隠し子の叫び:実父との半世紀後の再会体験談パート1 by スワン 南保美 Dr.

Nahomi Swan

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Dr. Nahomi Swan
2021/07/25 08:18

私は、50代前半のユング派志向心理士である。1年前、2歳半の時に生き別れた実父に半世紀後に繋がるという劇的な体験をした。それ以来喜びと怒りと苦しみが混じった何とも言えない切ない心境の日々を過ごしており、私の52年間の人生の中で最も大きな出来事に遭遇したと思っている。私は35歳の時、結婚後1年3ヶ月で前夫を癌で失うという悲痛な体験をしているが、今回の父との繋がりはその時の喪失感や苦しさに匹敵するほどのものである。周囲の人に話すと「半世紀後に会えてよかったね。」と喜んでくださることが多いが、「良かった」の部分ももちろんあるが、同居家族への不信感と怒り、父の再婚家族への嫉妬、父をもっと早く探さなかった自分への悔恨の思いなどから来る怒りや悲しみは大きく、その自分の感情に向き合うことに苦心する毎日なのである。私は心理士としてこれまで多くの子供たちの親の離婚後の心のケアを行ない、教育分析も積極的に受けてきた。それなのに、なぜ自分の問題についてはここまで疎く、同居家族に「洗脳」されるまま、自分に与えられた家族の境遇をただ運命として受け入れ、52年間も生きてきたのかと思うと、自分が情なくなると同時に日本の単独親権社会問題の深刻さを目の当たりにする気持ちになる。私の苦しみは、単独親権制度の下で親権を失った親たち、片親を失った子供たち、周辺の親戚や知人たちといった当事者、そしてこの領域の専門家たちにしか、なかなか伝わらないことが多い。この自伝が共同親権社会の大切さを多くの人々に知っていただくきっかけとなることを願う。又、自分の心を整理し癒やすためにも、苦しい過去の自分と向き合い、少しでも新しい気持ちで未来へ歩き出すためにも書き綴ることにした。

私の両親は幼少の頃離婚し、私は母方の家族に引き取られ育てられた。シングルマザーとして忙しく働かなければならなかった母に代わって私を育ててくれたのは祖父母であった。祖父母は熱心な新宗教信者で、特に祖母は布教師であったため、母親代わりであった祖母から受けた精神的、道徳的、思想的影響は私にとってかなり強いものとなった。祖母からは「あなたのお父さんだった人はあなたを棄てた悪い人だから、迎えに来てもついて行ってはいけない。大人になっても探してはいけない。あなたを一人で育ててくれるお母さんに親孝行をしなければいけない。」と幼い時から繰り返し聞かされてきた。この祖母の言葉は呪文のように私の心に刻まれ、つい最近まで疑うことなく信じていた。又、祖母からは「あなたが今生父親のいない家に生まれてきたのは因縁によるもので、前生の行いが関わっているから、今生は精一杯人を助け信仰をしていると来生は父親のある家に生まれてくることができる。」とも言い聞かされてきた。私はこの「因縁」の教えを真剣に信じ、祖母のような人を導き助ける布教師になって、社会の弱者のために貢献できるような人となろうと考えるようになっていった。

祖父母は私を父親のいない可哀想な子であるとして大変甘やかし溺愛した。私には祖父という父の代わりがおり、祖母と母(母は怖い思い出しかなくあまり好きではなかったが)という二人の母もおり、「親神様」という神様もついているから幸せであると思っていた。しかし、幼少の頃から暗闇が怖かったり、よく泣いたり、悪夢を見たり、夢遊病の症状があったのは、父を突如失うというトラウマがあったためだと思う。いつもなんとなく心の真ん中に穴が開いているような気持ちでいた。その穴は今でも完全に埋まったわけではない。祖父が私の父親代わりと思っていても、少しだけ記憶にある父は優しい人であったし、どこかにいるかもしれないと聞かされていたので、父に会いたいという気持ちはあり、小学校低学年の時は、父に宛てて書いた手紙を庭の土の中に埋めたこともある。良い子にしていれば、一生懸命生きていれば、きっといつか父は私を迎えに来てくれるだろうと心の片隅で思っていた。だが、家で父の話題を出すことはタブーであったので、父に会いたいとか父がどんな人だったのか知りたいなどど口が裂けても言えず、その思いを一生懸命殺しながら明るく無邪気な子供のふりをして生きてきた。

