同養育の先進国であるアメリカにおいても、実際に育児の詳細においてまで共同決定し協力できるパートナーは多数派ではなく、多くの親が、自分が養育を受け持つ時間だけ、その責任を負う平行養育をしているのが現状です。詳細な契約と十分な養育時間が双方の親に配分されれば、これは日本でも可能であって、むしろ限定的な面会交流の取り決めで双方の養育環境を劣化されることには慎重であるべきです。