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2019.02.18更新
法務省が選択的共同親権の導入を検討というニュースがありました。
リンク先では途中までしか読めませんが、紙面等で全文を読んだ方も多いと思います。
この問題に対する私の意見は、まず理念としての共同親権には賛同します。
向かうべき方向性だと思っています。
しかし、導入にあたっては、必ず先に解決されるべき問題があると考えています。
それは、共同親権導入反対派の同業者が強調するような「DV」ではありません。
DVが問題でないという意味ではありません。
DV問題と、親権を誰が持つかは、切り離しは可能です。
DV問題はDV問題として、親権問題は親権問題として、それぞれ別個に取り組むべき課題です。
それよりも、必ず先に解決されるべきは、「協議離婚」です。
離婚届を出しさえすれば離婚できるという日本の制度が、諸国と比較して突出して自由だ、というのは何度でも指摘されるべき事実です。
裁判所なりが関与せず、当事者の意思だけで離婚できる制度が続く限り、全ての子の福祉は実現できません。
養育費の未払い問題も、義務者≒父の怠慢ばかり指摘されますが、そもそも養育費について定めなくても離婚できる状態を放置しているのは国です。
養育費について定めていないのに、養育費が払われるわけがありません。
親権についても同様です。
当事者間で自由に親権について定めてよい制度がそのままでは、共同親権を導入しても仕方がありません。
日本では、親権者決定だけでなく、親が再婚した場合の養子縁組すら事実上自由です。
離婚した場合には親のどちらかは必ず親権を失う一方、再婚さえすれば容易に養親になれる、という制度を正当化するのは困難です。
共同親権を導入するのであれば、それぞれの親の子に対する関わりを適切に定める必要があります。
それは当事者間では不可能です。
裁判所なりが責任もって全ての離婚に関与する制度が不可欠です。
同様に、法務省が検討しているという「選択的」共同親権にも反対です。
「選択的」ということは、恐らく、共同親権にするか単独親権にするかは当事者≒親の意思に選択による、という意味でしょう。
それでは共同親権導入の意味が実質的に損なわれてしまいます。
既に多くの方が指摘しているように、親権とは親にとって権利より義務の側面が強いです。
共同親権という形で当事者双方にプレッシャーをかけることによって、はじめて共同親権の意味は実現できます。
「親になる」ということが決して個人の選択などではなく、生まれた子に対する義務であるとの全く同様です。
日本の家族法制は、既に無責任すぎるほど自由です。
そして、その自由は個人主義的な意味での自由というより、「イエ」制度と家長の権威の存続のためのもの、家庭に法が立ち入らないためのものであった、ということは家族法研究者の見解の一致するところです。
その上、さらに「共同親権」という選択肢が増えることに意味があるとは思いません。
議論すべきは、原則として「単独親権」か「共同親権」か、という二択です。「選択的」共同親権などという折衷案は虫が良すぎます。
その二択の場合、「単独親権」のメリットは、なんといっても「現に単独親権を前提に実務が動いている」ということです。
無理に現状を変えるべきではない、という保守主義を無視することはできません。
しかし、それ以外の点で、「共同親権」と比較して「単独親権」を擁護することは相当難しいと私は思っています。
弁護士 小杉 俊介