男の「力」を怖れる女~男性不信の最深部

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200828-00195372/

 

■その葛藤が「DV」として成り立つには、夫婦間の長年に渡る不仲や信頼の破壊が必要となる

夫婦の諍いが長く続き、その過程では、物理的暴力がなくとも言葉による心理的暴力は普通に溢れていたりはする。

ただそうした言い争いの現実は、「夫→妻」だけではなく「妻→夫」も含まれる。児童虐待と同様、無視(ネグレクト)することも、双方から普通に行なわれる行為だ。

なかには、夫による身体的DVが積み重なる典型的なDV事案もある。けれども、そこに入らない、夫婦喧嘩の一環としてのそうした心理的諍いは、それが被害側が(弁護士からのアドバイスによって)「DV」として意味づけされない限りは夫婦喧嘩の一コマとして収まることが多いだろう。

「虚偽DV」とは、そうした夫婦喧嘩のなかの一コマを「DV」として意味づけ法的証拠に仕立て上げるものもあれば、まったくそうした喧嘩はなく「ある日起こった珍しい言い争い」をピックアップして拡大し、被害案件としてそれに仕立て上げることもあるだろう。この虚偽DVを根拠として生じる「子どもの拉致/連れ去り」の非情さについては当欄でも度々とりあげている(たとえば、「DV冤罪」~昭和フェミニズムの罪)。

警察へのDV相談は年間8万件近くあり、ここに虚偽DVがどれだけ含まれるか含まれないかはわからない。ある調査では、離婚の原因は「性格の不一致」が1位だが、2位以降に暴力を匂わせる項目は含まれている(【令和版】離婚原因ランキングトップ10)。

実際の「出来事」(夫婦間の葛藤的な事象)が、「DV」として成り立つには、夫婦間の長年に渡る不仲や信頼の破壊が必要となる。そうした不仲や信頼の崩壊があって初めて、出来事はDVという法的事象へと意味づけさせられていく場合もある。

離婚の原因をアンケートしたとして、おそらく当事者たちには明確な答えがないものが多いだろう。長年に渡るディスコミュニケーションのため現実問題としての離婚にいたり、籍を抜いたほうがメリットがあるというような現実的判断に至る。

僕も20年ほど保護者支援(面談)を行なってきたが、不仲な夫婦が離婚する(しない)場合は、ほとんどがそうしたメリット/デメリットが判断材料となっていく。

■「泣けばいいじゃないですか」

DV相談のうち2割は、妻からの暴力が含まれる。8割は夫からの暴力であるものの、通常「DV」と聞くと、人々は「夫から妻」への暴力だと連想するだろう。言い換えると、「男から女への暴力」は連想しやすいものである。

子ども拉致の被害にあい(別居に追い込まれた)親は、拉致こそが児童虐待であると主張する(たとえば、親による子どもの誘拐(連れ去り)は児童虐待です)。僕も同感だ。当欄でもとりあげたように、拉致される側は、父だろうが母だろうが、日々悲しみの涙を流している(「パパ、神経衰弱しよう」~連れ去られた親の「抜け殻」感)。

だが、拉致する親側や、拉致までいかずとも離婚後子どもと同居することになった親は、いずれも母が多いが、そうした別居親(父が多い)の涙までには想像力を広げないようだ。

中には「泣けばいいじゃないですか」と冷たく突き放す母親もいる。

現実としては、DVは存在する。また、それを利用した虚偽DVも存在する。虚偽DVを根拠とした「子どもの拉致」も存在する。拉致された結果、涙を流す別居親(父が多い)も存在する。

そして、その涙をスルーできる、拉致した同居親(母が多い)もたくさん存在する。

それらが現実なのだが、僕が不思議に思うのは、

1.別居親(主として父)の「涙」を知っているのにスルーできる同居親(主として母)のあり方

2.こうした一連の事実(DVは存在するものの虚偽DVも多くあり、その結果「拉致」が日常的に起こり拉致された別居親は日々涙する)を知りながら、なお別居親(主として父)を疑う、多くの人々の視線だ。

