子どもが、家の中でひとり、夜に目覚める~シングルマザーの夜の外出

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200912-00197892/

 

■シングルマザーが夜、小さな子どもを寝かしつけた後

最初はいつものように読み飛ばした記事だったが、何日かたつと思い出し、その内容がヒリヒリと突き刺さってきた。

それは、シングルマザーが夜、小さな子どもを寝かしつけた後、彼氏の家に泊まりに行ったり生活費のために仕事に行くという平易なルポルタージュだ(夜、子どもを寝かしてから「家を出る」シングルマザーふたりの言い分)。

1人は小6と小1、1人は小1の子どもを働きながら育てている。働きながら育児する、その苦労は本当にたいへんだろう。

登場する2人のシングルマザーのうちの1人は、子どもを寝かしつけたあと外出することに対して、こう語っている。

 とはいえ、深夜、子どもだけが家に居て、朝食時、母親が居ないことが常態化していることに、いささかの不安もないのだろうか。

「もう、子どもたちも、この状態で慣れていますから。何かあれば、彼のマンションに子どもたちがやってきます。これから子どもも大きくなっていくので不安はありません」

出典:夜、子どもを寝かしてから「家を出る」シングルマザーふたりの言い分

この方の気持ちも共感することはできる。なにより、僕の日々の面談支援の仕事にこうした親御さんが現れた場合、こうした方々のつらさや愚痴を聞くことになる。

そして、現在の社会システムの不備(上記事で後半にとりあげられる夜間施設の不備の問題)を、目の前の母親とともに嘆くだろう。

■ネグレクト(放棄)やヤングケアラーの問題も

ただ、保護者支援も僕はする一方で、児童虐待も含んだ貧困支援のスーパーバイザー(現場スタッフへの助言)的仕事も日々行なっている。そのスーパーバイズのなかでスタッフから上がってくる事実に関して、いつも心がけているのが、「子どもの視点」ということだ。

その視点からこの記事に関して、Twitterで僕は以下のようにつぶやいてみた。

子どもの視点というよりは、ネグレクト(放棄)やヤングケアラーの問題も含めて、この「シングルマザーが夜出かける」ことについて切り取った。

このつぶやきの背景には、「女性の生き方」を前面に出した上引用記事(「夜、子どもを寝かしてから~」)に不足していると僕が感じた、「夜、ひとりで目覚める子どもの不安」を念頭に、それにまつわるいくつかの社会問題をツイートしている。

もちろん、そのようにして子どもが不安になる前に、経済的な問題を安定させておかないと、「飢え」の問題が子どもに押し寄せてくるかもしれない。

また、子どもの不安の前に、そもそもその母が精神的に安定しないと(その安定を与える行為のひとつが恋愛)、シングルマザーの家族そのものが精神的に追いこまれていくこともあり得るだろう。

だからこそ、なのだろうが、上引用記事では、夜の学童保育を超えた提案(学校の宿直室の利用)をしたりして、社会的リソースの充実を訴える。

■「子どもが、家の中でひとり夜に目覚める」悲しみと深刻さ

記事では、日本特有の「単独親権」という親権問題がもつ理不尽さには踏み込まない。よくある、単独親権をやめて共同親権を目指し、また子どもの養育も「共同養育」を目指そうという論旨にもならない。

僕は、当欄でもたびたびとりあげてきたように、共同親権システムになればいいと思う。

それへの移行過程として、「共同養育」の工夫を第三者機関(たとえば一般社団法人「りむすび」など離婚を決めたとき夫を憎む妻が陥りがちな誤解 元夫と「協力し合う」新しい子育てのコツとは)とともに模索すればいいとも思う。

ただ、自戒も込めて書くと、こうした事態(シングルマザーが夜、子を置いて外出せざるをえない社会状況)を考える時、1.シングルマザー自身の事情と苦境、2.子どもを預ける施設や機関がない、3.(記事にはないが)そうした事態を生み出す単独親権という社会システム等、その事態を生み出す仕組み自体に議論が集中してしまう。

1.は、女性の生きづらさの問題、2.は支援リソース(資源)の問題、3.は社会システムの問題であり、それぞれ、フェミニズム(1)や社会福祉(2)や政治(3)の議論が背景にある。

そして、こうした重層的な議論の中に、不思議なことに、

「子どもが、家の中でひとり、夜に目覚める」

という事態の、悲しみと深刻さが差し挟まれない。

このような現象、ある事態や出来事に関して、子ども自身が直面するリアルな心境は、なぜかいつも後回しにされ、その周辺のあり方(親や社会資源や社会システム等)に言及されて終わる。

不思議なことに、子ども自身が置かれた苦境について、記者も含めた周辺の大人は、「子どもは苦しむ」とか「子どもが最大の被害者」とさらっと流しながらも、そのたいへんさや被害のリアルな実態まではいつも言及せずに終わってしまう。

■子どものこころを想像する「倫理」

一度、我々はきちんと想像する必要がある。

さっきまで母親と談笑し入浴し歯を磨き絵本を読み、いつのまにか寝た。が、何かの拍子で深夜0時頃に目覚めたものの、横にいるはずのない親がいないことを暗闇のなか感じてしまった、子どもの不安を。

小学1年生であれば言語獲得はしているだろうが、その言語表現は、まだ周辺の大人の真似と反復から成り立つ。

周辺の大人(主として親)からすると、一見しっかりした言葉遣いをするようになった我が子に対して、その言葉遣いをもとに我が子は自己確立したと勘違いするのだろうが、それは、自己確立したと親に見せかけることで親に合わせ、親が望む子ども像をその子なりに演じ反復しているということだ。

子どもは、10才頃までは、親の真似をし、親に気に入られつつ自己をゆっくりと確立していく、反復しモノマネする生命体だ。

そんな不安定な生命体が、安心しきって寝た自分のその横に、いっしょに寝ているはずの母親がいないとわかって愕然としてしまうその圧倒的な不安を、我々大人は想像する倫理がある。

そう、子どもの真夜中の圧倒的な不安を想像することは、大人側の「倫理」だと思う。

4年前