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9/23(月) 9:10配信
デイリー新潮
ロックバンド「The 虎舞竜」を率いる
220万枚を超えるメガヒット曲「ロード」で知られる高橋ジョージ(66)。彼は元妻・三船美佳(42)と離婚し、10年ほどはひとり娘と会うことがほとんど出来ない“疎外”状態にあったが、今年、父娘の関係に大きな変化があった。この春、20歳を前にした彼女本人から突然、連絡があり、2週間の間、同居することになったのだ。娘と再会を果たした高橋がその「親子」観を語る。
【西牟田靖/ノンフィクション作家】
【写真を見る】“24歳差”のカップル…元妻・三船美佳とは「パートナー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたこともあった
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10年後に届いたメール
8月に発売された「週刊文春」誌上で、高橋は娘と再会したことを明かし、ニュースになった。5年前、高橋に「家族と親権」がテーマのインタビューを行い、「週刊新潮」に寄稿した経験のある筆者は、再会を知り、改めてインタビューを申し込んだ。この5年間で、離婚後に子どもに会えなくなる親の存在がクローズアップされ、今年の5月には離婚後の「共同親権」導入を含む民法改正が行われた。高橋に自身の経験と思いを聞いてみることは、同じ境遇に苦しむ親にとって重要だと考えたからだ。高橋からも「ぜひ知ってほしい」との返事があり、インタビューは実現した。
「あれは3月23日の午後、仕事のメールチェックをしていたら、『お久しぶりです』って書かれたメールが届いたんですよ。差出人には娘の名が。ちょっと待って。これ誰かのいたずらだろうって思って見たら、すごく長くてね。なりすましじゃ知りえない内容だったの。もしかしてと思って私のプライベート・メールのアドレスを教えました。そうやってやり取りがはじまった」
そう高橋は振り返る。
高橋が、故・三船敏郎の娘である女優・三船美佳と結婚したのは1998年のこと。24歳差の夫婦は大きな話題となり、2004年には娘が誕生した。しかし、2013年の暮れ、三船が娘を連れて東京の自宅から大阪に移り、別居を開始。調停、裁判を経て2016年には離婚が成立した。
高橋が娘と2人で会ったのは、2014年3月23日が最後だった。この時は高橋の大阪でのライブ会場に娘が訪れ、夕食を共にし、宿泊先で一泊した。しかし、離婚成立後は半年に一度、2枚の写真が送られてくるだけのみで、次第にそれも途絶えた。2019年3月末、双方の弁護士同伴の元、大阪の喫茶店で2時間、顔をあわせたことがあったが、当時14歳、思春期真っ只中の娘に「あんた」と呼ばれるなど、決して打ち解けた雰囲気ではなかった。そして以後5年間、2人は一度も会うことは叶わなかった。ちなみに、その後、三船は再婚し、2020年には女児を生んでいる。
「その間は、懲役を食らったようなもんだ、って諦めてたんです。でも“子供以外には会えてるから、幸せな方なんじゃないかな”って無理に思うようにしていたわけですよ」
一切コミュニケーションがない状態で、彼は娘のことを思い続けてきた。
「最後に楽しく会えた3月23日だけはなぜか忘れられなくてね。毎年その日になると、今年はあれから〇年目だ、〇年目だと数え続けていました。そして毎年“今年も何もなかった”と。今年の3月23日はちょうど10年。その少し前に姉から“連絡来るような気がするから部屋片づけておきな”と言われたんですよ。そんなことあるかと思っていたら……」
突然、事務所宛てに冒頭のメールが届いた。
メールには、概ね、次のような内容が記されていたという。
「ご無沙汰しております。数年お会いできていませんが、いかがお過ごしでしょうか」
「3年前に生まれた妹はとてもかわいくて、今まで子どもに関心がなかったのに、初めて愛おしさを感じました」
「去年の11月に19歳になりました。今年はもう20歳になります。なんだか不思議と達成感があります。自分ももう成人である以上、親権に縛られずに話ができるのではないかと思い、ご連絡させていただきます。高橋さんがよろしければ」
“力を貸してください”
5年前のような言葉遣いではなく、きちんと敬語が遣われていた。
「後で聞いたら、娘は私の連絡先を知らなかったから、インスタから会社のメールアドレスを調べたらしい。高橋さんなんて固すぎる。私はジョージだから、YouTubeで『Gさん』と名乗っている。だから呼び方は『Gさん』でいいよ、と伝えました」
その後、やり取りされたメールには、19歳の娘の、さまざまな悩みが綴られていたという。
