山口真由
リベラルが母性を語ればいいと思う。
https://www.gentosha.jp/article/21712/
杏さんが3人のお子さんを連れてフランスへの移住を決めたらしい。
その新たな旅立ちを心から祝福しつつ、頭の体操として、もしこれがアメリカのような面会交流や共同親権の制度が整備された国だったらと考えてみよう。
まず、杏さんの前夫たる東出昌大さんは少なくとも子どもと面会交流する権利は認められているはずだ。理想の夫婦といわれながらの一方的な不倫のニュースは家族を傷つけただろうか、彼自身が子どもに暴力を振るったなどとは報じられていない。そうすると彼には親としての権利がある。そして共同親権という制度がもっとも積極的に取り入れられている国の1つとしてアメリカを例にとるが、この権利は憲法上保障される最も重要な権利の1つなのだ。つまり、離婚後にも親には子どもとの交流を維持する権利が保障されている。
日本のように当事者の協議のみで離婚が認められる国はめずらしい。アメリカの場合には全件裁判所が関与する。実際上は裁判官ではなくて子どものメンタルヘルスの専門家なんかが、両方の親とも調整をしたうえで「ペアレンティング・プラン」なる計画書を作成する。要するに、平日は母親と週末と夏休みのまとまった期間を父親と過ごすといった子どもの監護に関する具体的なスケジュールである。そして裁判官がそのプランにOKしたら、それが両親の間の約束になる。
こういう制度がしっかり整った国では、子と同居する母が家族を引き連れて海外へ移住するなんて一大事は、当然のことながら離れて暮らす父への事前の連絡が必要になる。お互いに話し合って「ペアレンティング・プラン」を書き直してはじめて可能になるのだ。無断転居は法律上禁止されており、結婚している間でも子どもが飛行機に乗るときには一緒に行かない親のサインが必要というのだから驚く。
杏さんが東出さんに連絡を取ったのかはよく分からないけれど、日本のように同居する親が子どもの住む場所を自由に選べる制度と、アメリカのように離れて暮らす親がOKを出さない限り引越しもままならない制度とどっちがいいのかと問われれば、それは同居している親の側と別居している親の側とで正反対の結論になるだろう。
アメリカでいう共同親権には2つの種類がある。子どもの教育、住居や職業選択など重要な事項を共に決定するという「共同法的決定権」と、それだけじゃなくて母の家と父の家を子どもが行ったり来たりするという「共同身上監護権」だ。日本の法制審議会で現在議論されているのはこのうち共同法的決定権のみだが、そうだったとしても海外移住は重要な事項の決定として、当然、離れて暮らす親にも決定権があるはずだ。
ところで、ツイッターを見る限り、日本にも共同親権を導入しようという提案には反対論が目立つ。典型的には、DV夫からようやく逃れたと思ったら、離婚後にも子どもに関する重要事項の決定権を握られて、ときには子どもに会いたいがために、場合によってはただの嫌がらせで拒否権を発動され続けるという事態を想定しての慎重論だ。それはおそらく実体験に基づくのだろう。私はDVなんて一部の例外的な事象に過ぎないとは思っていない。離婚に至るまでの葛藤の中で脅迫的な言辞を振るわれることもあるのだろうし、手荒く扱われることだって想定できる。そういう閉鎖空間でのDVの立証が難しいことも承知している。
ただ、あるケースが忘れられないのだ。それは暮らしていたアメリカで夫と不仲になった妻が、日本に一時滞在と偽るかなにかして末の息子を連れて日本に帰国した事案だ。一方の夫は、「ハーグ条約」を根拠として息子をアメリカに連れ帰れるように裁判所に求める。国際結婚の場合に、夫婦仲が悪化するとどちらか一方が子どもを連れて母国に帰国し、もう一方は事実上子どもと永遠に会えなくなってしまうという悲劇があった。だから、とりあえず一度はもともと生活していた環境に子どもを返し、そこからどちらの親の下で育つのが一番良いかを裁判所に決めてもらうのが「ハーグ条約」の枠組みである。
