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5/5(水) 9:16配信
プレジデントオンライン
21年ぶりに再会を果たし、抱きしめ合う竹村ゆういさんの妹と実母(撮影=竹村ゆういさん)
前目黒区議会議員の竹村ゆういさんは、11歳のとき両親が離婚して以来、実母と21年間生き別れ状態にあった。なぜ離婚で親子の縁まで途切れてしまうのか。ノンフィクション作家の西牟田靖さんが聞いた――。
【写真】21年ぶりに再会を果たし、抱きしめ合う竹村ゆういさんの妹と実母
■大酒飲みの父親と嫁姑問題
「私と妹が『父親と一緒に住む』と言うと、母親は泣き崩れました。そのときの母親の姿か今も目に焼きついています」
竹村ゆういさん(前目黒区議会議員、37)は言う。それ以来、彼は母親と再会するまでに、21年の月日を要した。なぜそんなに長らく会うことができなかったのか。話をうかがった。
町工場が並ぶ、目黒区でも下町の雰囲気が漂う地域で生まれ育った竹村さん。父親は自宅兼作業場で金属を売り買いする仕事をしていた。母親は専業主婦、3歳下の妹がいた。離れには祖母や叔母が住む木造の別宅があった。
「男は仕事、女は家事育児」という、一昔前は当然とされた家族だった。父親は大酒飲みでヘビースモーカー。普段は優しいが手の出ることもあった。
父親は面倒見のいい人だったが、自分の思った通りのことを周りに求める傾向が強いこともあり、さらには気の短さから人と揉めることも少なくなかった。それは知人・友人に対してだけでなく、家族に対しても同じだった。
「圧のある言葉で追いつめてきます。わざと傷つけるようなことを言ってきたり、怒鳴られたり。異論は許されませんでした」
母親はよりひどい暴言、そして暴力を受けた。ゆういさんたちをかばっていたためだ。そこに嫁姑問題が追い打ちを掛けた。
■ついに母の身体が悲鳴を上げる
「『あんたは竹村家の嫁なんだから、うちのやり方にあわせなさい』ときつく言い、母の味方をすることはありませんでした」
母親にとってはつらい状況が続いていた。しかしそれでも彼女は家から出ていくつもりは毛頭なかったし、実際、それでも同居を続けていた。一旦、家を出たら、子供に会えなくなる。そのことがわかっていたからだ。
1990年代後半、金属の売り買いという家業が傾き出すと、父親は居酒屋を始めた。そのことが母をさらに追いつめていく。
「父はなぜか、早々に切り盛りを投げ出し、母親一人に任せきりにしたんです。それまでも、父親の言動、祖母の言葉に追い詰められ、それが積もり積もったことで、母の身体が悲鳴を上げました」
バセドウ病(自己免疫性疾患のひとつ。動悸や息切れ、手足の震え、疲れやすさなどさまざまな全身症状が起こる)に罹るなど、竹村さんの母は体調を大きく崩してしまったのだ。
■事前の「打ち合わせ」通り、母の前で父を選んだ
「あなたこのままだと壊れちゃうわよ。家から一旦離れてみたら? 」
見かねた保護者仲間が母親に声をかける。そのことで、母親は初めて、家を出ることを考え始めた。
竹村さんが10歳のとき(1993年11月)、母親は別居を決意する。身を寄せたのはアドバイスをくれた友人が所有する物件だった。
別居後、彼や妹が母親の元を訪れると、母親が健康を回復していくのを確認できたという。一方、父親は父親で居酒屋を一人で切り盛り。家事にも頑張るようになった。
両親の別居生活が1年続いた後である1994年11月。彼(当時11歳)は妹(当時8歳)とともに父親から、圧のある言葉をかけられる。
「母親と離婚することにした。おまえらがどっちに付いていくか決めていいぞ。ただし、母親と暮らすことになれば、学校も転校することになるし、友達とも会えなくなる。今の家にも当然住めない。よく考えて決めな。どっちと暮らしたい? 」
「……お父さん」
「じゃあそれを母親の目の前で言ってくれ」
そして1年ぶりに一家4人がそろい、近くのファミレスへ。
事前の打ち合わせ通りの会話が進行していく。
「おまえたちは父親と母親、どっちと暮らしたい? 」と父は兄妹に尋ねる。
「……お父さん」
二人はそう答えるしかなかった。
■母からの連絡はとことん遮断された
「母親が泣き崩れた姿が今も目に焼き付いています。そして、子どもたちの言葉に観念したのか、父親の言うことに静かに頷くばかりになっていました」
その後、母親は手紙を出してきたり電話をかけてきたりして子供に会いたがった。その都度、電話ごしに夫婦ゲンカに。手紙も読ませてくれなかった。父親は子供たちと母親との縁をとことん遮断し、さらには毎日、母親の悪口を言った。
そんな父親だが、母親に対する悪口を言い続ける一方で、それまでやっていなかった家事を必死で頑張るようになっていた。
「父親なりに、シングルになってダメな親だと思われたくない意地みたいなものがあったんだと思います」
■中1のとき「新しい母親」ができて…
