欠端大林2021.4.18 11:00AERA#AERAオンライン限定
東京・新橋で演説する橋本崇載さん(写真/欠端大林)
東京・新橋で演説する橋本崇載さん(写真/欠端大林)
藤井聡太二冠の台頭で、話題にこと欠かない将棋界。若手棋士たちが台頭する一方で、この春、ひとりの人気棋士が現役生活に別れを告げた。
【写真】藤井聡太は「一人だけ小数点第2位まで見えている」と語った棋士はこちら
日本将棋連盟が、橋本崇載八段(38)の現役引退を発表したのは4月2日のことである。
前年10月から「一身上の理由」により休場、公式対局から遠ざかっていた橋本八段であったが、引退に至った理由は妻との子どもの親権をめぐるトラブルなどでの体調不良だった。
「すでに駒や棋書は知人の愛棋家に譲り、私の周囲に“将棋”はありません」
そう語るのは橋本さん本人である。
引退を公表後、橋本さんは自ら開設したYouTubeチャンネルなどで経緯を説明するなど、その活動内容に注目が集まっている。
引退規定に抵触しない――別の言い方をすれば、引退する必要のない現役棋士が、自らの意志で将棋界を去るのは極めて異例のできごとである。
■極めて珍しい30代引退
橋本さんは、名実ともにトップ棋士として認められる順位戦A級(定員10名)に在籍したこともある実力者として知られるが、まだ30代という年齢での自主的な引退は、長い将棋界の歴史においても1988年に将棋連盟を退会した永作芳也元五段(当時33歳)の例があるだけである。
橋本さんはなぜ引退を余儀なくされたのか――詳細な経緯はご本人の動画チャンネル等に譲るとして、ここでは大まかな流れを整理しておこう。
橋本さんは2017年3月、交際していた30代女性と結婚し、19年3月に第一子となる待望の息子を授かった。橋本さんによれば、その後、育児をめぐる肉体的、精神的な疲れが夫婦ともに蓄積したこともあり、些細なことがきっかけで妻とLINEで口論することもあった。
7月18日、「一緒には暮らせない」という書き置きを残し、妻が生まれて4カ月の息子を連れて暮らしていた家を出てしまう事態となった。橋本さんは、この一連の行動を「連れ去り」と話した。
■「もう将棋を指せない」
橋本さんはその後、弁護士を立てて妻側と争うことになったが、離婚調停は成立せず。心身に不調をきたした橋本さんは対局ができない状態になり、20年10月から公式戦を休場。そして21年1月には婚姻費を求める妻側からの債権差押命令が将棋連盟に届く。
「最終的に私が棋士引退を決意したのは今年の2月ごろだったと思います。将棋連盟理事の森下卓先生は、最後まで引退届を保留扱いとし、ぎりぎりまで説得してくださいましたが、もう将棋を指すことはできない、これ以上連盟に迷惑をかけられないという私の気持ちが変わることはありませんでした」(橋本さん)
以来、2年近く息子とは会えていないと言う橋本さんだが、いくつかの疑問は残されている。
ひとつは、夫婦の関係を修復することはできなかったのか。そしてもうひとつは、後戻りできない「棋士引退」という重い選択を回避することはできなかったのかという点だ。
家庭内における不和については、互いの言い分があるだろう。どんな夫婦にも程度の差はあれど、口論程度の夫婦げんかはしばしば起きる。それがなぜ、離婚調停に発展してしまったのか。
「それまでの結婚生活を振り返ってみて、毎日のようにいさかいが絶えなかったとか、他の夫婦と比較してとりわけ不仲であったということは決してありません。たとえけんかをしても、生まれたばかりの子どももいるわけですから、互いに歩み寄って問題を解決すべきだと思いますし、私も当初は離婚など考えたこともありませんでした」(橋本さん)
■引退する必要あったのか
4月11日には東京・新橋で親権についての演説を行った橋本さん。駒をマイクに持ちかえて、ときに激しい口調を繰り広げる橋本さんの姿に、戸惑いを覚える将棋ファンもいるかもしれない
