田中俊英 | 一般社団法人officeドーナツトーク代表 11/24(日) 9:06
11月22日、「離婚後の単独親権は違憲」だとする「共同親権訴訟」がついに始まった。一訴訟の始まりとしては異例ともいえる、多数のメディアでこの出来事は取り上げられた(たとえばこの記事→「共同親権」求め、別居親ら初の集団提訴 東京地裁)。
22日は、単に訴訟を東京地裁に提起しただけではなく、関係者が集まり、この問題についてアピールしたり講演会も開いたそうだ。
当欄で何回か共同親権問題を取り上げていた僕も、少し前にこの日の集まりに誘われたのだが、あいにく仕事で行けなかった。そのかわりに、文末に引用した「アタッチメントによって深く刻み込まれた親と子」というエッセイを寄稿した。
全部読まれたかどうかはわからないが、どうやら取り上げていただいたようだ。
このエッセイにある「アタッチメント」は「愛着」と訳されるが、これはかなりの誤訳で、「くっつき」「くっつくこと」的ゆるやかな意味だという。親と子が抱っこをする/される等を通して日常的に接触することが、その赤ちゃんのその後の全人生にわたる「コミュニケーション」の土台となるというもので、心理学者ボウルビィ提唱の、もはや古典になった概念だ。
遅くとも2才頃までの、数名の大人との日常的なアタッチメントが、ひとりの人間がその後「他者」に対する信頼関係のつくり方を左右してしまう。
この「大人」は厳密には血のつながった親である必要はないものの、現在の社会では、たいていは実の両親と重なる。
児童虐待により残念ながら乳児院で2才まで過ごしたとして、その乳児院で赤ちゃんが出会う大人を3名程度までに2年間限定すれば、おそらくアタッチメント形成は可能だと思うが、現実は10名以上の職員がローテーションで関わるため、施設でのアタッチメント形成は脆弱になる。
つまり、ひとりの人間が「他者」(動物なども含む)に対して警戒することなく自分を「開く」ことができるのは、幼少期の日常的「くっつき体験」を通過してきたからだ、と言える。
このアタッチメントを子が持つことができれば(他者に対して自分を無意識的に「開く」ことができれば)、子育ては成功したと僕は思っている。
子育てとは、人が他者に対して無意識的に自分を開いて歓待する、その力の獲得の手伝いだと思う。
■痕跡と歓待
0才や1才時に虐待もなく離婚もせず、妻と夫が協力してこのアタッチメント形成を担った体験がある大多数の夫婦の場合、「他者を信頼する」という、ヒトとして最大の力を子が獲得することに、夫婦2人ともが貢献している。
他者を警戒することなく迎え入れ、その他者が心に「刻印」された経験を持つことが、その後のコミュニケーションの土台となっていく。哲学者デリダが「他者の痕跡」といったり精神分析医のフロイトが「不気味なもの」として人の心に刻み込まれる出来事を論じるときも、この「土台としてのコミュニケーションの力」をそもそもヒトがもっていることを前提に語っている。
傷つきも思い出も、そもそもその人が「他者を受け入れる」という行為を自然にできて初めて生じる出来事である。誰かが別れや死亡で目の前からいなくなったとしても、刻み付けられたその他者の記憶は、人が死ぬまで存在し続ける。
存在し続けるためには、そもそものコミュニケーションの始まりの段階で、「他者を歓待する」ことを自然に行なっていなければいけない。
■ 親自身のコミュニケーションの土台も固める
下の引用エッセイでは、従来のアタッチメント理論から少しはみ出て、乳児に対してアタッチメントを繰り返すことは、乳幼児が他者との信頼関係を築くことの土台になるだけではなく、親自身のコミュニケーションの土台をさらに固めていく、とも表現した。
これは、僕が日常的に保護者支援(面談支援)を行なうなかで気づいた実感を元にしている。
親は、自分の子どもと日々アタッチメントを繰り返すことで、親自身が大人になってから日々苦闘する自分自身のコミュニケーションの自信を取り戻しているように感じる。
赤ちゃんの笑顔・泣き声・視線や手の動きすべてを通して、親は自分が「信頼されている」と感じ、その所作にレスポンスすることにより、親が抱く他者へのコミュニケーション不安を払拭しているように感じる。
つまり乳児のアタッチメント形成は、すでにアタッチメントを獲得しているであろう親に対して、その親自身が大人になって抱く不安を和らげる効果があると思う。乳児はその笑顔や声や手の動きで、アタッチメントを与えてくれる目の前の人間(親)を励ましている。そうして励ますことで、乳児は同時に自分自身のアタッチメント(他者への信頼の基盤)を強固なものにしていく。
■ 「法からの御礼」
これは、「法」のレベルのずっとずっと「手前」の出来事だ。法は、しょせん近代社会がつくった約束事であり、その約束事を施行するためには、人が人を信頼する土台としてのコミュニケーションの力の結合が必要になる。
つまり、アタッチメント、信頼、痕跡、出来事等の、いわば哲学的概念のレベルは、近代的法概念のだいぶ手前に位置している。アタッチメントや信頼を土台にして初めて、そこから外れる行為に対して法の決断と審判を下すことができる。
アタッチメントは乳児に対する少数の大人、つまりは多くの場合「両親」が結託して形成させていく。そこで乳児は、「人を信頼する」というその後の人生におけるすべての土台を構築する。
それは近代法という比較的最近のシステムで左右することができない、とても深いレベルでの出来事だ。
だから世界の多くでは、「共同親権」をまずは出発点にしている。厳密には、アタッチメント獲得のレベルは「親権」的近代法のずっと手前にあるのだが、これを近代概念に取り込む場合「親権」としてそれを位置付け、アタッチメント形成に尽力した親2人をそこに並べて記述する。
いわば共同親権という言葉は、アタッチメントをよくぞ形成したという「法からの御礼」なのだ。
法は、アタッチメントというヒトにとって最大の力を与えた2人(母と父)に感謝している。いや、法が感謝するならば、それは当然「共同親権」になっていく。
たかだか200年程度の近代法的システムは、すべての土台であるアタッチメントを制御することはできない。前提や条件としてそれは共同親権として明記され、DVや虐待があれば、それこそ近代法の中で裁いていく(親権を与えない)。いわば共同親権は、法の土台となるいくつかの概念のひとつであり、これを近代法が邪魔することは(日本のように)、根本的に順序が倒錯している。