「スマートな離婚」を~AbemaPrime 再び、共同親権の世界へ

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakatoshihide/20191009-00146002/

■DVと虐待の悪夢

今日(10月9日)の夜、アベマテレビの「アベマプライム」にて、再び「共同親権と単独親権」の問題がとりあげられるようだ(AbemaPrime “共同親権” 法務省が研究会へ 親権制度はどうあるべき?)。

これは9月25日に放映された第一弾(AbemaPrime 「子どもに会えない」離婚後の”親権”はどうあるべき?生討論)の続編で、著名な憲法学者などが単独親権派として出演するとしてTwitterなどSNSでは放映前から再び大議論になっている。

前回も当欄で触れたが(「『本当の親』にならなければいけない」という道徳~単独親権派のアポリア)、共同親権に反対する人のコアは、DV・虐待加害親への警戒だ。

それら加害親への警戒心は凄まじく、どれだけ法整備がなされ加害親は親権停止・接触不可という規則を示した(つまりは単独親権下の現状維持)としても、「共同」になることで過去のDVと虐待の悪夢が引き起こされて警戒する。

その警戒は僕もよくわかるものの、一般的な「法」の整備(ここでは共同親権)と、例外的な事態への対処(ここでは単独親権の維持によるDV・虐待の防御)は、どんな法システムにものしかかる事態だから、両者(共同親権の法整備とDV虐待防御)を同じ平面で論じるのには無理がある。

だが、古典的フェミニストはこれに反対する。なぜかここに、大手NPO代表や著名憲法学者なども加担し、単独親権派はいまだに一定の勢力を維持している。

■結果として「保守」

単独親権派は、DV虐待被害者を例外的事例として扱わず一般的法システムのもと(単独親権下)で保護することで、結局は現在の「家族システム」を維持するという保守的位置に立つ。

単独親権派の中枢である古典的フェミニストやNPO・弁護士たちがDV虐待被害者を守ることで自認しているであろう「リベラル」ではなく、それらは結果として「保守」となる。

何の保守かというと、日本の単独親権を容認するという保守だ。

共同親権になると、たとえば平日は同居親のもとに年間250日程度、平日は別居親だが週末は同居する親のもとに年間100日(~150日)程度子どもは過ごすことになる。具体的には、たとえば、平日は母親と過ごし、週末は父親と過ごす。共同親権下の欧米では当たり前という(上記アベマプライム出演のパックンもそうした少年時代を過ごしたと語っていたそうだ)。

現在の日本の別居親たちにとって、こうなれば理想かもしれない(だがここまで望まない別居親もいる)。

逆に、現在の日本の同居親たちにとっては、そこにDV・虐待が絡めば当然であるが、そうした暴力がなくとも「悪夢」になる場合が多いことになると想像できる。

■「二度と相手には会いたくない」トラウマ

DV・虐待親は年間の離婚数(21万件)の中では少数派ではあるが(警察へのDV通報は年間9,000件)、こうしたわかりやすい離婚相手(DV夫)への嫌悪とは別に、離婚する過程で「二度と相手には会いたくない」と思う妻/夫も少なくはないだろう。

それが泥沼の離婚劇であろうが、表面化してはいないがドメスティックな闘争であろうが、現在の多くの離婚は大きなキズを夫婦の間に刻みつける。

その傷(つまりはトラウマ)が、結局は同居することになった我が子が離婚相手(子からすれば一方の親)と会うことを忌避する。

離婚時に罵りあった相手への憎しみとそのシーンのトラウマが同居親には深く刻み込まれており、ここにDV等がなかったとしても、子が別居親と会うことそのものが自分(同居親)のトラウマを激しく喚起させる。

結局は、親の「別れ方」の問題に行き着く。そこに子どもという権利主体がなければどんなドロ沼離婚になっても構わないが、ここに子どもという権利主体と子どもという「究極の声なき声=当事者」が存在する場合、憎しみ合った離婚は、その当事者=子ども=サバルタンを激しく傷つけることになる。

DVはなくとも憎しみ合って別れ、二度と会いたくないと日々痛感する元夫婦たちは、互いの「和解」についてより意識的になってもらいたい(暴力的な相手は無視し続けるほうが望ましいが)。

これから別れようかなと思っている夫婦には、離婚後は憎しみを抱かない「スマートな離婚」になることをおすすめする。

新しい共同親権の世界(おそらく数年後には民法が改正されるだろう)では、こうした「スマートな離婚」が一般的にならない限り、サバルタンである子どもの悲しみはずっとずっと続く。

5年前