ところが母は激しく抵抗する。裁判所の命令を受けて子どもを受け取りに来た執行官がどれだけ言葉を尽くして説得しようとも、断固として玄関ドアを開けなかった。業を煮やした執行官が、二階の窓を開けて部屋に入ってくる。すると母は子どもと同じ布団に入って体を激しく密着させて、どう頑張ろうとも子どもだけを連れ帰るなんてできない状態にしたのだ。やむなく執行官はあきらめた。
この出来事は2つのレンズから覗けるように思われる。
これは母が愛する我が子を守り切った場面なのかもしれない。
フランスの『ジュリアン』という映画には、子ども2人を連れてDV癖のある夫と離婚した妻が、しかしながら夫の暴力性向を証明できずに共同親権を取られてしまうところからストーリーが展開する。嫌がるジュリアンは裁判所によって半ば無理やり父親と交流を続けざるを得ない。そして父の元妻への執着はどんどんエスカレートしていく。
だが、子連れ帰国という先ほどの事案は『ジュリアン』と同じように、母がDV夫から子どもを守った事案なのだろうか。もう一つのレンズから覗けば、違った見方もできるのではないか。アメリカで生まれたこの事案の息子は兄姉の言葉によれば、誰よりも「アメリカ人」だという。言葉も文化も異なる日本に連れてこられた彼は、アメリカで通っていた学校の友人を懐かしんだそうだ。この子には、真の意味での選択の機会が与えられていたのだろうか。英語を自由に操り、アメリカという刺激的な土壌に溶け込んでいた息子にはより開かれた世界があったのではないか。
裁判所は馴染んだ環境から引き離された息子が母に依存していく可能性を示唆している。友達との会話も兄姉との交流も限定的な状況で、母だけが世界へとつながる窓となる。そうすれば彼女の視点が息子の記憶に多大な影響を与えるだろう。さらにこれは逆もまたしかりである。兄や姉を置いて末の息子1人を連れて帰国した母にとっても、彼だけが生きがいになる。そして、息子は、父という巨大な大人に虐げられた無力な母を守る騎士となるのだ。試しに彼に尋ねてみればいい。当然「パパなんか嫌い、ママと残りたい」と答えるだろう。だけどそのきっぱりとした意思表明の裏に「ママにはもう僕しかいない」という悲壮な覚悟はないのだろうか。つまり、ある種の重荷と共に子どもに選択を強いる要素が存在しないと言い切れるのかが問われる。
そして私はこの“母子密着”という言葉が頭にこびりついて離れないのだ。12歳になる息子と母が1つのお布団にくるまってぴたりと体を寄せ合っているという、その光景が脳裏に浮かぶ。
家族法を語る者は多くの場合それぞれのポジションがあり、それに伴うバイアスがある。私自身もそれを自覚している。そしてこの偏向が歪ませた風景なのかもしれないが、共同親権に反対する論調にはどこか母の幸福と子どもの幸せをかなり近接したものと考える風潮が漂う。
中学校の合唱コンクールで「母なる大地の懐に我ら人の子の喜びはある」とクラス全員で歌い上げ、終盤にはひたすら「母なる大地」を褒めたたえた私たちの社会は、“母性”というものを特に神聖視してきたように見える。かつて女性を「産む機械」に喩えた2007年の閣僚の発言はさすがに批判を浴びた。第二次安倍政権が2013年に打ち出した「3年間抱っこし放題」という育休3年間延長制度にも、女性活躍を唱えながらやはり母親業を何よりも優先すべきという懐古的な価値観があると批判された。
母になれない女のひがみなのかと自戒しつつも、それでも私は問いたい。幼子を胸に抱く“聖母子像”を理想化する風土は保守的な層のみならず、リベラルとされる人々の側にも残っているのではないかと。