「私の暴走はいつものことですので(笑)、将棋ファンはあまり驚いていないんじゃないですかね。でも、私はもう死ぬか、死ぬ気で戦うか、どちらかしかないわけですから、何を言われようと戦います。たとえ子どもの親権を取り戻せなかったとしても、私と同じ境遇に置かれ困っている全国のお父さん、お母さんがいるし……戦う意義はあると思っています」(橋本さん)
もうひとつの疑問について聞こう。確かに本人にとっては切実な問題だったとはいえ、棋士を引退する必要はあったのだろうか。
成績が落ちて、規定によって引退しなければならないのであれば仕方がないが、橋本さんの場合は、しばらく休場し、問題が解決したらまた対局に復帰する道は残されていた。現に、将棋連盟も引退について慎重に考えるよう促していたのである。
他のプロ棋士と同様、子どものころから将棋一筋に生きてきた橋本さんは、うつむき加減に視線を落とした。
「これは私と同じ経験をした人がみな言うことですけれども、夜はいいんですよ。朝になるとつらくなる。むなしさと孤独と倦怠感が襲ってくるんです。いまの私の実力は、奨励会初段もないでしょうね。もともと気持ちで指すタイプでしたから、いったん魂が抜けてしまうと厳しいんです。たまに解説に呼ばれ、藤井(聡太)君の指し手を絶賛しながら、自分はいま何をやっているんだろうかと自己嫌悪に襲われる。本当に辛かったです」(橋本さん)
橋本さんは11歳のとき棋士の養成機関である奨励会に入会。16歳で三段リーグに初参加、18歳でプロ棋士となった。これは、中学生で棋士となった羽生善治九段、渡辺明名人、藤井聡太二冠ら伝説級の棋士たちと比べればやや遅く見えるものの、将来タイトルを取るような棋士が描く、鮮やかな昇段の軌跡である。
その後も順調に才能を発揮し、12年度には順位戦A級に昇級。また竜王戦では最上位の1組在籍10期の実績を残した。
盤外においても、普及を兼ねた将棋BARを経営したり、奇抜な衣装や全国放送されるNHK杯でのインタビューが話題になるなど、型破りな棋士として知られ、ファンも多かった。
「いま、将棋界は研究にAIが導入されていることもあって、実力を維持するのに大変な労力がかかる時代になりました。このような家庭の問題を抱えながら将棋を指して、勝てるような時代ではないんです。休場する前の1年間は、ほとんどプロとしての将棋になっていませんでした。対局中にも心労が押し寄せ、注意力が極度に散漫になり、自分の手番であることすら気づかないこともありましたから」(橋本さん)
■行儀は悪いが将棋は強い
橋本さんは15年、将棋連盟の理事選に立候補し、落選したものの次点の得票数を得ている。保守的な将棋界において、連盟執行部批判をも辞さない言動が物議を醸すこともあった。
しかし、良くも悪くも品行方正な優等生棋士がほとんどを占めるいまの棋界において、行儀は悪いが将棋は強い、一匹狼の「ハッシー」を愛する昔ながらのファンが多かったことは、まぎれもない事実である。
「ルールを覚えてから30年、棋士になってから20年間続けてきた将棋ですが、1年間、苦しみ抜いたうえでの結論ですから、自分のなかで未練はありません。いま、将来のことは何も分かりませんが、もし私にできることがあって、少しでも喜んでいただける人がいるのであれば、今後、何らかの形で将棋とかかわっていくことがあるのかもしれません」(橋本さん)
かつて、将棋界は「無頼派」と呼ばれる棋士たちの巣窟だった。
棋史に残る対局拒否騒動「陣屋事件」の主人公となった升田幸三元名人。天才棋士と呼ばれながら、舌禍・筆禍事件の常習者として知られ、51歳の若さで世を去った芹沢博文九段。作家・山口瞳をして「乱坊」と言わしめた米長邦雄永世棋聖(元将棋連盟会長)など、俗世間の物差しではとうてい測ることのできない男たちがひしめき合いながらも、異端児を内包する鷹揚な気風は、勝負の世界の怪しげな魅力とマッチし、ファンもそれを受け入れた。
だが、時代は確実に流れた。
いわば数少ない「無頼派」の生き残りとも呼ぶべき橋本さんの引退は、将棋界にとって幸か不幸か。その答えはもう、必要ないのかもしれない
(ライター・欠端大林)
※AERAオンライン限定記事