もっともらしい問題提起のように聞こえるのですが、双方の方々も、子どものことを真剣に考えているのが問題ではないでしょうか。あと、共同親権にするとDVから逃げられなくなる、と言いますが、子どもを置いて逃げたら親権を取れなくなるのが問題ではないでしょうか。そもそもそれは親権制度の問題でしょうか? どう?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191009-00000003-withnews-soci&p=4
両親が離婚した後に父母双方が親権を持つ「共同親権」は、しばしば議論を呼ぶテーマになりがちです。賛成派は「離婚後、夫婦でなくなってもどちらも子どもに関わるべきだ」と主張し、反対派は「どちらも関われるようになると、DVなどの問題があった場合にそこから逃げるのが困難」と主張する。その中で一番、考えなければならない子どもの存在があります。賛成反対それぞれが落ち着いた前向きな議論をするにはどうすればいいのか。論点を整理しながら考えます。(ライター・牧野佐千子)
夫婦共働きのわが家でも、疲れてささいなことでけんかをして「もうこの人とは絶対分かり合えない。離れて暮らしたほうがいいのかもしれない」と考えることはしばしばあります。そういう時、私は子どもたちを連れてひとまずアパートでも借りて離れようかと真剣に考えはじめます。
離れて暮らすとなると、夫は子どもたちに会えなくなってしまうのだろうか。一日帰りが遅くなるだけで、「パパは……?」と不安で泣いてしまう感受性の高いこの子たちが、仕事から戻るといつも子どもたちをいとおしそうに抱きしめる夫が、そんな状況に耐えられるはずがない。
離れて暮らすことから出る影響を想像したら、私の夫に対する「なんで分かってくれないの」という不満など、小さなことだと思え、やがて夫へのわだかまりも消えていきます。
一方で、夫婦関係の亀裂が決定的になった時、子どもの親権について悩むかもしれないという展開は、私にとっても無縁ではありません。
そして、親の離婚後に子どもが突然一方の親に会えなくなってしまう問題について、国を相手に賠償請求をして制度を変えようとしている人たちがいるという現実があります。
子どもオンブズマン日本の代表の鷲見洋介さんは自らも2歳半だった娘が母親に突然連れ去られ、会うことができなくなった経験から、親権問題についての活動を続けています。現在は月に1度、数時間程度の面会交流が認められているそうです。
共同親権導入反対派の方の中には、連れ去り被害の活動をする人の中に「DVの加害者の男性がまぎれている」から信用できないと主張をされる方もいます。でも、少なくとも鷲見さんがDVを行った事実は、家裁の資料にもどこにもありません。当の家裁も「子どもに会わせることに特段の問題はない」という判断をしています。
それでも子どもに月に1度しか会えないのは、どういうことなのでしょう?
同じような状況の方たち(主に男性)から寄せられた体験談には「妻には未練はないが、子どもに会わせてくれと連絡を取ってもストーカー扱いされてしまい、会わせてくれない」「妻が不倫して自分と離婚したいと言い出したのに、子どもを連れて出ていった。その後自分がやってもいないDVの加害者と認定されてしまった。それでも子どもに会いたいのに、裁判所は自分の意見をまともに聞いてくれない」。そんな声が届きました。
共同親権の議論で必ず出てくるのが「DV」など暴力の問題です。
「DV」「ストーカー」「虐待」の「被害者」と「加害者」が存在し、精神的・身体的被害が誰の目に見ても明らかな陰惨な事件は残念ながらなくなりません。
一方で、当事者間での問題になりがちなことから被害の認定を一方が「主観的」だととらえてしまうことも多く、日常の会話の中でも、相手への中傷の手段として「DV」が用いられることもあります。
双方の納得が得にくい「DV」という判断がある中、「子どもに会いたい」という明確で切実な叫びは、少なくとも目の前に存在する。これをどうにかすることはできないのでしょうか?