私は幼少の頃から祖父母との関係が良かったが、母と姉とは上手くいっていなかった。姉は私より随分年上で、まだ年が小さく祖父母の信仰する新宗教に熱心だった私の方が可愛がられていたことが憎かったためか、私は姉にずっと冷たくされてきた。今思えば、姉は私より父の思い出が鮮明にあり、父との生き別れは大変辛かったであろうから、その苦しみの反動が私への八つ当たりになっていたことも原因だったと思う。姉と母は仲のいい姉妹のような関係を築き、その二人の中に私の入る居場所はなかった。

私は幼少の頃から母を大変恐れていた。母を恋しいと思うことももちろんあったが、私にとって母は、お母さんというよりは、時々帰ってくる怖くて美人なおばさんという印象の方が強かった。母は若い時は髪を金髪に染め親を困らせるほどの当時には珍しい常識を逸脱した人であったようで、性格も大胆で愉快な人である反面、言動がきつく、周囲が傷つけられることが多々あった。私が小学生に上がる頃、女手一つで二人の子供たちを育てるには水商売しかないと考えた母は事務職を辞めてスナック経営を始めた。不眠症も伴い、イライラすることが多く、私は八つ当たりをされ、それを見て祖母や姉が母を叱ってくれるようなことがよくあった。母は「お姉ちゃんは足で蹴飛ばしても平気な子だったのに、あなたは扱いが面倒な子である」とよく話していた。子供の頃から最近まで母の怖い夢を見てきたが、一番印象的な夢は、5歳くらいの時見た夢で、私は母に遊園地に連れて来られ、コーヒーカップに一人乗せられ、一人で楽しく遊んでいたが、コーヒーカップが止まり、降りた時に、待っていると思った母親がおらず、わんわん泣き続けたというものだ。

母は、生計を立てる道は水商売しかなく、二人の子供がいなければとっくに死んで楽になっていたのにこんなに苦しく働き続けなければいけないとよく口にしていた。母からこの言葉を聞く度、私は「生きていて御免なさい。私さえ死ねばお母さんは楽になるのに。」といつも思っていた。姉はこういった母にうまく対応し、仲良く生きているので羨ましく不思議に思っていた。いつしか私は母の言動のために自殺を考えるようになり、母にも周囲の人たちにもその苦しみを訴えたが、考え過ぎと言われ、なかなか分かってもらえなかった。母は性格はきつくても一人で子供たちを育てている立派な人だと親戚たちは褒めた。私が何かいいことをしても私が直接褒められず、一生懸命一人で育てた母のおかげだと言われることもあり、自分の存在意義がわからなくなっていった。従姉妹のように親に自由に反抗をしてみたいと思い、ちょっと試してみたこともあったが、「こんなに女手一つで懸命に育てているのに何様だ!」と怒鳴られた。その時、シングルマザーの娘には反抗期の健全な反抗も許されないのだと思い知り、母に心を開いて語り合う関係になることは私には無理なのだと実感し、益々自分の世界 – 宗教や哲学等を求めて生きる自己の世界を作り上げていった。

私が大学生になる頃は、バブル時代で母の店も景気が良く、私は地元を遠く離れた私立大学へ通わせてもらうことができた。その頃祖父は他界し3年ほど過ぎていたが長寿を全うした祖母は健在であった。母は私が大学へ行くことは経済的余裕があってもあまり良いことではないと思っており「女は短大くらいでいいのに。」などと口にしていた。だが、私は将来、祖母のような新宗教の布教師をする傍ら英語の教師になりたいという夢を抱いていたので、どうしても新宗教の本部がある地域の大学に進学し好きな英語を専攻したいと考えていた。英語科を選んだ時、母が「あいつも大学で英語を専攻したから、やっぱり親子だから似てるんだね。嫌だね。」と言ったので、普段会話に出ない貴重な父の情報を聞けて嬉しく、もっと聞き出したいと思い尋ねると「あんな男に会いたいのか?」と言って大声で笑われ、それ以上聞けなくなってしまった。ただ母はその時、姉の結婚式や二人の娘の節目がある際、私たちの写真を共通の友人を通し送っていると言っていたので、母も優しいところがあるのだなあと心の中で思っていた。

