https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20191220-00155656/
法務省が予告してきた、「親権」に関する第一回目の研究会が開かれたようだ(離婚後共同親権/法務省の研究会第1回議事と資料が公開されました)。
世界でも「単独親権」の国は珍しいと言われるなか、日本は堂々の単独親権国家である(ほかはあの北朝鮮と、数国だけ)。ヨーロッパや北米諸国からこの単独親権を根拠とした離婚後の「子の連れ去り」が人権問題として抗議をうけるなか、法務省がやっとその重い腰をあげて立ち上げたのがこの研究会だ。
DVや虐待対応専門の、単独親権支持派のNPOらからの抗議はあるものの、国の腰の重さの理由は単に「前例踏襲」といういつもの自己変革のできなさにつきると思う。
DVや虐待対応も重要ではあるが、それはたとえると、飲酒運転(DV)はダメだからクルマ自体を否定するようなものだ(滝本太郎弁護士)。
この「クルマ」である親権のレベルを、単独親権から共同親権に移行させる時期が明らかに到来しており、それは具体的には諸外国からの抗議となって顕在化している。そして、国の根幹的制度の変革は「外圧」か「戦争」でしか変えられない我が国らしく、法務省は研究会を立ち上げた。
■レスポンシビリティ
その第1回目の研究会では、「親権」について以下のように論述する(研究会の検討の進め方について1-1-(3)親権という用語)。
この「責任」は、英語ではresponsibility、フランス語ではresponsabilite(末尾eのアクサン略)と表記され、哲学においては「応答責任」と訳される。
懐かしい。他者への応答の責任を含意するこのレスポンシビリティは、80~90年代の哲学業界(正確には「ポストモダン哲学」業界)でずいぶん流行った言葉だ。
責任には最初から「他者への応答」が含まれる。どんな退屈な規則に従う責任であっても、その規則をつくった者とその規則に従ってきた大勢の人々に対する自分からの「応答」が含まれる。
あるいは言葉にできないものの「目と表情で」語りかけるしかないそのメッセージに対して、その視線と表情を受けたものは、なにがしかの「応答」を求められる。
あるいは、ある音楽をスマホで聴いたとして、イヤホンから溢れ出るその曲に対して、我々には何らかの応答責任が課される。涙する、スルーする、なんでもいいが、ある音楽家から届けられたその曲に対して、我々は何かを応えるよう見えない力を受ける。
■共同親権そのものの「やさしさ」
親は子を授かった時、そのやってきた子からの「私はあなたのもとにやってきた」という無言(あるいは笑顔あるいは泣き声)のメッセージを受ける。
それと同時に、「責任」が生じている。その無言のメッセージ、笑顔のメッセージ、泣き声のメッセージにはいちいち「応答責任」が伴う。だから、このメッセージを無視することは児童虐待となる(ネグレクト)。
赤ちゃんは、泣き声や笑顔というメッセージを最も身近な他者(親)に届けている。
そのメッセージが届いた途端、そこには「責任」が生じ、届けられるその小さな手(声・表情)に向けて、親には呼びかける/自分の手を差し伸べる(adresse)よう見えない力が働く。
責任とは、決して一方通行のものではない。互いに影響しあい、互いに手を差し伸べ合うことだ。
欧米では、親と子の関係に関して、親が子に関する事柄を背負う「権利」という近代的概念に変えて(権利とはまさにフランス革命以後の近代社会で生まれたもの)、「責任」という、人間社会に普遍的な概念を応用しようとしている。
そう、「権利」はあまりに薄っぺらく、親子の関係の深さを表現できない。だから「責任」に変えよう、という流れが最新の潮流だ。
冒頭で引用した作花知志弁護士は、この責任も「何かフィットしない」という。
作花弁護士の言われる「親と子が触れあい,親と子が共に成長すること」は、上に書いたresponsibilityそのものだ。咲花氏の言われる「触れ合い、共に成長すること」こそが、親から子への「応答責任」に他ならない。ただしそれは、言語表記で示される「責任」というゴツいイメージのものではなく、「触れ合い、成長する」ことである。
「責任」とは、差し伸ばしたその手にこの手をすぐに差し伸ばすこと。adresse 、呼びかけ、語りかけ、手を差し伸べる。その差し伸べられた手や声や表情に対してすぐさま応える。こうしたやわらかなコミュニケーションに含まれる応答責任のあり方こそが親には求められ、その態度こそが単独親権に変わるものであり、共同親権そのものの「やさしさ」だ。