「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」( ハーグ条約) の締結に際し, とるべき措置に関する意見書
2 0 1 1 年( 平成2 3 年) 2 月1 8 日
日本弁護士連合会
第1 意見の趣旨
現在,政府において検討が進められている国際的な子の奪取の民事面に関する条約( 以下「ハーグ条約」という。) については, 多様な議論があるが,日本が同条約を締結する場合には,次の措置が十分に講じられるべきである。
1 ハーグ条約が子どもの権利条約に定める「子どもの最善の利益」にかなうよう適切に実施・運用されることを確保するために必要な事項を定めた国内担保法( 以下「担保法」という。) を制定すること。その際, 担保法において,
(1) 児童虐待やドメスティック・バイオレンスが認められる事案や,返還を命じた場合に子とともに常居所地国に帰った親が同国において
刑事訴追を受けることとなるような事案等については,返還を命じない, あるいは執行しないことができるような法制度とすること,
(2) 返還の審理に際して子の意見が適切に聴取されかつ尊重されるような法制度とすること,
(3) その他同条約上の中央当局及び返還についての司法機関による審理及び審理手続・証拠方法に関する規定,返還命令の執行に関する規定, 上訴に関する規定等を整備すること,
(4) ハーグ条約に遡及的適用がない旨の確認規定を担保法上定めることや,国内における子の連れ去り等や面会交流事件には適用されないことを担保法上明確化し, かつ周知すること,
(5) 条約実施の準備及び国民への周知のために,条約実施・担保法施行まで3 年間程度の周知・準備期間を置くこと。
2 ハーグ条約の締結と同時に,市民的及び政治的権利に関する国際規
約第一選択議定書及び女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関
する条約選択議定書を批准し,各条約の個人通報制度を受け入れるこ
と。
3 在外邦人,とりわけハーグ条約締約国に居住する日本人に対し,当
該国における親子関係法及び離婚関係法,子を連れ去った場合に犯罪
となるか否か,法律扶助制度,親子関係や離婚等に関して精通してい
る弁護士等に関する情報を提供すること,ハーグ条約発効後も引き続
き同様の情報提供をすることに加え,在外領事館において可能な支援
を行うことを検討すること。
4 ハーグ条約の実施に関わるすべての関係者,すなわち中央当局職員,
裁判官,弁護士等に対し,子どもの権利条約を含む国際人権法に関す
る研修を行うことを検討すること。
5 他方の親の同意又は裁判所の許可を得ずに親が子を連れて国外に
出た場合,その親を刑事処罰する法制度を有するハーグ条約締約国に
対し, 親が任意に子を返還し子と共に常居所地国に戻った場合には,
親の刑事訴追を行わない扱いをするよう,要請や対話・交渉を行うこ
と。
第2 意見の理由
1 はじめに
現在,政府において,ハーグ条約の締結に関する検討が進められ
ていることが報じられている。当連合会は,かつて子の権利保護を
国際的にも確保する見地から,同条約の締結を求める意見を述べた
ことがある1が,今般,同条約の締結が日本にとって現実的な課題と
なるに及んで,さらに同条約に関する情報を収集して研究を進めた。
ハーグ条約は,国境を越えた不法な子の連れ去り・留置が起こっ
た場合に,子がそれまで生活してきた常居所地国に子をいったん迅
速に返還させること及びそのための手続を定めたものであり,国境
を 越 え た 不 法 な 子 の 連 れ 去 り・留置による子に対する有害な効果か
ら子を保護し,子の監護権の問題については,常居所地国の司法機
関等において適切に判断が行われることを確保しようとする仕組
みである。これによって,子の監護や常居所をめぐる自力救済的な
連れ去り・連れ戻しの連鎖を防止することも同条約は期待している
ものであり, 国際ルールとして一定の合理性を有するものである。
また,日本からハーグ条約締約国に子が不法に連れ去られる場合の
迅速な返還を実現できる点,及び現在日本がハーグ条約を締結して
いないためにハーグ条約締約国から日本への子の一時帰国が困難
となったり,ハーグ条約締約国での監護権の裁判等において日本国
民が不利に扱われるという事態が幾分かでも改善することが期待
