ダンの子育て日記第7回 生命の尊さ

私の場合は調停委員の一言のおかげで、思い止まる(親子心中)ことができました。

連れ去り後、子供に会えない辛さは尋常ではありませんでした。

調停・裁判が始まり、月に一度しか会えない面会交流。今までの様に毎週日曜日に朝から晩まで一緒にいられない辛さから、もうこの子は戻ってこないんじゃないかと何度も思いました。いっそ連れ去ろうか?一緒に死のうかと思った事は何度もあります。せっかく産まれてきた大切な命だと気持ちを押さえました。精神的な不安は体調にも円形脱毛症に2度(連れ去り直後、和解調書作成時)かかりました。

「子供が産まれる前からのエピソード(一部)」 (裁判提出書面より)

私は、再婚し46歳で子供に恵まれ嬉しかった。
母親は妊娠8ヶ月目までは堕す(産まない)、理由は「仕事に復帰した時にブランクがある、仕事についていけない」と。私と母姉が説得し産むことに。
出産には一緒に分娩室に入り、子供の名前は私が決めました。

産まれてから3ヶ月が経った夜中、私が寝室に寝ているとドアの閉まったリビングから母親が大声で「何で泣き止まねえんだクソガキ」と大声で泣きじゃくりる子供を羽交い締めにして何度も何度も大きく揺すっていました。子供の口からは泡のようなものが吹き出ていました。慌てて母親から子供を奪い返し朝までソファーで子供と2人で寝ました。もう少し奪い返すのが遅かったら最悪の事になっていたかもしれない。

「先天的に異常だ」

翌日から子供の寝付きが悪かったり、ミルクを飲まなかったり、後にハイハイが上手くできない時に子供と私に母親は「先天的に異常だ」と、何度も「先天的に異常だ」と言うので尋ねると私が歳老いてから授かった子供だから先天的に異常(精子異常)なんだと言われる。

毎日考えれば考えるほどショックで眠れなくなりました。

病院に行き相談すると睡眠剤を処方してもらいました。(診断書あり)
何か事あるごとに先天的に異常だと言うので、本当に自分が原因で子供に迷惑がかかるのなら可哀想だと思い、産まれた病院に行って相談する事に、もう一つ気になったのは産まれて間もないときに母親から受けた強い揺さぶりによる後遺症かもしれない。子供の産まれた病院に1人で行き、看護婦さんから出生証明(写真あり)を見ながら説明してもらい「異常はありません」と励まされ安心し涙が出ました。(異常がある発言は4歳頃まで続きました。)

この頃(子供1歳半)には母親との話し合いで子供が小学校に入学するまでは育てます(母親)それ以降は(父親)お願いします。と約束していました。小学校まで「ガマン」だと自分に言い聞かせる。一緒にいない事で母親のストレス軽減になり子供に対するバッシング(モラハラ)もなくなるのではないかと思い私の休み全てを子供と2人で出かけることしました。
産まれて8ヶ月後の初節句に2泊3日で帰省する際も2人で飛行機に乗る。子供は飛行機に乗るのが初めてだったので大泣きをして大変でした。実家には片手に乳飲み子、片手に紙オムツ、肩からバックを背負っての帰省でした。

動物園・映画館・運動施設など遊びに行くも父親と2人では楽しいことも大変なことはありました。当時のトイレは今とは違って不便で多目的トイレは余りなく。デパートのトイレの中の通路は狭くベビーカーは外に置いて、ましてやトイレにチャイルドシートの設置も余りなく。私が用を足すにも抱えてでした。オムツ交換所の奥は授乳室になっていても父親1人と子供だけだと女性の冷ややかな視線が気になりお尻を拭いたか拭かないかぐらい焦り変えていました。あそこに行けばレンジありミルクも丁度いい温度のお湯をもらえるのに羨ましかったです。

当時は変わりばんこに子供を預けトイレに行く夫婦を憧れて見ていました。
外でのおしっこトレーニング、最初の頃はズボンにおしっこをかけていましたが徐々に習れ、横に立って同じようにするんだよと言いながら教えました。
縁はあるものです。現在通っているプログラミング教室の横にある「肉の万世」が当時の要望に全てを叶えてくれました。食事に飽きても走る電車を見て一休み、トイレも広く、椅子に座って食事ができます。時々ですが教室の授業の合間に行って食事をしながらその時の話をしています。

保育園の時はダンス教室に通っていました。小学校になったらサッカーを始めるので年長3月末をもって終了となります。年に一度の発表会が3月末にあり、子供も先生も卒業発表会(最後)だねと言って練習していました。発表当日、母親は見に来ていません。子供は発表会が始まるギリギリまで母親を探していました。他のお友達はみんな両親が来ていたから余計に寂しかったと思います。発表会が終わってから先生に元気なかったねと言われたのを聞いた時は私も悲しかったです。発表会の為に家でも教室から借りたDVDを見ながら練習し母親に見に来て欲しいとお願いしていたから、余計に辛く悲しかったと思います。(ダンス教室送り迎え父60回・母2回迎えのみ/サッカー練習見学父15回・母1回)