兄妹が平穏だったと思った生活は長く続かなかった。別居後、一人で切り盛りしていた居酒屋の女性客が自宅に入り浸るようになったのだ。
「『お前らが成人するまでは結婚しない』と話をしていたのに、父親はその女性と再婚を決めたんです。『私が新しい母親よ』って言われても、受け入れることはできませんでした。当時、中1だったんですが、これからどうなっていくんだろうって思いが浮かんできて、勉強しても集中力が続かないんです」
妹は、家が落ち着ける環境でなくなってしまったことも影響してか、保健室登校することも多かったようだ。
そのころも、実の母親からは電話はかかってきていた。しかし父親が出ることはなかった。母親からの電話を継母に受けさせるようになったからだ。
「竹村家の母親は私です。あなたはもう母親じゃないんだから二度かけてこないでください」
継母はそういって遮断した。
そのうち、継母の娘が引っ越してくる。父親は父親で、竹村さんが継母やその娘と仲良くしてくれないことに腹を立てた。竹村さんと妹は、父親や継母、その娘と距離をおき家庭内別居をするようになる。
親子関係がこじれにこじれた竹村さん。大学卒業を機に父親と継母の元を離れた。そのとき、妹を連れて行った。両親の代わりを彼がすることにしたのだ。
家から出て、父親と距離を置いた彼は考え、そして悟った。
「人は簡単には変わらない。だったら、自分の受け止め方を変えて相手の反応が徐々に変わっていくのを期待するしかない。遠回りのようで、それが一番の近道なんじゃないかなって思いました」
決意した彼はつらい気持ちを克服し、その経験をプラスに受け取り、人として成長していく。そして次第に決意を固めていく。
「つらい幼少期をすごした離婚家庭・DV家庭の子を助けるために、将来はスクールカウンセラーになろうって」
■転機は別居親の交流会
27歳のとき(2011年)、彼は目黒区議会に無所属で立候補した。つらい子供たちを助けるという思いは政治への思いへと転化していた。
「もしかしたら母親が見てくれているんじゃないかという思いもありました。見ていなかったのか、母親からの連絡はありませんでしたが」
落選だった。しかし、そのことがきっかけで彼の運命は思ってもみなかった方向へ転がっていく。
近い志を持った議員に誘われて議員秘書となった。
その4年後である2015年、議員秘書の立場で、別居親(子供に会えない親たち)の交流会に、その議員に誘われて参加する。その場で彼と妹は、子供の立場ではなく子供に会えなくなっている親たちのつらい生き様を知る。
「二人して『父親と一緒に住む』と言ったことで、母親は泣き崩れました。そのときの母親の姿を急に思い出して、妹と二人で涙を流しました」
今まで記憶にフタをしていた子供に会えなくてつらい思いをしている母親の存在、そして母親のつらい気持ちを、彼と妹がようやく理解した瞬間だった。
■母は声変わりした息子の声を聞いて…
同2015年に目黒区区議に晴れて当選する。
さらに翌年2016年、彼は母親探しを始める。戸籍を確認すると、転居先は隣の品川区にある宗教施設だった。
品川区の出張所に行って開示を請求すると、開示された住所と、そこに紐付いた電話番号がわかった。
施設に電話をかけると、すぐに共通の知り合いが見つかった。その方が幸い仲介をしてくれることとなり、携帯電話番号を託した。そして彼が戸籍を辿り始めてから1週間後、一本の電話がかかってきたのだった。
「知らない電話番号でした。しかし、番号を託していたので、母親からじゃないかと期待して、出ました。数秒間沈黙した後、相手は言いました。『ゆういなの? 今そんな声なんだ』と」
11歳のとき生き別れとなったため、声変わりした後の息子の声を母親は知らなかったのだ。母親はその後言葉を継げなかった。彼は言った。
「お母さんを探し出すのがこんなに遅くなってごめんなさい」と。母親は電話口で泣き出した。泣きながら、「会いたい」と言った。ゆういさんはもちろん快諾した。数日後の週末だった。
■21年ぶりの再会
約束の日曜日、彼は妹と二人で、待ち合わせの駅に出向いた。ゆういさんも妹も母親の顔は覚えていない。母親にしても、大人になってからは自分の子どもたちに会っていない。お互い会ってみてわかるのだろうか。
彼の心に不安がよぎったところで、待ち合わせ場所である駅前広場の近くまで来た。すると、まだ100メートルほども離れているのに、手を振られた。それは60歳ぐらいの白いコートを着た女性だった。手を振られた途端、遠目から、母親だとわかった、という。
「母親はいきなり妹に抱きしめて、泣き崩れました。泣き崩れたといっても、親子4人で会ったあの日とは違いました。うれしくて泣いていたんですから」
その後、三人で近くの喫茶店に入った。
「私は母親と時間を埋めるように話をしました。母親は幾度となく家の前に行ったけど、家の中に入れず、結局会うことができなかったこと。突然、家が取り壊されて音信不通になってしまったこと。その後、再婚して二人の子供を産み育てたこと、子供が成人した今はお弁当屋で働いていることを」