できる。同条約は,既に多くの欧米先進国をはじめ, 世界8 4 カ国
が締結しており,日本も諸外国から締結を迫られている状況にある。
他方で, ハーグ条約については, 2 (1)で述べるような問題点,
懸念も指摘されているところである。当連合会としては,同条約の
締結について指摘される問題点や懸念も踏まえ,日本が同条約を締
結する場合に,同条約が「子どもの最善の利益」にかなうよう適切
に実施・運用されることを確保するために講ずるべきいくつかの措
置についての意見を述べ,これから行なわれる同条約締結の是非を
めぐる政府等における議論に反映させることが適切であると考え,
本意見書を採択し, 公表することとした。
なお,ハーグ条約締結の是非の検討及び締結する場合の国内担保
法制定等の措置の検討にあたっては, 国境を越えた子の連れ去り・
留置をめぐる諸事情及び同条約締約国における同条約施行の状況
等を調査され,また実務法曹を含む関係各方面の意見を聴いて,慎
重に検討されるよう要望する。
2 ハーグ条約を適切に実施・運用するための担保法の制定
(1) ハーグ条約の問題点及び懸念
ハーグ条約の構造及び運用については,問題点も指摘されている。
同条約は,監護権を侵害する国境を越えた子の移動・留置を原則
すべて不法として,子の常居所地国への迅速な返還を義務付ける構
造となっており, その際連れ去り・留置に至った原因や,子の常居
所地国への返還が監護親や子に及ぼす影響を原則として問題とし
な い こ と と な っ て い る 。このような構造,及び子の監護権の問題に
ついては,原則として常居所地国の司法機関等の判断権を確保しよ
うとする考え方自体について,それが子の利益及び子とともに常居
所地国を離れた監護親の利益に反することとなる場合も相当ある
のではないかという点が指摘されている。同条約が規定する不法な
連れ去り・留置の範囲が相当広いため2,主たる監護親が他の親の同
意を得ずに常居所地国を離れて子とともに日本に帰ってきた場合
にも返還が命じられることが多い点も,同条約の構造上の問題とし
て指摘される。
また,同条約には,子の利益の観点から,返還義務の例外事由が
規定されているものの,これまでの各締約国による条約の実施状況
を見ると,子の常居所地国への迅速な返還を重視して例外事由を制
限的に解釈適用する結果,親がドメスティック・バイオレンスから
逃れて子を連れて自国に戻った場合や親が子と共に常居所地国に
戻れば子の連れ去りについて刑事訴追を受ける恐れがあるなどの
理由で,子と共に常居所地国に戻ることが合理的に期待できない場
合であっても子の返還を命じたり,子が常居所地国への返還に対し
異議を述べているにもかかわらず子の返還を命ずるなど,子の利益
の観点から問題のある運用が見受けられる。
これらの指摘のうち,ハーグ条約の構造にかかるものについては,
以下述べる担保法の制定等の措置で全ての懸念を払拭できるもの
ではないと考えられるが,このような指摘があることは,本意見で
述べる締結する場合の措置の検討に際して,考慮に入れられるべき
である。また,運用上の問題点,懸念に一定程度応える措置を検討
する必要がある。そして, そのような措置を,条約締結の是非の検
討の中で併せて検討しておくべきである。
(2) 「子どもの最善の利益」と調和する担保法の制定
ハーグ条約自体,その前文において「子の監護に関する事項にお
いては, 子の利益が至高の重要性を有する」と述べている。また,
日本を含む世界のほぼすべての国が締結している子どもの権利条
約における義務として,子に関するすべての措置を取るに際し,国
家が「子どもの最善の利益」を最優先で考慮しなければならないこ
2 ハーグ条約及び第3 条第1 項a )及び第5 条a)によれば,居所指定権の要素を含む
限り, 同条約上は監護権として保護されることとなる。
と が 規 定 さ れ ( 子 ど も の 権 利 条 約 第 3 条 ), これが国際社会におい
て広く受け入れられた人権規範となっている。したがって,ハーグ
条約に基づく子の返還の要否についても,「子どもの最善の利益」
の最優先の原則に適合した解釈及び運用が国際法上も求められる
こととなる3。
日本がハーグ条約を締結する場合には,同条約を実施するための
国内法たる担保法を制定して,同条約に基づく返還請求の審理手続,
返還義務に対する例外規定,返還命令の執行に関する規定を設ける
