用語を変えれば子どもの権利が擁護されるのか?
日本共産党の「『離婚後共同親権』の拙速導入ではなく、『親権』そのものを見直す民法改正を」と題する見解(以下「見解」)では、「親権」という用語を親の子に対する責任を強調する用語に置き換えることを主張している。ところで、用語が変わらなければ、「単独か共同か」を論じることはできないのだろうか。実際には、用語を変えた海外から日本の単独親権制度についての懸念や家族法の不備が指摘されている。
用語の変更は子どもの権利擁護の立場からだそうだ。ただ、単独親権である限り、裁判所に行けば93%の割合で女性が親権を得る(全体でも85%)。この場合の子どもの権利は、母親の単独育児と父親の育児放棄の正当化を意味している。
共産党的に言えば、子どもの権利擁護は、両親ではなく「母親に育てられるのが子どもの権利」になる。この性差を語らずに、あたかもジェンダー中立であるかのように、養育費や面会交流について語るのは男女平等か。
ジェンダー不平等な単独親権で暴力が増えている
ところで、先の「見解」では、「『親は子を思い通りにする権利がある』などの認識が広く残るもとで『離婚後共同親権』が導入されれば、DV加害者は、『共同親権』を理由に離婚後も元配偶者や子への支配権を継続しやすくなり、子どもの権利への重大な侵害を引き起こす危険性があります」とある。
そもそも単独親権が性役割を婚姻内外かかわらず肯定する元凶だから、ジェンダーギャップから暴力が起きやすくなる、という一般論を置いておいても、こういうよくある主張には無理がある。
一つには、単独親権の現行法でも、単独親権者が子どもから親を排除できるという法的な根拠はない。実際こういった制約は、保護に関する別の法規定で現在も建前上は制約するしかない。つまり単独親権で暴力は防げない。現に家庭内暴力が起きるのは、もっぱら婚姻中の共同親権時だし、共産党が暴力が蔓延しているとして引いてきた数字も、DV、つまり家庭内暴力のものだ。
そして、DVも虐待も、単独親権制度のもとで年々過去最高を更新し続けている。つまり、単独親権制度に家庭内暴力の抑止効果はなく、あるのは男女間のジェンダーギャップを固定化再生産する効果に過ぎない。現状の数字をもとにDVを抑止しようと思ったら、親権制度以外の政策をてこ入れするのが筋で、親権についてはむしろジェンダーギャップを固定化する単独親権制度の改革を議論するのが本来だ。
制度の不備が親たちを争わせる
もともと日本の親の権利は、行政権力によってやすやすと制約される点で、海外に比べて著しく脆弱だというのは、研究者の間の一致した見解でもある。DVにしろ児童虐待にしろ、親は聞き取りもされないまま、保護措置のもと子どもと引き離されて、そのまま一生会えなくなる場合も少なくない。
子どもをなした両親には自分の価値観を子どもに伝える権利がある。海外では憲法や民法で親の権利の固有性についての規定がある。だからそれを制約するのには適正な法手続きが必要で、海外であれば裁判所が関与する。しかし日本は家庭内の社会的弱者の救済に国が関与してこなかっただけの話しだ。親権喪失や親権停止の数が少ないのは、国が「民事不介入」で家庭内への社会的弱者の保護を手控えてきたにすぎない。これから関与していくことが必要なら、逆に今はない公正な手続きが必要になる。
よく、子どもを連れて母親が逃げるのを「連れ去りと言わないでほしい」と反発する人がいる。しかし、同じ人に、夫が妻を殴るのを「DVと言わないでほしい」と言ったら怒るだろう。ジェンダー平等の観点から、ともに時代遅れにしていくべきことだ。
問題は、「子どもを連れて逃げるしか方法がない」ことで、手続きもなく子どもと引き離された父親(母親)も、子連れで別居するしかなかった母親(父親)も、ともに制度の被害者にほかならない。親の権利を無視した手続きの不備が、両者を争わせている。そして単独親権制度はこういった手続きの不備や自力救済を肯定してきた。誰が意図して争わせているのかに気づかない政党はジェンダー平等を語れない。(つづく。宗像 充 2021.6.29)
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