養育費と共同親権
6月17日付で「養育費と面会交流のバランスをとるのは男女平等か?」というタイトルのエッセイを書いて、「共同親権メルマガ」で流したら、解除者が3人出た。「『やるだけのことやってて金だけよこせ!?』は、よく言ってわがまま、悪く言って詐欺だ」という部分が攻撃的に見えたという意見も受けたので、その辺で不愉快に感じた人が何人かいたのだろう。
とはいえ、ぼくがした批判についてはその当否を議論すればよいし、今のところ議論が深まる反論があったとは思わない。
ちなみにぼく自身は、養育費については、元妻側が「いらない」と裁判で主張した経過がある。「金をもらっているのに会わせないのか」と言われたくないためだと理解している。実際、養育費の振込先を元妻側弁護士が教えず、送金するために無駄な現金書留の郵送手続きを何度もさせられ(郵便局に据え置きで何度も戻ってくる)、何カ月も書面のやり取りをして「この費用があれば子どもに使えたのに」と書いて送ると、ようやく弁護士が振込先を教えたということがあった。
以前から、親権論議と養育費についてリンクさせることについては、「養育費は子どもの権利」と言って、会わせることとは別次元と主張する議論を聞いてきた。ところがいまや、「子どもの権利」をピンハネするビジネスが出てくるようになった。
相手は過払い金を取り戻す相手でも、制裁金を科す罪人でもなく、本来子育てを分担し合うパートナーだ。会わせることについては放置して、ピンハネを堂々と掲げてするビジネスは、搾取される側の憎悪を増して対立を深める。
子どもに「あなたのために給与を差し押さえ、お礼に前澤社長にその中から手数料を支払っている」と説明して、子どもはいつ会えるかもわからない父親(母親)に親しみや敬意を抱くだろうか。軽蔑して「そういう親の子どもだから」と自分を卑下するか、男性(女性)蔑視の感情を育てるのが関の山に思える。
ちなみに、養育費をピンハネして給与差し押さえをする弁護士が「面会交流は子どもの権利」と言いつつ、子どもには無関係の子どもの写真送付を提案するのをよく見てきた。「子どもの権利」ではなく、「私の利益」と言ってくれたほうが理不尽だけどすっきりする。
なお、法務省は24か国の親権に関する海外の法制度を調べてレポートしている。それを見ると、アメリカのニューヨーク州では、裁判決定で養育費を受け取っている同居親が不当に会わせなかった場合、その間、養育費の支払いを停止するか、支払い遅延による責任を免除できる。当地ではそれが「国民感情」のようだ。
国内の報道は同居シングルマザーの全国団体の主張に全面屈服し、養育費の問題で親権の問題を触れたものをまず見ない。ぼくの主張が攻撃的に映るならそれも理由だろう。
左右の対立
養育費のピンハネを正当化するには、相手を子育てのパートナーではなく、自身を支配する敵として見ればよい。この点、男女間の関係を階級になぞらえて性で加害被害を分けるフェミニズムの理論は役に立つ。女性は被害者側だから、男性の側の事情は、支配階級の都合としてむしろ批判を向けられる。
こういった思考方法は、メディアも含めたリベラルな支配層の間では一定程度浸透している。受け入れなければ批判を受ける。こうやって敵意を向けられた男性たちやこの構図からこぼれ落ちた女性たちのフェミニズムへの懐疑は強い。
一方で、保守層では、フェミニズムの理論そのものを受け付けず、男性支配からの解放(離婚)を目指す女性支援を「家族の解体」として敵視する。共同親権をめぐる対立状況は、フェミニズム側の左派論壇と、それに対抗する右派論壇とのイデオロギー対立の主戦場となり、当事者はその草刈り場となっている。
ぼくは一当事者で、右からも左からもあまりお呼びがかからないが、彼らの主義主張より自分や家族、娘のほうが大切だ。
国立で自分と同じような立場の親たちと2008年に運動を始めたとき、「宗像がDV男たちを集めている」と陰口を言われた(「思ったらDV」なので間違ってはいない)し、周囲の市民運動の仲間は、「よその町に行くと『何とかしろ』(つまり黙らせろ)と言われるよ」と教えてくれた。ぼくが当事者と知っていて、別居親をヘイトする雑誌とは取引をやめた。
当時からDV法の欠陥は指摘されていたし欠陥はある。右派の活動家は「DV法は家族を壊す」と主張して当事者たちに宣伝し、その欠陥をフェミニズム批判に利用してきた。夫(妻)や父親としての役割を社会生活を送るよすがとしてきた親たちの中には、その役割ではなく、その役割を奪った側に敵意を向ける人もいる。
最近も匿名の別居親から、「必要なことは日本の家族に合わせた共同養育を支援してもらう法律」とメールが来ている。この間、家制度をめぐる問題提起を共同親権運動のほうで何度かして、議論は深まったけど反発もある。
戸籍制度を基盤とする婚姻制度を維持するために、戸籍から外れた親を弾圧する手段として単独親権制度がある。ぼくから見ると、右でも左でも、形としての家族のあり方を前提に議論を進めているという点で、たいして違いがあるようには思えない。だから、養育費の取り立ての議論も、形から外れた側を家族外の人間として人権を無視し、過払い金請求の相手と同一視できる。
目指すことは、家族からの解放だろうか。それを押しとどめることだろうか。
思うに自分が両親から生まれた以上、誰もが親から愛されたいし、幻想かもしれないにしても家族というものへの憧憬がある。家族の形を保つことがもはや社会的に「正式なもの」として認めがたくなってきた中で、血縁にせよそうでない関係にせよ、家族的なつながりを求める欲求は、強くなりこそすれ弱くなることはない。修復や回復が目指されるなら、形ではなくつながりだ。子どもに会えないのがつらいのではなく、子ども(やパートナー)と心が通じないのがつらいのだ。
つながり合う言葉
共同親権は、そういった家族的つながりを求める人たちが、自身の欲求を社会に表明するための涼風であるはずだ。形にとらわれた家族観では、「うちの家族」以外の人間との関係を求めることは、イレギュラーなのでわがままと見られてきた。解体してもそれが別の家族の形を押し付けるだけなら意味はない。
フェミニズムは社会的な男対女の対立構造を個人間の関係にスライドさせて、共同親権を男性支配の復活と見る。保守層は家の存続と性役割に基づいた家族の形の復権のために共同親権を利用する。でも、男女かかわらず、性役割の中で問題が生じて苦しんでいるのは双方だくらいは、両方の話を聞いていればわかる。
男女平等を女性たちが掲げることで社会は対立を生じつつ変わってきた。子育ての実質的な平等を権利とみなす共同親権は、それを男性が口にすることに道を開く。つながり合う言葉は「he for she」ではなく「男女平等」ではなかったか。(宗像充2020.6.19)