必要があるが,その中で子の最善の利益にかなう運用となるような
規定を設けることとすべきである。
例えば, 返還義務の例外を規定する本条約第1 3 条第1 項b)の
「子の返還が子を肉体的または精神的な危害にさらし,その他子を
耐え難い状況に置くこととなる重大な危険があること」に対応する
担保法の規定として,「子どもの最善の利益」確保の見地から「耐
え難い状況」を適切に解釈し明確化する条文を置くことにより4,子
と子を移動・留置した親が常居所地国に戻った場合に虐待やドメス
ティック・バイオレンスの被害にあうことが予想される場合や,常
居所地国で刑事訴追を受けることとなる場合などに,返還を命じな
いあるいは執行しないことができるような法制度とすべきである5。
同様に,子どもの権利条約が子の意見表明権の保障を規定してい
る こ と を 踏 ま え ,返還の審理に際して,家庭裁判所調査官を関与さ
せる等して,子の意見が適切に聴取されかつ尊重されるよう,子の
異議を返還義務の例外と規定する同条約第1 3 条第2 項に対応す
る担保法の規定を実効性あるものとすべきである。
これらはあくまでハーグ条約の解釈の範囲内で行なわれなけれ
ばならない国内法措置であるが,上記の通り,ハーグ条約も「子ど
もの最善の利益」の確保に適合するよう解釈されるべきであること
に留意すべきである6。
(3) その他の担保法の規定
ハーグ条約の担保法には,中央当局の指定,返還手続は司法機関
である裁判所が行うべきこと,返還手続を管轄する裁判所の指定に
関する規定,返還手続の審理に関する規定,決定に対する上訴権の
規定を置くべきである。
審理における証拠方法については,書証に限定されるものではな
く,同ハーグ条約が求める迅速な審理の要請を害しない限度で,必
要に応じて他の証拠方法も採用されるべきこと,また,返還義務の
例外事由の審理のために必要とされる場合には,審理方法及び期間
面でその適正な審理が確保されるような手続とすることを検討す
べきである。
このほか,子やドメスティック・バイオレンス被害親のプライバ
シー保護に配慮した子の所在発見のための手続,子の返還等に関す
る調停等,家庭裁判所の調査官や児童福祉司・児童心理司等子に関
する専門家の関与,弁護士選任及び法律扶助等手続の当事者に対す
る法律支援,国境を越えた子の連れ去り防止のための措置等に関す
る規定を置くことについても検討すべきである。
(4) ハーグ条約の適用範囲
ハーグ条約の適用対象は, 国境を越えた子の連れ去り・留置, 及
び,国境を越えた親子間の面会交流であり,国内における子の連れ
6 なお,「子どもの最善の利益」にかなう条約の解釈・運用をすべきであるからとい
っても, 子にとっていずれの親が監護権を持つべきか, あるいはいかなる国のいか
なる環境で生活することが子の利益に適うか, といった監護権の本案の判断に関わ
る審査をすべきであることを意味するものではない。本意見書は, これら監護権の
本案に関する決定を尊重し, ハーグ条約に基づく返還手続の審理においては, 監護
権の本案の審理に立ち入らないというのがハーグ条約の基本的枠組みであるという
理解を変更するものではない。
去 り ・ 留 置 や 面 会 交 流 に は 適 用 が な い 。また,ハーグ条約の適用対
象は,条約締結発効後の事案に限られ,発効前の国境を越えた子の
連れ去りの事案について遡及的に返還義務は生じない。
しかしながら,これらの点については,解釈・適用上の混乱を防
ぐため,上記適用範囲に関する担保法の規定を明確なものとすると
ともに,政府においては,誤解や懸念を解消するために正確な情報
を提供することと等の適切な措置を講ずるべきである。
(5) 必要な周知・準備期間及び検証
ハーグ条約について国民に適切な周知をはかり,また本条約及び
担保法の適確な運用がなされるよう十分な準備を行なうため,条約
締結のための国会承認及びハーグ条約担保法の成立後,担保法の施
行までには3 年間程度の期間を置き,条約の締結は担保法の施行時
に合わせるべきである。
なお,ハーグ条約を締結した場合,同条約及び担保法の施行状況
について適切な検証を行い7,担保法の見直しや締約国との協議に活
かしていくようにすべきである。
3 当連合会は,これまでも,政府に対し,市民的及び政治的権利に関
