https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200818-00193926/
■ 「こんな暑い日、あの子はどう過ごしているだろう」
前回僕は、離婚時の「連れ去り/拉致abduction」の被害にあった(子どもを一方的に連れ去られた)「別居親」の悲しみについて書いた(「パパ、神経衰弱しよう」~連れ去られた親の「抜け殻」感)。
それは父親の悲しみに若干特定してしまった感があったので、今回は母親の悲しみについて書く。
父親と同じく、理不尽な理由で離婚時に我が子を連れ去られた/拉致abductionされた母親は、数は少ないながらも存在する。
その理由はさまざまだろうが、「この場面は自分が引いたほうが子どもが悲しまないで済む」的な、女性ジェンダー的(受動的な配慮に基づく)理由もあるようだ。それは、男性元パートナーと闘うよりは自分が一歩引いたほうが子どもにとっては楽なんじゃないかという、配慮と態度だ。
その葛藤の奥には、それぞれのカップルの事情はあると思う。だから、目の前の傷ついている母に対して、カウンセラーの僕もそこまでなかなか聴くことはできない。
そのため、「別居親」に追いやられた理由に関しては、今のところその原因の一般性にまでは僕は到達していないのだが、子どもとの別居後、その子を思い日常を過ごす母たちのあり方はわかる。
それら別居母、拉致によって子どもから引き離された母たちは、日常を淡々と過ごしている。けれども、その日常には常にいなくなった子どものことが含まれている。
たとえば、
「こんな暑い日、あの子はどう過ごしているだろう」
「こんな大雪の日、あの子は無事学校から帰ることができているだろうか」
「コロナにあの子はかかってはいないだろうか」等。
■「こんなことで泣いてはいけないんですが」と言いつつ、謝る
そんな日常(どんな時も子どもを思う日々)を送っている母たちの表情からは、そのように常に子を思い子を心配する思いはなかなか読み取れない。
けれども、離婚時に子を拉致/abductionされた悲しみの傷は、常に抱き続けている。
諸事情があって、その悲しみと理不尽さをTwitterなどでは表出できないけれども、常に子を思うことに関しては、前回取り上げた別居親である父と変わりない。
実の母だもの、当たり前だ。
たとえば僕は、ある早朝に突然、Facebookのメッセンジャーを受け取ったことがある。それは、
「朝、ネットを見ていると、某県の中学で、プールでの事故があったという記事が目に入りました。その県は、私の息子が住んでいる県なのです。理性で考えるとそのプール事故で亡くなった生徒さんと私の息子が一致することはないのですが、どうしても心配してしまって」
と書いている。
何回かやりとりするうちに結局は電話することになり聞いていくと、その母は号泣してしまう。号泣しながらも僕に、「スミマセン、スミマセン」と謝る。
僕はそうした事態にはある意味慣れているため、何も謝られる必要はないが、その母たちは泣きながら謝る。
「こんなことで泣いてはいけないんですが」
と言いつつ、謝る。
■あの子は生きているのだろうか
子を授かったという喜びは、その子がいつ死んでしまうかもしれないという強迫観念に襲われ続けることと並列にある。
その強迫観念は、どんな親も抱いているのではないかと僕は想像している。こんなかわいい子どもを私は抱くことができた。今はたまたまこうして抱擁し幸福に包まれているが、この幸福はいつまで続くかはわからない。いついかなるアクシデントで、この幸福が破壊されることはありえる。
世の幸せな母たちは、子を抱擁しつつも、こうした強迫観念に苛まれていると僕は想像している。
ましてや、子どもとは関係のない夫婦間の離婚という事態で予想外に我が子と引き離された時、その強迫観念は常に別居母たちを襲い続ける。
あの子はいま何をしているのだろう?
あの子は生きているのだろうか。
あの子は死んだのかもしれない。
死んだはずはないに決まっているが、ニュースで流れるその死亡事故と、わたしの子どもの死がどうしてもつながってしまう。子どもと同居する親(元夫)に電話しても笑われるか無視されるだけなので、失礼とは思いながらもカウンセラー(僕)にメールしてしまう。結局は電話し、泣いてしまう。どうしても、プールで死んでしまった中学生と、わたしの息子の死がつながってしまうから。
その死で、わたしと彼(息子)のつながりがまったくなくなってしまうから。
そして、わたしも死にたくなるから。
そんな切実な思いを抱きつつ、子を奪われた親たちが日々過ごしていることを、子と同居している一方の親や拉致abductionを支持した弁護士は理解しているのだろうか。
早朝に目覚め、ついつい見てしまったスマホに現れたそんなニュース(プール事故等)から、ひとりベッドで泣く母たちの思いを、我々は想像することができるだろうか。