#共同親権 なぜ? 親の離婚後、母、妹と引き離され、一度も会えないまま大人になった──42歳男性のケース

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7/25(木) 7:05配信
現代ビジネス

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共同親権を導入することになった改正民法は2024年5月に可決、2026年に施行の見通しとなった。以後は父母の協議により共同親権か単独親権かを決定、合意できない場合は家庭裁判所に決定を委ねることになる。すでに離婚している人も適用対象だ。

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可決までに衆参を通して細かい議論が尽くされたとは言いがたく、この導入には弁護士をはじめ医療、教育、福祉関係者など専門家からもさまざまな疑問が呈されていて、今後の課題は多いとされる。

親権をめぐる案件で同じケースはひとつとしてないが、そもそも親の離婚後、従来の単独親権のもとにおかれた子たちは、どんな思いを抱えて大きくなったのだろうか。当事者から話を聞いた。親子の関係や距離感は人によって違うが、今後の共同親権導入について考えるヒントになるかもしれない。

ちなみに現状では離婚の際、親権は父母のどちらかが持つことになっているが、親権を持たず子どもと離れたときでも、子と面会交流する権利は存在する。
10歳のころに親が離婚。父親に引き取られた

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両親の離婚後、まったく母親に会えないまま大人になったショウタさん(42歳)。自身も二児の父になった今なお、実父の気持ちがわからず、ときどき苦しくなると話す。

「両親が離婚したのは僕が10歳ころでした。母は優しい人だった。ただ、地方の堅苦しい家で義両親と同居するのは大変だったと思います。よく祖母に何か言われては泣いていました。実母はもともと東京の人だったから、自由のない田舎暮らしはつらかったんじゃないでしょうか」

「おとうさんとおかあさんは離れて暮らすことなった」と、ある日、学校から帰ると突然、父に言われた。すでに母の姿はなく、5歳違いの妹も一緒に消えていた。

「おまえは長男なんだからこの家を守っていくんだと吹き込まれました。何がなんだかわからなかった。母代わりになった祖母は気分の浮き沈みの激しい人で、祖父はほとんどアルコール依存。朝から酒を飲んで暴れることもありました」

母に会いたいと、どうしても言えなかった

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兼業農家だったが祖父はほとんど仕事をしない。朝早く父が畑に出てから勤務先に行っていた。ショウタさんも早朝と週末は父の畑仕事を手伝った。母に会いたいという言葉が喉元まで出ているのに、どうしても言えなかった。

「母が僕に会いたいなら、どんな手段を使っても会おうとするはずだと信じていました。でもなしのつぶてだったし、祖母が『あの女は薄情だ』『おまえは母親の愛情とは縁がなかったね』というので、そういうものかとも思い始めました。

でもあるとき、母が夢に出てきたんです。母は薄情ではなかったと思い出しました。幼稚園に迎えに来てくれた母と一緒に手を繋いで帰るのが好きだった。母はときどき、途中にある駄菓子屋で何か買ってくれるんですが、いつも『おばあちゃんには内緒』と微笑んで……。

僕が5歳のころに妹が生まれたんです。かわいいなあと言ったら、『ショウタもかわいい。ふたりともおかあさんの宝物よ』って。そんな母が自ら僕を手放すわけがない。何か事情があったんだと子どもながらわかりました」

生まれが東京だから、きっと母は東京にいる。いつか上京して母に会うとショウタさんは決めていた。

ただ、母のいない生活は心細かった。祖父が酔って暴れると彼は祖母をかばったが、祖母はお礼のひとつも言ったことがない。それどころか自分はさっさと逃げ、祖父の怒りがショウタさんに向いたこともある。

小学校を卒業するころ、祖父が急死した。祖母がうれしそうに笑っていたのをショウタさんははっきり覚えている。

「父も恋人ができたんでしょう。あまり帰ってこなくなった。畑も縮小して、近所の人にやってもらう始末。父はときどき生活費を持って帰ってきましたが、祖母も何も言わなかった。
父と継母に男子が生まれ、居場所も逃げ場もなくなって……

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僕は何のために母と引き離されたのか。あまりに悔しかったから、あるとき父に言ったんです。『おかあさんに会わせて』と。父は『もう忘れろ』とだけ言いました。それから間もなく、女性を連れて帰ってきて『新しいおかあさんだ。来週、越してくるから仲良くしなさい』って。そう簡単に気持ちを切り替えられるわけもないですよね」

