子どもが親に会わない権利?

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「父親のあなたはこの子には必要ない」

 昨日、元妻とその夫が子どもを2回目に引き離した行為について、損害賠償を請求した裁判の証人尋問があった。元妻を直接尋問した。子どもが会いたくないと言っているからそれを尊重している、と元妻は繰り返す。だとしてもあなたはどうなのか、と聞いても、同じ言葉が返ってくる。このまま子どもが一生会わなくてもそれでいいというのか、と問うても同じ答えだった。ぼくはたしかに係争の片方だけど、彼女との間にできた子どもの親でもあるので、彼女が「父親のあなたはこの子には必要ない」と事実上言っているのと同じだった。
 前から子どもに会えないので、と法改正を訴えると、聞かれた方から「子どもが親に会わない権利は」と聞かれることがときどきある。最近では共同親権に反対する人たちがこういった権利を主張して、賛成する弁護士もそれを保障しようとするのを見かける。でも、この用語の使用はいくつかの点でおかしな点がある。

それは差別

 例えば、ことさらに「親」に会わない権利だけが問題とされる点だ。家族であっても、妹に会わない権利やおじいちゃんに会わない権利、というのは聞いたことがない。友人に会わない権利、というのもあまり聞かない。加害者に会わない被害者の権利、とかはもっともらしく聞こえるけど、これはむしろ安全を確保され安心して暮らせる権利、というものの言い替えだろう。なぜなら、たとえ被害者であっても、収監されていない限り、加害者の行動を被害者の行動に応じてすべて規制することは物理的に不可能だし、加害行為を行なった側にも人権はあるので、それが正義とも必ずしも言い難いからだ。
 この場合の「親」はことさらに危険で、仲間ではないものを指していることは明白だ。この親を別居親に置き換えると文脈が理解できる。これを同居中の親にすると、別居親に対する同居親だろうが、両親が子どもと同居する場合だろうが、不自然さが際立つ。「お前なんか親じゃねえ。顔もみたくない」と思春期の子どもが言うことはある。手を焼いて親戚の家にあずける親はいるかもしれないけど、「あなたの権利を尊重して私が家を出ていく」とか「親に会わない権利があるから下宿先を確保してあげよう」とか言う親はいない。「偉そうなこと言うぐらいなら出ていけ」という親はいても、「権利はあるから家から出ていけ」と言えば単なる養育放棄だ。
 つまりこの場合の親は黒人や被差別部落出身者と同様の差別の対象としての別居親しか念頭にない。「黒人に会わない権利をどう保障するの」とか「部落民に会わない権利をどう保障するの」という問いが、あり得ないのと同様だ。
 証人尋問を傍聴した友人の別居親が「別居親って本当に差別されてるんですね」と、彼女のぼくへの態度をそう評価していた。その人も子どもに勉強させたことが子どもの意思を尊重していないと婚姻中に言われて、いまは子どもの意思で会えていない。元パートナーはなくなっているので、この場合、子どもの意思を尊重すると自分の子どもがみなしごになる権利を親が保障しないといけなくなる。子どもも大人になれば、親と会う会わないなど自分の意思でどうにかできることかもしれない。しかし未成年の子どもだけに、子どもの意思を尊重して自分の親を捨てさせることを、子どもの権利の保障などと呼ぶだろうか。

子どもの権利条約

 実際、子どもの権利の国際的な目安ともいえる子どもの権利条約は、父母の共同責任とともに、養育における親の第一義的責任を明示していることはあっても、「子どもが親と会わない権利」などという言葉は見当たらない。未熟な人格としての子どもを前提に子どもの権利が規定されるとするなら、大人と同然の責任を子どもに押し付けることが本来の趣旨とは言えないだろう。その上、成人であっても、「親に会わない権利」だけがことさらに問題とされることはない。つまりこの権利(があるとするなら)は、自分の意思を子どもに押し付けられる立場にいる人間が、子どもに親を捨てさせる場合にだけ用いられる。
 もちろん、子どもにとって親は、危害を加えることのできる一番身近な大人であるのも事実だろう。その場合に子どもの権利条約は、虐待放任やあらゆる形態の搾取からの保護という形で、その権利保障を明示している。であればことさらに「子どもが親に会わない権利」など掲げなくても、そういった権利保障をすることを明確にすればよいだけのことだ。
例えば、「学校に行かない権利」は、もっともらしく聞こえることがあるにしても、学習権がある以上、通学させない親が子どもの権利を保障したと手放しでほめられたりはしない。しかし親には教育権があるし、子どもをいじめや仲間外れや体罰から守るために、どのような教育を授けるかについての判断をすることは可能だ。その中で転校や不登校の容認、フリースクールへの通学などの手段も選択肢になる。しかしそれは「学校に行かない権利」をどう保障するかという文脈で語られたりはしない。
 誰もが親から生まれて、たとえ実現できていないとしても、親から愛されたいと願っている。学ぶことも、親の庇護を受けることも、ともに人間として成長するにおいて必要なことだ。「子どもが親に会わない権利は」と聞かれたら、そんな過酷な社会環境しか子どもに提供できていない、私たち大人の不明を反省するのが先ではないでしょうか、と答えることはできる。(宗像 充 2022.6.1)

2年前