世界を揺るがした、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の離婚を時系列でおさらい

「2人は共同親権を持ち、ダイアナ妃はケンジントン宮殿に、チャールズ皇太子はロンドンのクラレンス・ハウスと別荘であるハイグローブ邸を行き来する」と発表。

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11/25(金) 21:01配信
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1981年に行われたチャールズ皇太子とダイアナ妃のロイヤルウエディングは、全世界に放映され、7億5000万人もの人々が自宅のTVで視聴した。

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2人のロマンスは世界中のロイヤルファンたちを魅了し、当時20歳だったダイアナ妃と32歳のチャールズ皇太子の交際と婚約のストーリーは人々を熱狂させた。約7.6メートルものトレーンが施された、ゴージャスなドレスを着用したダイアナ妃の姿は実に美しく、今でも私たちの脳裏に焼き付いている。

しかし、その舞台裏のムードは表向きのものとは劇的に異なっていた。ダイアナ妃は、1992年に出版された作家アンドリュー・モートンの著書『ダイアナ妃の真実(Diana: Her True Story)』のためにオーディオテープで行ったインタビューで、この日のことを次のように語っている。

「私は恐ろしいほど冷静でした。まるで自分が生贄になる子羊のように感じ、そうなることはわかっていたのに何もできなかったのです」

彼女はまたこのオーディオインタビューで、結婚前にチャールズ皇太子と会ったのはわずか13回だったと明かした。

――ほころびはすぐに生じ始めた。結婚してすぐ、双方の不倫の噂が流れ、2人は長い間離れて過ごし、公の場では非常に居心地の悪そうな様子を見せていた。そして、1996年に離婚。大ヒット配信中の『ザ・クラウン』シーズン5でも、この離婚にまつわる重要な瞬間を見ることができる。

以下で、そのストーリーをタイムライン順に見ていこう。
1981年7月29日

ロンドンのセント・ポール大聖堂で、チャールズ皇太子とダイアナ妃のロイヤルウエディングが行われた。
1986年夏

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ダイアナ妃は、元騎兵連隊将校のジェームズ・ヒューイットに出会う(その後5年間不倫関係にあったとされる)。ジェームズは赤毛であることから、ヘンリー王子の実父ではないかと囁かれることもあったが、この疑惑は激しく否定されている。

ジェームズは2002年、『サンデー・ミラー』紙のインタビューで、「私はこうした比較を面白く思っていませんし、ダイアナ妃とは長年一緒にいましたが、私はヘンリー王子の父親ではないとはっきりとお伝えします」と語っている。

1987年秋

ロイヤルカップルの結婚生活に対する憶測が飛び交うようになる。マスコミは、過去6週間で2人が共に夜を過ごしたのはたった1日で、チャールズ皇太子はスコットランドのバルモラル城を訪れ、ダイアナ妃はケンジントン宮殿と別荘のハイグローブ邸を行き来していたと報じた。

例えば『ニュース・オブ・ザ・ワールド』紙は、エリザベス女王が夫妻の不和に対処するための会議を開き、ダイアナ妃は怒ってその場から立ち去ったと伝えている。
1989年

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作家アンドリュー・モートンのテープの中で、ダイアナ妃は、誕生日パーティでカミラ・パーカー・ボウルズ(現カミラ王妃)に近づき、チャールズ皇太子との関係を問いただしたと語っている。

「私はカミラの存在を恐れていました。そして彼女に対して『私はあなたとチャールズとの間で何が起きているのか知っている。ただそのことを知っておいてほしい。私をバカにしないで』と言ったのです」

さらにカミラに「あなたは欲しいものすべてを手に入れた。世界中の男性があなたに恋しているし、2人の美しい子どももいる。それ以上何が欲しいの?」と問われたダイアナ妃が、「私の夫よ」と答えたのは有名な話。
1992年12月9日

ジョン・メージャー英首相(当時)が、チャールズ皇太子とダイアナ妃の別居を発表。「まことに遺憾ながら、バッキンガム宮殿は皇太子と皇太子妃が別居の意志を固めたと発表しました。両殿下に離婚の予定はなく、両殿下の憲法上の地位にも影響はありません。この決定は友好的に行われ、2人は今後も子育てに全面的に参加される予定です」

「女王とエディンバラ公(女王の夫フィリップ殿下)は、悲しみに暮れながらも、この決断に至った困難を理解し、同情を示しています」と述べた。

バッキンガム宮殿はまた、「2人は共同親権を持ち、ダイアナ妃はケンジントン宮殿に、チャールズ皇太子はロンドンのクラレンス・ハウスと別荘であるハイグローブ邸を行き来する」と発表。さらに、“第三者”は関与していないと強調した。

1994年6月

チャールズ皇太子は、プリンス・オブ・ウェールズ叙任25周年を記念して行われた、英ジャーナリストのジョナサン・ディンブルビーとのTVインタビューで不倫を認めた。

結婚生活は誠実だったかと聞かれた皇太子は、「はい……取り返しのつかないことになるまでは、2人で努力しました」と答えている。彼はカミラのことを「友人」と表現したが、1986年の時点で2人は不倫関係を再開していたと報じられている。
1995年11月20日

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ダイアナ妃がBBCの番組『パノラマ』で、マーティン・バシールのインタビューを受ける。妃はこのインタビューでうつ病と過食症の経験について率直に語り、これらの症状は、チャールズ皇太子とカミラとの関係によって悪化したと語っている。さらに、「この結婚には3人の人間が関わっていたので、少し混み合っていました」というコメントを残した。

このインタビューは全世界で約2億人もの人々が視聴。後に、バシールがインタビューの機会を得るためにダイアナ妃を不正に欺いていたことが発覚した。
1995年12月1日

バッキンガム宮殿が、エリザベス女王はチャールズ皇太子とダイアナ妃に離婚を促す手紙を書いたと発表。『パノラマ』のインタビューがその引き金を引いたと考えられている。

宮殿の声明によると、「女王は現在の状況を考慮したうえで、今週初めに皇太子と皇太子妃に手紙を書き、エディンバラ公の支持を得て、早期離婚が望ましいという見解を伝えました」という声明を発表している。

チャールズ皇太子も同じ見解を示し、女王から手紙を受け取った後に、ダイアナ妃にその意志を伝えている。
1996年2月29日

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いったんは抵抗したものの、ダイアナ妃も離婚に同意。妃の弁護士はBBCのインタビューで、「非常に難しい決断であり、妃は計り知れない悲しみと後悔の念を持って決意した」と語っている。
1996年8月28日

チャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚が成立。ダイアナ妃は引き続きケンジントン宮殿に居住し、「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号を保持することができるが、「ハー・ロイヤル・ハイネス(妃殿下)」の称号は放棄することで合意した。

離婚の和解金としてダイアナ妃に渡された額は、およそ1500万ポンド(当時のレートで約25億円)と報じられている。

そして、離婚して1年と3日後、ダイアナ妃はパリで交通事故に遭い、帰らぬ人となってしまった。

Translation: Masayo Fukaya From ELLE US

2年前