花の大学生時代であるはずなのに、当時、私は鬱病のような状態になっていた。寝ても寝ても眠くて仕方がなく、いつもなんとも言えない虚無感があった。しかし、当時はカウンセリングは今ほどあまり普及していなかったし、何よりも新宗教の信仰者として、心の問題を信仰の外で解決しようとするのは良くないことと思い、臨床心理的支援は受けず、心の中で自分の世界や価値観を築き上げていくことに一生懸命だった。「父に棄てられた私だけど前を向いて生きていこう。与えられた教育に感謝し、社会的弱者を助ける人となろう。夫に棄てられた女性が水商売以外に生きる道がないと母のように思わなくても済むようなシングルマザーたちが生きやすい社会を築き上げることに貢献しよう。」そんなことをいつも考えていた。その反面、どこかで生きていると聞く父のことをやはり知りたいという気持ちを抑えることができずにいた。

ある日、大学の寮に突然毛皮の贈り物が届き、差出人がデパート名だったので、きっと父が私にプレゼントしてくれたのだと思い、喜んで母に電話したことがあった。「毛皮が届いたよ!」と母に伝えると、「あ、それ私が送ったの。」と母は言った。私は心の中で一気に寂しくなり、「あ、そうなんだ。名前が書いてなかったからお父さんが送ってくれたのかと思ったの。」と言ったら、母が電話越しで申し訳なさそうな声を漏らしたのに気づき、私はその時少し不思議に思った。その後、自由が利く大学時代の今こそ、父を探し始めるチャンスだと思い、大学の先生のアドバイスを受けながら探し始めようとしたことがあった。しかし、捜索をしようと思えば思うほど、祖母の「悪い人だから探してはいけない」という呪文が思い出され罪悪感に苛まれたし、何よりも、探し当てて期待を裏切られ落胆してしまうような父であればそれも寂しいだろうと思い、心の中に理想のお父さんを抱きながら生きていこうとある日決意をしたことを今でも鮮明に覚えている。今思えば、あの時から、いや、50年前に父が家を離れた時から、自分ですら気づいていない時もあったかもしれないけれど、ずっと父を内的世界の中に抱き、心の中の父性を探す長い旅は始まっていたのだろう。

大学生の時、一番苦痛だったのは長期休暇で実家に戻り、母のスナックを手伝うことだった。酔っ払いのおじさんたちに体を触られたり、カラオケのアダルト動画を見ながらデュエットの相手をしなければならなかった。私は夫に棄てられた惨めなシングルマザーの娘なのに大学に行かせてもらっているのだから、これくらいのことは我慢しなければいけないのだろうと思っていた。スナックは不倫相手と落ち合う愛人たちの場所になっていたり、母自身の道徳観にも納得できないことがあったため、そのような世界で生きる母をいくら私を懸命に育ててくれているシングルマザーであっても、心より尊敬し労ることができなかった。本当に母にはこの仕事しか生きる術がなかったのかといつも考えていた。

姉と母はタバコの煙を吹かしながらブランド物の衣類や宝石や美味しい食べ物の話をよくしていたが、私はその二人の中に入ることができず、いつも一人で考えていた。私の父は何故私を棄てたのだろうか。少ししかない父との思い出は良いものばかりだが、何故父は突然「悪い人」になったのか。母のように水商売しか道がないと考えるシングルマザーのような社会的弱者が生まれない日本社会を作り上げるにはどうしたら良いのか。私はいつも人生の意味や生きる哲学について考えており、そんな私を見て母は考え過ぎだと言っていた。なぜ、姉のように何も考えず、楽しく普通に生きれないのかとよく私に尋ねた。

母はよく私に辛く当たった後、反省し、翌日に謝罪の言葉の代わりに高価な贈り物をしてきた。私は母から物をもらう度に心が虚しくなっていった。私が欲しいものはそんなものではなかった。ブランド物の洋服など着れなくてもいい。美味しいものがお腹いっぱい食べられてなくてもいい。知的で穏やかな父がいて優しい朗らかな母がいて、皆で慎ましく分け合いながら食事をし、一家団欒の会話を楽しむ。そんな親戚の家のような普通の家族が私も欲しかったのだ。しかし、それを母は私に与えることができない。だからこそ物やお金を与えてくれるというのは論理では理解できていたのだが、私の心は受け入れることができず、鬱状態が続いていたのだと思う。