■「男性の存在自体がDVみたいな時代」

1は弁護士費用も含め苦労してきた結果の離婚なので、同居親はスルーできるのかもしれない。上に書いたような、長年に渡る不仲と不信の結果、元夫(妻)が子を拉致されどれだけ涙を流そうが関係ない、という心境になるのかもしれない。

僕がより不思議なのは、2の人々だ。

たとえば、あの元ZOZO前澤氏が始めた、離婚後の養育費建てかえビジネスについて書かれた記事の文末に、こんな一言がある。

離婚して養育費を支払わずのうのうと生活している男性達のもとに、「株式会社小さな一歩」から連絡が来る日も近いことでしょう。かわいい子どもたちのためにどうぞ養育費を払ってください。

出典:ZOZO前澤の新会社に見る「養育費未払い」のあまりに過酷な現実とは

この「のうのうと生活している男性達」に、上に書いたような子どもの拉致被害に遭い日々涙する父たちは含まれているのだろうか。

おそらく含まれてはいないだろう。あえてスルーしているか存在を知らないかはわからない。

この記事自体は冷静に書かれたものでありまったくの悪意は感じられない。感じられないがゆえに、そこに「男性達」に対する根深い不信のようなものを僕は感じる。

この記事を読んだジャーナリストの牧野佐千子氏はこんなつぶやきを漏らす。

「男性の存在自体がDVみたいな時代」、そう、実際にDVがなくとも、現代日本社会での男性は、一部の女性にとって「存在自体が暴力」として位置づけられている。

だからこそ、子供の拉致という虐待/暴力を行なっていてもなお、その自らが犯した暴力に関してそれほどの反省はないという心理が訪れる。元々「暴力的な男」である夫が(実際に暴力を行使していなくても)子を奪われて多少泣こうが関係ない。元々「力」があるんだから我慢すればいいと思っているのではないだろうか。

■夫は「男」というだけで、力 Puissanceをもつ

上の2で書いた、子ども拉致の事実を知りながら、別居に追いやられた父たちに共感できない人々も、このような「存在自体が暴力」としての男たちへの不信を抱いているように僕には思える(面談支援等を通して)。

ただしこの「暴力」は、ヴァイオレンスとしての暴力という意味ではない。

「暴力」はここでは言い過ぎで、どちらかというと、「生命のちから」的な意味合いが大きい。哲学者ニーチェのいう「力 Macht」、フランス語ではPuissanceと記されるような言葉だ。

持続的にみなぎる生命の欲動のようなもの、それが溢れでている人が「力をもつ人」であり、社会生活を営む時、それら MachtやPuissanceは生活の後押しをすることだろう。

けれども、こうした「力」は、それを持つ人(主として父)に対して不信を抱いた一連の人々(子どもを拉致する親~主として母)にとっては、「怖れ」の根源となる。

現実に力をもつ男は暴力を振るうわけではない。夫婦喧嘩のときは多少の言い合いもありどちらかというと自分(妻)のほうがひどいことを言うことも多い。

けれども、夫は「男」というだけで、力 Puissanceをもつ。生命力が漲っている。前面に何かが出ている。声に張りがある。

私(妻)は、 夫婦仲がよかったときはその力にずいぶん惹かれたものだが、関係が悪くなり長い時間がたつ今、その力はなにがしかの圧力となって私に押し寄せる。それは現実のDVではない。殴られたことや怒鳴られたこともない。

けれどもその力は、私にとって「怖い」ものである。

どうやら、このような「力への怖れ」というようなメカニズムが、関係が悪化した夫婦関係の中の妻側に訪れているようだ。

そして、未婚だったり既婚でも夫婦関係は悪化していないにも関わらず、一部の女性(ジェンダー)には、こうした「力への怖れ」が取り憑いており、離婚した別居父親が子を拉致されていかに涙を流そうが、その「力への怖れ」からどうしても男たち全体への不信を払拭することができないようだ。

以上が、離婚にまつわる悲劇の最低部に横たわっていると僕は思い始めた。これは、(臨床=現場の)哲学的論考でもある。

4年前