「親が死ぬこと」を子は想像できない~離婚時の「子どもの連れ去り」の傷つき

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200731-00190968/

 

■「親が死ぬこと」

僕は子どもの頃、「親が死ぬこと」がものすごく怖かった。

そのことを考えるだけで、異常に不安になり、頭を大げさに振ってその思いつきを追い出そうとした。

親が死んでしまうことがなぜあれだけ怖かったのか、今もあまりはっきりしない。

が、大人になり、50才で授かった子どもに対して「親が死ぬこと」は語らないよう注意はしている。

けれども、いま僕は56才なのだが、この年になると、油断すると自分が死ぬことを日常的に考えており、それを口に出してしまう。

自分の子どもには最も気を許しているだけに、会話の中で自然に「パパ(僕)が死ぬと」等、それを何かに喩えてしまうこともある。

そんな時、ダメだダメだと自分に言い聞かし、そうした「親が死ぬこと」について語ることを自分に禁じ直す。

僕が子どもの頃、僕の親は時々そのことを言って僕を不安がらせたこともあったが、そんな機会は稀だった。

現在支援者として、ひきこもりや不登校の子を持つ保護者へのカウンセリングを僕は行なっているが、「親が死ぬこと」は決して子どもにしゃべらないよう親御さんにお願いしている。

親がいなくなってしまうことは、それだけ子どもを不安にさせる。

■「共同親権」に今週も動きが

当欄でこだわり続けている「共同親権」の問題に関して、今週も動きがあった。

それは、超党派の国会議員が集まり、共同養育や親権についてアピールしたもので、NHKのニュースにも取り上げられた。

ここに出席した議員たちもTwitterで感想を発信しており、たとえば串田誠一議員はこのようにつぶやいている。

子どもの権利を守れ、と議員がつぶやくのは頼もしい。

そう、当欄でも取り上げてきたように、離婚特に共同親権から単独親権へ移行する際(日本は世界でも超少数派の単独親権国家)、親権をもつ親(主として母)は、子どもを無理やり「連れ去る」。

この連れ去りは英訳するとabductionであり、「拉致」と訳すほうが一般的だ(もうひとつの「拉致被害者家族」~離婚時のabduction)。

人間が他者を信頼する基盤だといわれる「愛着attachment」は、2才頃までの身近な大人(ほとんどは両親)による濃厚な「抱っこ」等の接触をもとに形成されるといわれる。

そうした他者への信頼関係があってこそ、子どもはその後の成長の中で友達をつくり恩師と出会い恋人と出会う。

すべてのコミュニケーションは、愛着/アタッチメント/attachmentがその土台になっている(ママ・ドン・ゴー、ママ行かないで)。

その土台づくりのコアにいるのが乳幼児期のそばにいつもいる大人、つまりは親、だ。

■ ある意味ずっと「くっついていた」

僕が子どもの頃、「親が死ぬということ」をどうしても想像できなかったのは、僕が親と究極の信頼関係を構築できていたから、なのだと思う。

子どもの頃の僕にとって、その究極の信頼関係を与えてくれた親は、究極の他者であり、すべてのコミュニケーションの土台になっていた存在だった。

その土台があるからこそ、友達をつくれた。友達と喧嘩できた。先生を尊敬した。嫌いになった。好きな人ができた。失恋した。初めてキスをした。上司にこびへつらうことができた。上司を心から尊敬した。自分の子どもをつくろうと決断できた。実際にその子どもが世界に出現した時、涙を流して喜ぶことができた。

他者を祝福し、他者と語らい、他者を憎悪し、他者に尽くしても楽しい。そんな思いと行動の基盤は、乳幼児期のattachmentに由来している。

僕は20代後半で父親を亡くした。

亡くした時は呆然となったが、不思議なことに、何かから「自由」になった気もした瞬間だった。

自分がそれまで歩いてきた地面から飛翔できたことから来る気分の軽さ、そして飛翔しつつ見えてきた新しい世界に飛び込んでいく可能性について、何となく気分が軽くなったことをよく覚えている。

親が実際に死んでみると、そこには新しい世界が確かに待っていた。

けれどもそれは、僕と父親がある意味ずっと「くっついていた」(反抗期が長かったし実際の会話は少なかったけれども)結果、訪れた自由だったのだと今は思っている。

それは精神的にアタッチメントattachmentしてこれた結果としての報酬だ。

■ そんな傷つきを子どもたちに追ってほしくないので「共同親権」

そんな、アタッチメントattachmentを完結させることなく幼少期に断絶させられることは、想像以上の傷つきを子ども自身に刻み込むと僕は思う。

離婚時に連れ去る側(主として母)はそうした子どもの傷つきにまで想像が及ばないかもしれない。なぜなら、連れ去られた子ども自身が自分の「傷つき」に自覚的になれず、時に笑みを浮かべ、時に離れた父(母も離れる場合あり)の悪口を、同居する母親とともにしゃべるからだ。

連れ去られた子どもは、連れ去った母に「合わせる」ために母サイドに自分を置く。それは子の「生存戦略」として選択される行動だが、その生存戦略優先の結果、自分の傷つき/トラウマを潜在化させてしまう。

その傷つきに自覚的になるのは、思春期以降となる。

だから、できるだけ親は子どもといっしょにいてあげてほしい。夫婦関係が破綻するのは仕方がないかもしれないが、それと「親子の切断」を同時に進めないでほしい。

その切断の時、子ども自身も自覚できないが、最大の傷つきを体験してしまう。その傷つきは終生引きずる。できるだけそんな傷つきを子どもたちに負ってほしくないので、親子間の断絶のない「共同親権」システムを僕は支持する。

4年前