後藤富士子弁護士:単独親権制と共同監護―民法の趣旨

単独親権制と共同監護―民法の趣旨

2011年5月10日          弁護士 後 藤  富 士 子

1 手続法と実体法の倒錯

「親権者を父母から父へ変更する」旨の審判国賠訴訟の第1審判決は、「親権者の指定又は変更の審判(家事審判法9条1項乙類7号)は、本来的に民事行政の性質を有する非訟手続においてされるものではあるが、対立する当事者間の紛争性が高く、家事審判官のした事実認定、法令の解釈適用及び具体的事案に対する判断について、不服申立制度を設けて当該手続において是正されることを予定していることなど争訟的な性質を有している。」と判示している。
しかしながら、家事審判法は手続法であり、実体法である民法よりも優位にあるはずはなく、親権者の指定又は変更の審判も、結局は民法の単独親権制の解釈問題に帰する。換言すると、単独親権制の解釈として、親権・監護権が親の固有の法的権利であることを否定する必然性があるのか、である。
また、婚姻中の共同親権を離婚に伴い単独親権にするのは「親権者指定」であって、「親権者変更」ではない。すなわち、「親権者変更」審判は、子が単独親権に服している場合に限って許されるのであり(新版注釈民法25巻親族(5)改訂版47頁)、共同親権を単独親権に「親権者変更」することなどできない。
のみならず、「親権者指定」と「親権者変更」は、司法介入の性質において明確な差がある。すなわち、離婚の際の「単独親権者指定」は、一義的には父母の協議に委ねられているし、協議が調わない場合、審判にしろ、離婚判決にしろ、「協議に代わる」ものとしてされるのである(民法819条1項、5項)。これに対し、「親権者変更」は、父母間の協議・調停・審判・判決によって父母の一方が親権者と定められた後に、「子の利益のため必要がある」と認めるとき、家庭裁判所の審判(または調停)により、親権者を他の一方に変更するものであり、そもそも当事者間の協議だけによることはできず、「協議に代わる」ものとしてされるわけではないうえ、申立権者は「子の親族」に拡張されている(民法819条6項)。
そうすると、単独親権制が専ら親の親権を剥奪するだけのものとして運用されるなら、それが非訟手続によることは許されないことになるから、ここでも手続法と実体法の倒錯が問われるべきであろう。

2 「親権」の法的権利性

「親権」の効力について、民法は、①監護教育の権利義務、②居所指定権、③懲戒権、④職業許可権、⑤財産管理権と代理権を定めている(820~824条)。
本件で現実に問題となるのは、①と②だけである。そして、①については、婚姻中であっても父母の意見・見解が一致せずに共同行使ができないことがある一方、離婚・別居したからといって共同行使が不可能になるわけではない。現に、欧米では離婚後も共同親権・共同監護とする法制度に改正されており、共同監護について父母の合意があれば、原則として裁判所は介入しない。裁判所が介入するのは、単独親権・監護の主張がある場合や、合意が履行されない場合である(甲28参照)。また、②についても、父母が離婚して別居すると子どもの居所は父母のどちらかになるのが自然であるが、どちらと同居するかについて父母が合意することは十分可能である。現に9割を占める協議離婚で、その合意をしている。
そうすると、離婚後の単独親権制の趣旨は、片親を「子育て」から排除することにあるのではなく、子の地位の安定など専ら「子の利益のため」であることが明らかである。
そこで、離婚後の単独親権制がどのように運用されてきたかについて、アメリカ(カリフォルニア)とドイツを概観する。
まず、カリフォルニアで離婚後も共同養育とされたのは、1980年のことである。しかし、単独親権制の下でも100年に亘り、別居親には隔週末の面会交流権が法律で保護され、強制力をもつ権利として保障されていた(甲26)。
一方、ドイツでは、1979年に親権法の全面改正がされ、「親権」という用語は「親の配慮」という用語に変更されるなどしたが、離婚により共同配慮は現実的ではなくなり、子に明確な生活関係を確保すべきだとする見解に基づき、単独配慮制が維持された。そして、単独配慮制の下で、どちらを単独配慮親にするかという基準として、「主たる養育者の重視」理論が席巻した。これは、ゴールドシュタインらの『子の福祉を超えて―精神分析と良識による監護紛争の解決』で唱導された見解で、子にとっての特定の関係人との絆=心理的親子関係が重視され、面接交渉でさえ子の忠誠葛藤を引き起こすとされている。しかし、重要なことは、基本法第6条2項で「子の養育および教育は、両親の自然の権利であり、かつ、何よりもまず両親に課せられている義務である。その実行に対しては、国家共同社会がこれを監視する。」とされていることである。この条項に基づき、1982年11月3日、婚姻外の親の単独配慮規定について無効とする違憲判決が出されている(甲28/143~144頁)。
このように、離婚後の単独親権制は、その前提として「親の固有の法的権利」を論理必然的に否定するものではないのであり、日本の民法だけが「親の固有の法的権利」を否定していると解釈すべき根拠は皆無である。むしろ、国民主権の下で、国家が親をさしおいて子の養育監護権をもつはずがない。また、「子の福祉」のためというパターナリズムによって「家族の自治」を否定して国家の管理下に家族を置くことは、全体主義に通じる危険なものがある。
結局、現行民法における親権・監護権につき、「親の固有の法的権利」であること否定する解釈は、法文上に根拠がなく、許されないというほかない。むしろ、単独親権制によって「親の固有の法的権利」であることを否定するのでは、本末転倒ではないか。