母親は言った。
「今日11月29日は何の日かわかるかい」と。
二人が答えられないのを見て、「そうか 覚えていないんだね」とすこし残念そうな顔をして、強調するように言ったという。
「離婚届が受理された日だった。この日を忘れたことはなかったのよ……」と。
翌2016年の結婚式に母親を呼ぶこともできたし、翌年産まれた息子を抱かせることもできた。働いている弁当屋にときどき出かけてその都度顔を合わせている。
■別れても親だというコンセンサス
「翌2017年には子供が生まれました。親になって初めて、親としての喜びと苦労を知ることができました。そして改めて思いました。母親だけでなく、父親も子供と向き合おうとしていたんだと。父親にしろ、母親に強く当たった祖母にしろ、限られた情報、当時の常識の中で判断して、頑張っていただけです。不器用だったんです」
彼は、父親と和解。議員を志す彼を、応援してくれているというのだ。
和解しているといってもやはり原因は父親ではないのか。父親が邪魔しなければ、母親との縁は21年も切れなかったのではないか。もっとはやく会えたのではないか。
「“離婚したら親子の縁が切れるもの”だと思っていたので、子どもの頃は別れた母親に会いに行こうとする行為すら悪いことだと考えていたんでしょうね。そんな少年時代を過ごしていたからか、成人してからも母親を探そうとすらしませんでしたし、長すぎる別居生活の中で自分の中の母親という存在がよくわからなくなっていました。離婚前後のゴタゴタが嫌な記憶だったので、無意識のうちにフタをしていたのかもしれません」
別れていても一緒に育てるというのが諸外国同様、社会の常識となっていれば、母と生き別れになっていなかったのではないか。
「過去は変えられません。それに、自分の思うとおり、人を変えることもできません。でも、未来は変えることができます。今後、別れても両方の親が子供の成長に関わっていけるような未来にしていきたいです」
■親子の別離を法的に考えると
最後に聞いた。母親と再会することにどういう意味があったのかと。
「あの時の母親を分断するような発言に改めて謝れたことそれは良かったです。お母さんごめんって言えましたから。だけど申し訳なかったって今もずっと思っています」
竹村さんは、つらい過去と向き合い、そして明るい未来を作り出そうとしている。
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こうした親子の別離を放置したままでいいのか。別居親を支援している弁護士の松野絵里子さんに、法的な観点について聞いた。
――離婚後、同居親の意向で、子供が別居親と会えなくなるケース。これは子供の権利を侵害していませんか?
子供の人格権の侵害にあたります。こうしたことがなぜ起こるのか。それは日本の離婚のほとんどが協議離婚で決まってしまうからです。離婚時にきちんと取り決めをするべきですが何も決めずに別れるケースが実際は大多数ですから。子供と別居している親は、同居親のいう通りにするしかなくて、親子の縁を諦めてしまうことがままあります。
――日本における子供の権利は弱すぎるのではないですか?
未成年の子供は親の庇護の元、暮らしている訳ですから、親よりもさらに立場が弱くなりますよね。そうして人格権がいとも簡単に侵害されてしまうのです。竹村家が離婚した1994年当時、民法766条に「面会交流」の項目はありませんでした。なのでなおさら子供が別居親と会うことが困難でした。
――では今後、どのようにしていくべきでしょうか?
別居時から司法介入をして司法が子供の権利を守ること、協議離婚においても同じく司法が子供の権利を守るチェックをする法整備が必要だと思います。個人的には離婚後の共同親権制度を法改正で可能にするべきだと思います。
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西牟田 靖(にしむた・やすし)
ノンフィクション作家・フリーライター
1970年、大阪府生まれ。神戸学院大学法学部卒。離婚を経験し、わが子と離れて暮らす当事者となって以来、子どもに会えない親、DVや虚偽DVなど、家族をテーマにした記事を雑誌やウェブメディアに執筆。著書に『僕の見た「大日本帝国」』、『誰も国境を知らない』『本で床は抜けるのか』など多数。18人の父親に話を聞いた『わが子に会えない 離婚後に漂流する父親たち』(PHP研究所)を2017年に出版。『16人の母親に話を聞いた『子どもを連れて、逃げました。』』(晶文社)を2020年に出版。
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ノンフィクション作家・フリーライター 西牟田 靖