大人の欺瞞に耐えられなかった。母に会いたい。母から自分宛の手紙がないか、母の実家からの昔の年賀状などがないか探したが、すべて処分されていた。彼は思いきって、ひとりで東京へ出かけていった。中学に入ったばかりのころのことだ。

新幹線に乗って東京駅へ、それからうろ覚えだった母の実家へ。だが実家があったあたりは再開発されていて、ショウタさんは混乱して周辺をうろつき回った。そのまま日が暮れ、ついには警察官に保護された。

「事情は話せなかった。父に連絡がいき、翌日早朝、迎えに来ました。父は何も聞かなかったけど、一言、『めんどうをかけるな』と。僕の気持ちなんか想像もしなかったんでしょう」

父と継母には男の子が生まれた。祖母はそれから間もなく、施設に移っていき、父と継母、産まれた子が中心になって生活するようになった。彼の居場所はない。

母にも親権があれば、定期的に会うことができたのか?

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「母に定期的に会えていれば、僕には逃げ場があったんじゃないかと思う。でもそれがなかったから、中学時代は生活が荒れました。気持ちの持って行き場がない。家に帰りたくなくてワルとつるんだりもしたけど、ワルにはなりきれなかった」

もしこの時点で共同親権が導入されていれば、彼は定期的に母親に会うことができ、救われたのかもしれない。もちろん単独親権でも面会交流権はあるが強制力はない。同居している親が会わせないケースも多々ある。

父に、高校は全寮制に行くと告げた。父は「わかった」と言った。そのころにはもうひとり、男の子が生まれていた。もうここに居場所はないと彼は割り切ったという。高校時代、彼は一度も実家に戻らなかった。祖母が亡くなったという報せがあったときでさえ帰ろうと思わなかったという。

大学を卒業し、就職して25歳で結婚した。入社3年目で結婚するのは同期の中でもいちばん早かったが、自分が安定する場を作りたかった。

「相手は5歳年上の職場の先輩です。彼女が『年下の新入社員をたぶらかした』という噂が一部で流れたのが悔しくて、僕は転職しました。彼女は会社で必要とされていたから、噂はいつか消えていくはず。だったら僕が職場を変わろうと思って。幸い、彼女の上司が転職先を紹介してくれたんです」

彼は、妻との「居場所」ができたことで精神的に安定した。妻はすべて受け止め、彼を叱咤激励し、前向きで明るい渦に巻き込んでくれた。妻の両親も明るい人たちで、「ショウタさん、ひとりでも遊びに来なさいよ」と言ってくれる。家庭のあたたかさに触れて、自分は変わることができたと彼は言う。
二児の父になった今も、親には恨みしかない……

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「妻は『おかあさんを探したら?』と言ってくれるんですが、今のところ探すつもりはありません。もういいかな、と。母にその気があれば、父に問い合わせれば、さすがにもう教えてくれると思うけど、そうするつもりはないんでしょうから」

自分にも子どもがふたり産まれ、彼はますます両親の気持ちがわからなくなった。子どもをひとりずつひきとったということは、兄妹の間を親が裂いたということだ。しかも離婚後はまったく会わせなかったのはなぜなのか。せめて離婚した夫婦が事務的連絡くらいとりあって居場所を把握していてもよかったのではないか。

「考えると親への恨みしかわいてきません。妹はどうしているんだろうとときどき思いますが、30年以上会っていないのだから情のわきようもないというのが本音です。今、いちばん大事なのは妻と子どもたち。それ以上のことは考えたくない」

気にはなっている。常に心に棘が刺さったような状態で、その棘はときどきチクチク痛む。だが、抜くともっと大きな傷になりそうな気もする。過去より、今と未来を見ていたい思いも強い。それでも、母の顔がちらつくこともある。

こういったケースは、共同親権が導入されれば起こり得ないのだろうか。取り決めが遵守されなかった場合は、いちいち家裁に申し立てなければいけないのだが、時間も手間もかかることから、子に会えない親もあきらめるしかなくなるのではないだろうか。

後編記事「#共同親権 9歳のときに親が離婚。父か母どっちを選ぶ?と聞かれ、母と答えるしかなかったが──35歳女性のケース」に続く。

亀山 早苗(フリーライター)

2か月前