やりとりをする。
日弁連の意見書に、水を漏らさぬ論理で反論した方がいて、
その方と連絡をとって意見交換したりした。
最近は横のつながりをいろいろととって運動を再構築する
ときかなあと思う。
いろんな人が当事者として登場してくる。
長く続けるのが運動では味噌だとは思うけれど、
自分の言葉でしゃべられる人がたくさん出てくることが重要だと思う。
中立性
ハーグ条約について賛成、反対、いろいろ議論がある。
反対する側の議論を行政の側が行うことについて、
どうなんだという意見があった。
行政は中立だから、それはおかしいという。
一方で、ぼく自身は、行政というのは意見の多様性を確保するのが
仕事なのだから、賛成にしろ、反対にしろ、行政が議論のアリーナを
提供すること自体は重要なことだと思う。
文句があるなら、きちんと出席して議論すればいいだけの話だ。
もしくは、自分たちも行政の後援をとって、賛成の議論をする。
国立市でも、2年ほど前に国立市主催の後援を
国立のグループでもちかけてやったことがあった。
そのときは、市報で通知されたこともあって
同居親も別居親もたくさんの人が来て、
いろんな意見が出た。
ちなみに、その年の国立市のもう一つの市民共同事業は
シングルマザーのグループが主催したものだった。
最近は、東京の別居親の運動はまったくこういうのやらなくなった。
日本の行政は、どちらかというと
声の大きいほうに従うという傾向が強いので、
人権問題やらがいつまでたっても手が打たれないということになる。
そうではなくて、いろんな意見の多様性を確保して、
お互いの理解が進むようにしていくのが行政の役目だとするならば、
中立性は、どっちにもつかなくて、どっちの後援もしないということではなくて
どっちの後援もして、矛盾があったら議論のテーブルを提供するということになる。
この間、新聞読んでたら、
日本の原発教育は、地震前は、安全ですって言っていたのが、
地震後に大幅に書き換えられるということになったという記事があった。
対比でドイツの原発教育が紹介されていた。
ドイツでは、賛成、反対に生徒を分けて討論させて
数の少ない方に、先生がついて議論を進めるという。
なるほどねって。
DV利権とか、ビジテーション利権とかいうのも
似たような議論だ。
自分たちが気に入らない人たちが、予算を確保することがいやならば
自分たちがそれだけの実績をつくって予算を確保すればいいことだ。
そもそも、それを利権と呼ぶか、雇用先が増えてよかったねと思うかは、
人によって違うわけで、行政なんか事業体でもあるわけだから、
きちんと、行政に自分たちの考える仕組みを組み込んでいくことが
できなければ、運動なんて絵に描いた餅なわけだ。