恋愛はうまくいかないことが多かった。それは多分、出逢う男性一人一人に理想的父親像を投影していたからだと思う。「この人も、私の父が私を棄てたように、きっと私を棄てるのだろう。そうされないように私の全てを捧げよう。そうすれば、この人は私を見捨てないかもしれない。」といった感情を関係を持った男性たちに常に抱いていた。このような私の感情は相手の男性にとって大変重かったために、良好な恋愛関係を築くことができなかった。母は、恋愛でうまくいかないのは、私の顔が醜いからであり、幸せな結婚をするためには美容整形手術をすべきだと言い、お金ならいっぱいあるからそうしなさいと強要され、私がそれは私のポリシーに絶対的に反すると断ると「こんなにあなたのことを思って懸命に働き、良いことを言ってるのに。」と憤慨され、機嫌を損なわれたことがある。こういった母とのやり取りが重なり、私はいつしかフェミニストとなっていった。「女であるが前に人間でありたい。」母のような美人ではない自分だからこそ、身なりに気を配るのではなく、心を磨き、学問を極め、精神性を高める道を選ぼうと私は思うようになったのだ。

私はいつしか、母と距離を置いて生きることが互いにとってベストなのだと理解し、海外生活の道を選んだ。いつしか新宗教からは脱会し、クリスチャンになっていた。母からコントロールされている気持ちが苦しく、「母の娘」という重く苦しい状況から抜け出すためには、新しいアイデンティティが必要だと思ったことも洗礼を受けた理由の一つである。自分が母の娘という「人間に属するもの」ではなく、「主のもの」であるというキリスト教の教義に心より安堵していた。

海外で就職もし長期滞在の道も開け、やっと母から解放されると思ったが、母からの心理的圧迫は続いた。独身の時は毎週電話が来て「いつ結婚するのか。」と聞かれた。一生懸命海外で自分の道を切り開き生きているのに「30歳を過ぎても結婚もせず情けない女だ。」と母に言われ続け、鬱病も酷くなり、良いカウンセラーがいるからと知人に紹介され訪ねた。そのカウンセラーは聖職者であったことも関係してか強いカタルシス(心の浄化)の効果が現れ、今まで自分では大丈夫だと思っていたことが、やっと苦しみの言葉として口から湧水のように溢れ出てきた。「私が世の中で一番恐れているのは母です。私は彼女に人間性を否定され、コントロールされているような気持ちになります。結婚していないから一人前の人間ではないと非難されます。結婚できないのは顔が醜いからだと言われ、美容整形をさせられそうになりました。母が怖いので日本から出てきました。父にも棄てられた人間です。だから同じように多くの男たちも私を棄てたんだと思います。私さえこの世にいなければ世界はどんなに素晴らしいだろうにと思います。」と大泣きしながら訴えた。カウンセラーが黙って頷きながら私の涙と言葉を受け止めてくれた後、彼が最初に口した言葉に私はハッとさせれた。「まず一つだけ大事なことを伝えよう。あなたのお父さんはあなたを棄ててはいないよ。あなたのお母さんとお父さんの間で何かあったかもしれない。でも、あなたを棄ててはいない。」とカウンセラーは言ったのだ。その時、私は家族の真相について突き止めようという気持ちにまではなれなかったが、父に棄てられていないという言葉に大変癒されたのだ。

34歳の時に海外で前夫と結婚した。式の前に母と姉が私を感慨深く見つめた。母が私の花嫁姿の写真を撮った時、私は心の中で思った。晩婚になってしまったけれど、この写真も姉の花嫁姿の写真が父の元へ届けられたように、やっと父の元へ行くのだろうか。そう思うとドキドキした。そして「お母さん、この写真、お父さんに送るの忘れないでね。」と口から出そうになる言葉を懸命に飲み込んだことを今でも思い出す。結婚後、やっと母から心理的圧迫を受けなくて良いかと思ったが、今度は別の質問が待っていた。それは「いつ子供ができるのか。」というものだった。この質問は周囲の人にもよく聞かれてきたが面白い質問である。私は子供が欲しかったのに授からなかったので、いつ子供ができるのかというのは私自身が知りたい質問なのである。子供は授かりものとしか言えないのに、母は、子供がいる姉と比べ、私の生き方はおかしいと言い、子供のいない可哀想な人だと同情された。