「将来のこと、家族のこと、友人関係のこと……。たくさんありました。溜まっていた思いがあったんだろうね。だからこそ、何かを変えようと思って連絡をしてきたのでしょう。とにかく会おうという話になりまして、4月に彼女が東京に来ることになったんです。しかし、それには条件を付けた。“来るんなら、ちゃんと(母親に)言ってきた方がいいよ”と。だって、黙って俺に会うことは娘の母親に対しての裏切りだからね。そこで娘は母親に手紙で自分の意思を伝えたようです。母親も“あなたの人生をこれからも応援しますよ”って賛成してくれたようです」
再会が決まった。
「新幹線代を振り込もうと口座を教えてもらったら、苗字が新しいお父さんのものになっていたけど、それは記号だからいいや、と思いましたよ。その日は駅に迎えに行って、焼肉ランチを食べて、うちに一泊泊まりました。顔かたちはもちろん幼い頃とは変わっていたけど、時折、昔の面影が残っているのを感じる瞬間がありましたね。娘は悩みや将来の不安をたくさん話し、“今まで自分は守られ過ぎてきた”“自立したい”“そのために力を貸してください”と言うんです。そして“将来の選択肢を広げたい”と。それで、“東京来る?”と提案したんです。娘も頷いて……」
こうして娘は上京することになった。後日、高橋の自宅には段ボール箱20箱が送られてきたという。
「娘は“6月9日に行きたい”って。“なんでその日?”って聞いたら“6月9日ってロックの日だよね。大切な記念日だよね”って」
父娘の生活が始まった。
父の日のメッセージ
「その日は品川駅まで迎えに行きました。娘が“荷物いっぱいあるから”って言うから、“いや俺の上京したときと一緒だわ”と。“俺は17だったけど”って盛り上がりましたよ。その後2週間、娘はうちにいました。毎日、私がご飯作って、スクーターの後ろに乗せて買い物に出かけたり」
10年ぶりの水入らずの時間だった。三船美佳がかつて出演したドラマのVTRも二人で見た。
「“君のお母さん、こんな素晴らしい芝居してたんだよ”って私、感動して泣きながら、娘に言いました。その姿を見て娘はショックを受けたみたい。私が母親のことを心から尊敬していて、全然憎しみをもっていなことがわかったんですよね。娘もこれまでバラエティでの姿は見たことがあったけど、母が芝居している姿はほとんど見たことがなかったようなんです。芝居を見て、母親のことも尊敬できたみたい」
親子にとって、いくつか節目となる日もあった。
「6月12日がうちの父親の命日なんですよ。父が亡くなったのは(別居中の)2015年だったので最期は娘と会えなかったんですよね。80になってからの孫なので、娘が生まれた時、親父は、“誕生日1週間目おめでとう。2週間目おめでとう”と毎週メッセージを送ってくるほど、バカかって思うぐらいのかわいがり方でした。そんな親父の命日の日に一緒に手を合わせられた。もう一つは16日に、父の日を祝ってくれたこと。娘からシェーバーをプレゼントされた。そこにはメッセージが添えられていて、“この空いた10年分の思い出も一緒に作っていこうね”と記されていた。これはもう、過去最高の父の日でしたね」
そうした生活を送る中、いつしか娘は高橋を「パパ」と呼ぶようになったという。5年前は「あんた」と呼ばれていたのが、「高橋さん」、続いて「Gさん」、そして幼かった日と同じように「パパ」と呼ばれるようになったのだ。高橋は心の中でガッツポーズをした。
その日の夜、高橋は、「山嵐のジレンマ」の話をしたという。それは「山嵐は近づき合いすぎると自らの持つトゲで相手を傷つけてしまい、離れすぎると凍えてしまう。そのうち丁度いい距離を見つける」というものであった。その話を彼が娘に聞かせたのは、これから一緒に思い出を作っていきたいと思いつつも、ひとりの大人として、干渉しすぎずに見守っていきたいという、親心の発露だったのだろう。
「“パパとお前も丁度いい距離が見つかるといいね”と話すと娘は笑顔で頷いていました」
2週間が過ぎた頃、彼女は家を巣立つように出ていった。
「地方で住み込みのバイトを見つけ、旅立った。いずれ留学にトライしたいとも言っていました。自立して一人での生活へ挑戦してみたいという思いと、いつでも帰れる『巣』があることを確信したからだと思います」
後編では、娘との再会を経て高橋が感じたこと、そしてその後の娘との関係について記す。
西牟田靖(にしむたやすし)
ノンフィクション作家。1970年大阪府生まれ。日本の国境、共同親権などのテーマを取材する。著書に『僕の見た「大日本帝国」』、『わが子に会えない』、『子どもを連れて、逃げました。』など。
デイリー新潮編集部
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