3 現行民法の体系的・合理的解釈

前記したように、「親権」が親の固有の法的権利であることに鑑みると、単独親権制の運用が非訟手続でいいはずはなかろう。
そもそも、民法上、子どもの「親権者」は、父と母だけである。養子であっても、「親権者」は、養父と養母だけである。すなわち、片親の死亡により単独親権になったのならともかく、離婚後の単独親権者指定や単独親権者変更は、「親権者でない親」が実在する。そして、離婚後単独親権制についていえば、「単独親権者指定」によって「親権者でなくなった親」は、親権喪失事由がないのにもかかわらず、「民法がそうなっている」というだけで親権を剥奪されるのである。しかも、その立法趣旨は、「父母が婚姻関係にないときには、親権の共同行使は不可能ないしは困難である」というにすぎない(新版注釈民法25巻親族(5)改訂版36頁)。
確かに、民法第819条が定める単独親権制は、離婚に際し母も親権者となりうる途を拓き、また、認知にかかわらず一応依然として母を親権者としている点で、旧法に比べれば、より進歩的であることは否めない。しかし、それが「子の福祉」の立場からみて妥当かは、頗る疑問である。離婚により夫婦の絆は断たれても、親子の監護の絆は断たれてはならない。同様に、父母の未婚(非婚)も親子の監護の絆を断つ理由とはならない。子は、いかなる場合にも、父母に対し、監護を求めることができるとしなければならない。近時、非親権者の法的地位が論ぜられ、また立法論として婚姻中でない父母の共同親権・共同監護が主張されているのも、現行単独親権制の「all or nothing」という硬直性への反省である(新版注釈民法25巻親族(5)改訂版19頁)。
ところで、現行法でも、民法第819条の硬直さを緩和するものとして、離婚父母の「共同監護」を可能とする規定がある。民法第766条(同788条で認知に準用)がそれである。これによれば、親権と監護権を父母に分属させることもできる。とはいえ、「監護権」は「親権」に包摂されるものであるから、理論的には「監護権のない親権」というのも観念できようが、現実には「共同監護」にならざるを得ない。このことは、婚姻中でも片親が単身赴任や長時間労働のために「片親家庭」というべき実態でも「共同親権」であることと比較しても納得できる。
かように、民法第766条の存在は、親の固有の権利である「親権」を全面的に剥奪することを想定していないことを理解させる。すなわち、父母の協議が調わない場合でも、「単独親権者指定」と「監護に関する処分」をセットで行うことによって父母の「共同監護」を導くことは、現行民法上可能である。そして、その場合こそ、非訟手続が妥当するというのが、民法の趣旨であろう。

(以 上)

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