民営化とカジュアルとポップではどうしようもない領域があることを、首長とメディアとNPOが気づくとき

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20200201-00161312/

■ 丁寧さと粗さ

今朝、知り合いの弁護士のツイートで知ったのだが、東京・港区では、「共同親権」に制度的に移行するより前に、単独親権に伴う現実の問題をこんな試みで乗り越えようとするそうだ(東京都港区、離婚トラブルのADR費用を助成 20年度)。

これは第三者を行政の補助で介入させ、できるだけ「子どもの利益」を尊重するという試みだが、僕は、その弁護士の方に教えていただかなければこの試みを知るのはだいぶ先になったかもしれない。

あるいは、あるイベントがきっかけで知り合いになったNPOが、シングルマザーに向けて住宅支援をする試みが国連から表彰されたこと(母子家庭支援で国際賞を受賞しました)も、そのイベントを行なわなければずっと知らずにいたかもしれない。

そうした丁寧ではあるが比較的地味な事業がある一方で、大手NPOらは連日派手な活動を繰り広げ、最近の目立つところでは、多胎児家庭の支援や養育費の行政建て替え、米IT企業と連携した若者就労などがマスコミの応援とともに報道される。

ここに、新しいことをしたい行政首長が絡み、さらにニュースとなって全国をかけめぐる。

また、貧困家庭に食品宅配をする試みなどもさかんに報道されるが、僕が知る限りでは、その食品は保存食(袋菓子やレトルト、缶詰)が中心で、食事支援として連想できる「あたたかいお弁当」とは程遠いことは、SNSをよく読み込んで初めてわかることだったりする。

その他、日々報道されるNPO関連の試みは意外と「粗い」ものが多く(たとえば親権問題はスルーして養育費のみを焦点化する)、また行政の予算カットや企業優先の発想(つまりは新自由主義思想)がその背景にあったりする。

■ 当事者に届きにくい事業

別に新自由主義自体は悪くないと僕は思うが、福祉はもちろんのこと、保育や教育など、予算削減と効率化と民営化では乗り切れない(一見乗り切れたとしても「粗く」なる)分野は、たくさんある。そうした分野は、たとえば保育士の給与を大幅アップするとか学校にSSW(スクールソーシャルワーカー)を週半分は配置するとか、つまりは従来の行政予算アップで乗り切ることが解決策になる。

NPOや新しもの好き首長たちが工夫して派手に宣伝する(といいつつ粗い民営化により全体の経費は削減する)事業も、必要な場合はある。それは現在全国で展開する「学習支援」や「子ども食堂」(これは行政支援は少ないが)なのだろうが、当欄でも以前書いたように(「貧困コア層」は存在するのか)、それらは「真の当事者」にはなかなか届かない。

貧困ゆえに勉強できる環境がない、親が勉強を軽視する、子ども食堂など行くと自分が貧乏であるとバレてしまい恥ずかしい、といった単純な理由が背景にある。が、こうした目立ちやすい事業は当事者には届くことが難しいが、宣伝上手なNPOと新しもの好き首長と話題探しに賢明なメディアの三者が一体となり、「当事者に届きにくい粗い事業」が子ども支援の代表的事業として宣伝されていく。

■ 「子ども問題の啓発のアポリア」

NPOからするとロビィングや必要な啓発活動としてそれらを位置付けているだろう。行政首長的には、制度の根幹(たとえば共同親権化)には手をつけず手っ取り早く市民から感謝される事業であり、自らの予算の配分の妙も問われることからやりがいがあるのだろう。メディアは、キャッチーなコピーと若手スタッフ中心のNPOは「なんとなく」目新しく視聴者受けするように感じられる。

現在、子どもをめぐる現状には、こうした「子ども問題の啓発のアポリア」があることを言語化しておきたい。これは個別性の問題ではなくおそらく一般性の問題なので、NPOや首長の固有名の記述は避けている。

社会が潜在化するマイノリティ(たとえば虐待サバイバーや高齢ひきこもり)を抱えこれらの存在をうっすらわかりつつも行政が王道支援(つまりは専門家配置の増加)を行わないとき、新自由主義的な思想を背景にしてカジュアルでポップな事業が提案される。

そして、そのカジュアルでポップなネーミングの事業と若手スタッフたちに行政首長とメディアは飛びつき、かなりの「粗さ」を抱えながらもそれらのカジュアル事業は宣伝されていく。

結果、NPOや行政がうっすらと想定していた「当事者たち」にはそれらの事業はなかなか届かず、それとは矛盾するようにそのカジュアルさとポップさはさらに宣伝されていく。

その結果、各地の「現場」で奮闘する地味なNPOや行政職員は憤慨している。

けれども、だ。これはある種の「構造」である。

現在は、こうした「NPO・首長・メディア」の三つ巴のポップな事業が、そのカジュアルさとポップさに相反するように、真の当事者を見落としてしまうというこの構造に気づく時だと思う。

そしてやはり、たとえば保育問題のコアは、保育士の給与を10万円引き上げるしかない、というベタな原点に戻る時なのだ。

カジュアルさでは、サバルタン(ポストコロニアル哲学でいう「当事者」の意)には決して届かない。世の中には、民営化や予算削減やカジュアルとポップではどうしようもない領域があることを、首長とメディアとNPOが気づくときなのだ。

5年前