やがて姉が夫との離婚を決意し子供を連れ去った時、母は喜び、姉を支援した。私は子供の連れ去りは子供たちと父親にとってはよくないことなのではと意見したが「子供を産んだことがないあなたは、命をかけて子供を守る母親の気持ちがわからないのだ。」と言い、相手にしてくれなかった。母や親戚たちにとって、シングルマザーの母を裏切るような海外生活を選んだ、ある意味逸脱した私とは違って、姉は母の側にいて一家を支える母親として常識的に生きているイメージがあったので、この姉の決意に驚いた周囲の人々も多かった。母のシングルマザーとしての誇り高い生き方が世代間連鎖として姉の生き方に影響をもたらした結果とも言えるかも知れない。母親の子供の連れ去りを容認し、シングルマザーとして誇り高く生きる決意を持った母親たちが尊ばれるような日本の単独親権社会が日本独特の「母性偏重」のイデオロギーに影響されているのではないかということを私の家族の生き方の選択と私の意見の相違から考え始めるようになった。

母と私の関係を分析する時、大変参考になったのが、信田さよ子氏の著書
『 母が重くてたまらない−墓守娘の嘆き』( 春秋社、2018年出版)であった。信田氏は、臨床心理士としてカウンセリングで出逢う団塊世代の母親をもつ女性達の心理的葛藤を分析し、彼女達が母親の重たい愛情に苦悩した故にカウンセリングが必要となっていることを示唆し、母親のタイプを「独裁者としての母−従者としての娘、殉教者としての母−永遠の罪悪感にさいなまれる娘、同志としての母−絆から離脱不能な娘、騎手としての母−代理走者としての娘、嫉妬する母−芽を摘まれる娘、スポンサーとしての母−自立を奪われる娘」の6つに分類し、問題提起を行なった。この分類の中で、私に当てはまるのは、3つ目の「同志としての母−絆から離脱不能な娘」以外で全てであると思う。そして姉はこの3つ目の分類に当てはまると言えるかも知れない。子供の頃から「従者」、「永遠の罪悪感にさいなまれる娘」、「代理走者」、「芽を摘まれる娘」、「自立を奪われる娘」として生きていたが、これでは身が持たないと思い、距離を置いてうまく付き合う方法を大人になるにつれて学んでいくことで、自分の心理状態を最善のものにしていくことができたと思う。

私は前夫の死後、再婚をしたが、その後も残念ながら子供に恵まれなかった。夫が大変な子供好きなので、そのことを夫には申し訳ないという気持ちでいる。しかし子供を産めない女という悲しみの中で留まっているのではなく、これまでの人生の中で「女であるが前に人間でありたい」と必死に生きてきた精神を忘れず、働きながら懸命に勉強を続け、いつしか心理学の博士になっていた。博士号を取得した時、私はやっと人間になれたと思った。もう母からの中傷を気にすることなく、一人の人間として自分に自信を持って社会貢献し、堂々と生きる道を歩めると思ったのである。心理学の中でもユング派心理療法に最も関心を抱いた私は、ユング派の箱庭療法やイメージ療法を極めたいと思い、世界中を周り様々なワークショップに参加するようになった。教育分析を受け始めた頃、もうその頃は他界していた祖母や祖父の怖い夢をよく見た。母の怖い夢は見たことがあったが、祖父母が出てくる怖い夢は見たことがなかったので不思議に思っていた。特に祖母の夢で印象的だったのが、私が部屋の中で監禁されており、魔術のようなセラピーを行なっていて、自分は能力があるのに誰にも分かってもらえず、退屈をしている。外に出ようと思っても出られない。なぜなら門番がいて、その門番は半分死んだような祖母だというものだった。後でこの夢の意味も解明されることとなる。(続く)

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3年前