する国際規約及び女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する
条約の各選択議定書を含む個人通報制度を受け入れることを強く求
めてきた。
個人通報制度は,国際人権条約上の人権が侵害され,国内でも救済
されない場合に,被害者個人が人権条約委員会に通報し,その委員会
の見解を求めて救済を図ろうとする制度である。ハーグ条約の実施が
国際人権条約に適合的に行われるべきことを国際的に確保するため
の方策の一つとして,政府は,ハーグ条約の締結と同時に,同制度を
受け入れるべく, 前記各選択議定書を批准すべきである。
4 在外邦人に対する情報提供・支援体制の拡充
日本がハーグ条約を締結した場合, 同条約締約国に居住する日本人
が, 他方親の同意や裁判所の許可等, 当該国において必要とされる手
7 同条約に基づく返還がなされた後及び不返還の決定がなされた後の子の監護に関
する本案の裁判結果や子の監護の実態についても, 締約国の協力を得て, 可能な範
囲で調査することを検討すべきである。
続 を 取 ら ず に 子 を 連 れ て 日 本 に 帰 国 す る と , 監護権の侵害にあたると
して, 子を当該国( 常居所地国) に返還しなければならなくなる可能
性が生ずる。そのため, 在外邦人, 特にハーグ条約締約国に居住する
日本人が, 当該国において子の監護に関する紛争の当事者となった場
合に適切な対応ができるよう, 政府において, 特にハーグ条約締約国
の親権・監護権に関する法制度, 法律扶助制度, 弁護士情報等につい
て情報を収集し, ウエブサイト等において広く情報提供を行う等の措
置を講ずるべきである。
とりわけ, 在外邦人が, 外国において子に対する虐待やドメスティ
ック・バイオレンスの被害を受けた場合に, 当該国において適切な保
護が受けられるよう, 政府において, 子どもに対する虐待やドメステ
ィック・バイオレンスに関する各国の法制度, 保護手続, 保護機関,
民間支援団体等に関する情報を収集し, ウエブサイト等において広く
情報提供を行う等の措置を講ずるべきである。また, 在外領事館にお
いて, こうした在外邦人に対し提供しうる支援について検討すべきで
ある。
5 ハーグ条約の国際人権条約に適合的な実施の確保のための措置
国境を越えた子の連れ去り・留置の事案では,それらが子どもに対
する虐待やドメスティック・バイオレンス等の人権侵害が原因となっ
ている場合がある。
このような事案において,ハーグ条約の画一的・機械的な運用によ
り,子の常居所地国への返還が命じられると,子自身や,子の返還に
伴い事実上常居所地国に戻ることを選択せざるを得なくなる親の人
権を侵害することとなる恐れがある。かかる事態を防ぎ,ハーグ条約
の実施が日本が締約国である国際人権条約に適合するよう行われる
ことを確保するためには, 既に述べた,ハーグ条約の担保法中に「子
どもの最善の利益」の確保に資する規定等を置くことに加え,ハーグ
条約の実施に関わるすべての関係者・専門家( 中央当局職員,裁判官,
弁護士, 執行官, 児童相談所職員, 出入国管理局職員等) に対し, ハ
ーグ条約に関する研修の不可欠な要素として,子どもの権利条約を含
む国際人権法に関する研修を実施することを検討すべきである。
6 刑事訴追の懸念に関する情報収集と各締約国に対する要請
ハ ー グ 条 約 の 締 約 国 の 中 に は ,国内法において,他方の親の同意又
は裁判所の許可を得ずに国外に子を連れ出すことを犯罪としている
場合があることから, そのような国から日本に子を連れ帰った親が,
ハーグ条約の下で子と共に当該国に戻った場合に,当該国の国内法に
より刑事訴追・処罰される可能性が懸念される。
かかる当事者の懸念に対応するため,政府は,この点に関するハー
グ条約の締約国の法制・実務の運用について情報を収集し,ウエブサ
イト等で広く情報提供を行うと共に,親が任意に子を返還し子と共に
常居所地国に戻った場合には,親の刑事訴追を行わない扱いをするよ
う,ハーグ条約の各締約国に対し要請や対話・交渉を行うべきである。
7 今後の取組み
当連合会としては,今後も,国境を越えた子の連れ去り・留置の問
題に関し,当連合会会員の間における情報の普及,並びに,人権保障
の観点からの適切な対応のあり方についての検討及び意見の発信に
努める所存である。
以上