2021年7月に「卓球の愛ちゃん」(福原愛さん)が離婚し、台湾人の夫と子どもの親権を共同で持ったことで、日本の法律にはない、婚姻外の「共同親権」がトレンドワードになった。
子どもは両親から生まれるのだから、親が別れるとともに、一人だけが子どもを見ればすむという単独親権制度は不自然だ。にもかかわらず、共同親権についての書籍は、今年になるまで、共同親権について反対する立場から、(単独親権制度の問題点については目をつぶり)いかに共同親権には問題があるのかという趣旨で、法律家やフェミニスト、支援者がするというものしかなかった。
最近でも、弁護士や法律家の専門書で、長谷川京子「先進諸国は子どもと家族への安全危害から『離婚後共同』を見直し始めている」(『戸籍』995、2021.4)や上野千鶴子「ポスト平等主義のジェンダー法理論」(『自由と正義』2021.7、Vol72.No.7)が同じ主張の焼き直しを行っている。
彼らの原則引き離し実施論は、2015年に元裁判官の梶村太市が「面会交流の実体法上・手続き法上の諸問題」(判例時報2260)で、共同親権・共同監護は「欧米の価値観への盲目的追随」(『子ども中心の面会交流』)と批判することで始まり、彼と弁護士の長谷川がタッグを組み、同様の趣旨の本を、執筆者を変えて何回も出版しつつ現在も継続している。これら書籍の執筆陣には、上野のほかにも、臨床心理士として有名な信田さよ子なども並んできた。彼らの一部は、ハーグ条約加盟の際には、赤石千衣子(しんぐるまざぁず・ふぉーらむ)など女性活動家や弁護士連中と「ハーグ慎重の会」に名前を連ね、現在、法制審議会の委員の一画を占め、共同親権に反対している。
先の論文で上野は、父親の権利運動をいっしょくたにして「フェミニズムへのバックラッシュ」とする。同時に上野は、子どもの面倒を見ない「男には共同親権を要求する準備がまだない」(『離婚後の子どもをどう守るか』)とその反対を正当化する。その批判は、職業経験の乏しい女には職場で平等なポストを要求する準備がまだない、という批判と同列のものだ。
2015年に梶村が「東アジアの価値観」を掲げて、これらの運動を始めたのを見てもわかるように、彼らの運動は業界の体制維持運動と合流しながら、「家裁の役割は戸籍実務」「女が親権をとれる現状を変えたくない」という本質的に既得権益確保を目的に進められてきた。現在、法制審議会で進められている議論も、この目的を達成するために、いかに改革したかという外面を整えるかという点にエネルギーが注入されている。
人々はこの劣悪さに耐えられるか?
しかし、こういったキャンペーンに対し、世間はどこまで無自覚でいられるだろうか。
芸能人の離婚を記事にする週刊誌は、国内の離婚であっても、共同親権について言及する機会が増えた。どちらかに家庭生活を壊した原因を求め、親の別れが親子の別れとなってきた日本の離婚のあり方について、「海外のように共同親権の場合と違って」「日本は単独親権だから」とわざわざ言及しつつ、芸能人の事例を使った問題提起がなされてきている。世間は「共同親権」という別の選択肢が開く未来について知りたがっている。
7月10日から21日間、子どもと現在も引き離されたままの、フランス人のヴァンサン・フィッショさんは、千駄ヶ谷の駅頭でハンストを行なった。この行動は、来日したフランスのマクロン大統領の特使やEU加盟国の大使館が訪問し、日仏首相の共同声明でもこの問題が言及され、海外メディアを中心に報道された。
また問題点も露呈させた。一つには、妻側の弁護士の司法手続きを経るようにという主張に対してフィッショさんがハンストで本気を見せることで、司法が親子関係を制約するものという実情が伝わるきっかけになった。第二に、朝日新聞の論座のネット記事が削除され、妻側の弁護士(露木肇子弁護士)からの働きかけがあったのではないかという疑惑がネット記事に出ている(弁護士倫理について考える「なぜ国内メディアは実子誘拐されたヴィンセント氏のハンストを報道しないか」https://legal-ethics.info/2168/記事では「脅迫」と記載)。この件は、国内の一部地方誌でも報じられているが、全国紙は及び腰だ。
制度の不備からくる人権侵害の主張に、両論併記の欠如による記事の削除を肯定するなら、そもそもそれは制度や社会の問題ではなく、フィッショさん個人の問題である、ということになる。「子どもに会えないのはその人に原因があるから」という世間の偏見を肯定することを、報道における中立と呼ぶのはあまりにも主体性がない。
引き離し問題についての、報道統制や実名報道への遠慮は、男性側に問題があるという先入観をもとに、制度の問題を個人の問題にすり替えることで一貫している。上野や長谷川の批判も、こういった点を前提に男性「のみ」を批判する。彼らのキャンペーンに今回載ったのが、赤旗紙や東京新聞である(大手紙や週刊金曜日も一度は載っている)。
日本のジェンダーギャップ指数が156カ国中120位であることを批判する同じフェミニストが、男性の育児への関与の少なさを理由に、女性が男性を子どもから引き離す(これ自体虐待である)のを肯定する。結婚するとき妻が夫の姓にする割合が96%なのは女性差別、と批判する人が、離婚するときには司法が親権を女性にする割合が93%という現実に、「女性が子育てを担ってきたから」と答える。国民に自粛を強要する国や都の指導者が、オリンピックの開催を強行するのと、やってることは変わらない。
ぼくたちが訴訟で問題提起したのは、そういう日本社会の根強い偏見や差別構造にほかならない。その提起への無視は、結局は会社や職場で仕事と家庭の両立に悩む多くの人の生きづらさを、「個人的なことだから」と切り捨てることにつながる。
法制審議会で、親権を親責任や義務に置き換える議論をする以前に、親が周囲にびくびくしながら子育てを強いられている(子育ては自分の幸せではなく社会の義務)現状を変えることが必要だ。家宅捜索ですら裁判所の令状がいるのに、行政が実子誘拐を放置し、それを手助けする実情の中で、「親の権利ではなく子どもの権利」など、なんと空虚に響くことか。何より「個人的なことは政治的なこと」ではなかったか。
ぼくたちは司法の場でその矛盾を明らかにするとともに、「手づくり法制審」として新たな議論の場を設けた。多くの人と民権民法を手にする場にしていきたい。「国民的議論」とは誰もがそこら中で共同親権について話題にすることからはじまる。
「共同親権革命」と名付けることすらおこがましい。
子どもは両親から生まれる(共同親権)。そんな当たり前のことすら確認できずに、どんな改革も空々しい。(宗像充 2021.8.22)
宗像充のホームページ
https://munakatami.com/column/atarimae/