週に何度か子どもと母親の夕食を私の経営している店で用意し、特に自家製ビーフシチューを好んで食べていました。「お肉を食べるならお野菜も食べるんだよ」と少しずつですが野菜も食べるようになりました。食べ終わると店の外で遊び、保育園・小学校で今日何をしたのかを聞くのが楽しみでした。

母の日

4歳の時に友達の頭を積木で殴り出血しました。保育園から呼び出しが来た為、母親が迎えに行きました。翌日のお迎えに母親が迎えに行くのを私に代わって欲しいといってきたので行きました。

丁度、翌日が母の日。子供に母親が昨日の事で悲しんでいると話し、元気になってもらおう。そこで保育園のお迎え帰りに母の日カーネーションを買って子供にサプライズで母親に渡してもらうことにしました。その時に「昨日はごめんなさい」と言うんだよと。

母親は前日の事もあり涙を流して喜んでくれ、私に「ありがとう」と言ってくれました。

それから小学校4年生まで毎年同じ花屋さんで買い、4年生の時には子供のお小遣いで買わせるまで成長しました。花屋のおじさんに褒められた照れくさくしていたのが可愛かったです。

母親・子供の誕生日

同居時は食事または旅行に一緒に行き祝っていました。連れ去り(小学校1年)から小学校4年までは子供に母親の好みの物を選んでもらい子供からプレゼントとして渡す様にしていました。
人に対しての感謝と思いやりを持ってもらいたかったから毎年買って母親に渡していました。
私の誕生日、父の日は家族で(母親.子供)のお祝いを一度もしてもらったことはありません。

幼少の頃から毎年4〜5回旅行に(ほぼ父子2人で)行っていました。保育園年長の夏、9泊10日親子(父子)2人旅に出かけた時の事です。この旅行で一つ一つ経験させ観察できた事で子供の成長を感じるとともに『先天的に異常な子』ではない、他の子と変わりがないと確信しました。子供は今もその旅行の事を覚えていて話す時があります。(乙39号証:年間スケジュール)

保育園の先生には毎年相談に行き年長父兄懇談会時は担任、園長と学年主任の先生に相談しました。学年主任から「先天的な異常はないですよ」「大丈夫ですよ」と言っていただけたのでやっと安心し卒園しました。

小学校入学式

無事に入学式を終え、お祝いに店を休んで椿山荘でお祝いの食事をしました。その後、庭園に出て散歩をする時、私が3人で手を繋ごうと話したのですが母親が道が狭いから止めよう。狭い道もあれば広い道もありました。数日前に子供と2人でスカイツリーに行った時の事です。子供の目の前に映る姿は他家族はみんな手をつないで、真ん中の子供はぶら下がったり甘えたりしているのを見て寂しがっていたから尚更だったのかも。

小学校の手続き・習い事(公文・英会話スクール・サッカー)の手続き/体験は私と子供の2人で行き決めました。連れ去りから数ヶ月後に子供がサッカークラブの友達に会いたいと言うので、練習グランドに行き少し遊び、友達から「また遊ぼう」と言われた時には涙を流しさようならを言って帰りました。サッカー練習後に「反省会」と言って毎回行っていたケーキ屋に行き好みのシフォンケーキを食べているうちに笑顔が戻ってきたので安心して送り帰しました。6年後、中学になった子供は自分の意志で学校のサッカー部に入部。練習のことをよく話し相談してくれます。先日、 足が疲れたと言うのでストレッチの方法、湿布の貼り方を教えました。

子供が小学校に入学、母親に以前から決まっていた離婚の話をしました。
3か月後、子供が連れ去られました。

上述の記載(一部)の様に成長する子供と共に生きてきました。連れ去り当初は子を思う度に辛かったです。調停が始まり月に1回の面会交流。調停委員から「お子さんはお父さんと会う事で安心できると思います。守ってあげられるのもお父さんです。」胸に刺さりました。安心させ守ってやらなければいけない。何度も考えた事はあります(親子心中)その度に調停委員の言葉を思い出し踏みとどまることができました。
3年後、裁判和解調書において月2回の面会交流により共同養育に近い形を取ってくれたおかげで、間近で子の成長を楽しんで見ています。将来子供と一緒に暮らせればとおもい日々を過ごしています。

追記

父親が日常茶飯事的に育児に携わり、調停・裁判資料として提出しても今の日本の司法では連れ去られた子供が戻ってくることはほとんどありません。
連れ去り者勝ち、どう考えても納得できません。

3年前