夫婦の関係が失敗したとき、子どもに会いたくても会えなくなってしまう原因は、民法に定められた「単独親権」の規定にあります。昭和の家族ドラマにありがちな、「お父さんとお母さん、どちらの子になるんだ」という選択を子どもに強いる制度です。
これに対して、「離婚後も父も母も子どもに関わりたい」と、この制度の改革を求めるのが共同親権の導入の議論です。
この議論の中で、実際にひどい「DV」に遭っている・いた方は、「DVをやるような父親に子どもを関わらせたくない。共同親権の導入は、そういう父親にも自動的に親権を与えてしまうから危険だ」と主張します。
共同親権を推進する人たちは、それに対して「制度の見直しの中で、DV被害者の保護対策は併せて必ず必要だ」と訴えます。
ただ、推進派の中には実際にDVの被害に遭っている方もひとくくりに「共同親権反対派は、DVをでっちあげしている」と批判し、また、反対派の中には「共同親権推進派は、DV加害者」と応酬。当事者に限らず、支援者も巻き込んでSNS上で中傷合戦となってしまう場面をたびたび目にします。
ただ、「子どもを守りたい」という思いは両者共通しています。
このところ、離婚後に母親の再婚相手に虐待されて幼い命を落とす事件も続いています。母親もDVを受けて加害者である父親に精神的に支配されているケースもあります(女性が加害者になるDVも多く存在します)。もし、子どもが本当のお父さんと会うことができたら、悲劇は避けられたかもしれないという見方もできます。
問題の複雑さに拍車をかけるのが、国際結婚の存在です。離婚した後に海外にいた母親が父親の同意なく子どもと一緒に日本に戻ってきた場合、国境をまたいだ子どもの連れ去りを原則禁止するハーグ条約に反することになります(DVなどの暴力から逃れてくる場合は例外とされる規定もあります)。
「DV」「ストーカー」「虐待」の「被害者」と「加害者」の存在は、ただでさえ判断の納得感に温度差が出やすいのに、外国人と日本人カップルの場合、さらに「文化の違い」「両国の法律の違い」も加わってしまうのです。
ハーグ条約については、アメリカやフランス、イタリアなどの海外から日本において守られていないという厳しい非難の声も国際社会からは出ています。
また、親権の問題は「フェミニズム」や「家制度」をめぐるイデオロギー論争にも展開します。
家制度を守りたい保守的な人は、共同親権を制度化すると「離婚後も両親ともに子どもに関われることから、離婚をすることが容易になる、家制度を壊すことになる」と主張。キリスト教やユダヤ教、イスラム教、神道などでは「家を守ること」と大事にする人は少なくありません。
一方で、欧米のフェミニストたちが共同親権推進運動を進めてきた歴史もあり、推進派の中にも様々な立場があります。
当事者同士の溝は深く、当事者でなくても議論しようとする人の意見はそれぞれの立場のイメージに引きずられ、日本が各国からも非難され、思想・文化の違いも絡み合う。それぞれにお互いを攻撃し、誤解が広がる。
子どもにとってより良い制度を作るための救いの道はどこにあるのでしょう?
それを解くヒントは、単独親権は違憲であると国を相手取って裁判を起こした違憲訴訟の原告代理人・作花知志弁護士の戦略の中にありました。作花弁護士は、サイボウズ社長・青野慶久氏が結婚後の夫婦別姓を認めないのは違憲と国を訴えている「夫婦別姓訴訟」の代理人でもあります。
夫婦別姓の問題も賛成派・反対派の対立があり、それぞれがお互いを誤解しているところは共同親権の議論とも似ている部分があります。国を相手取って、憲法違反で訴えるところも共通しています。
作花弁護士は、自身のブログ「夫婦別姓/賛成派と反対派は対立していないと思います」で、選択的夫婦別姓は「家族単位の戸籍のまま、夫婦については別姓の記載がされる、ただし、子どもの氏は戸籍筆頭者の氏に自動的に決まる」という形にすれば賛成派と反対派の懸念は解消され、対立は生じないように思うと書かれています。
共同親権の議論においても、賛成、反対、その中でも細分化される立場の人たちに共通しているのは「子どもたちにとって何が一番良い方法なのか」を考えたい、実行したいということ。
作花弁護士も単独親権の違憲裁判では、「現在も日本のどこかで泣いている子どもがいるのではないか、子どもたちを救う手段を創造したいと思いながら、今回の憲法訴訟の訴訟活動を行っているのです」と話しています。この問題について、どんなに立場の違う人でも、この一点については共通していると思います。
複雑で対立が目立つ問題ですが、意見が違う相手を攻撃したり、排除したりするのではなく、「子どもたちを救う手段を創造する」大きな目的のために、違う部分は立場の違うもの同士こそ、とことん話し合うことが求められます。
イデオロギーの違いや個人の恨みも大きな目的を成し遂げるためには、いったん緩めて枠を広げて、共通して納得できる「大きな目的」を創り上げる仲間として考えられないのでしょうか?
例えば、共同親権について賛成、反対双方の立場の人が議論する場を作る。その際、「子どものために何ができるか」を考える。
これまで抜け落ちていたかもしれない、最も大切な、そして最も自分の主張を伝えづらい立場である子どもという存在を通して、もう一度、何度でも共同親権について考える場を作っていく必要があるではないか。
様々な人の声を取材する中で、今は、そう考えています。