■熱い支持をいただいた
前回の当欄の記事(単独親権の謎~法務省が「共同親権」研究会を立ち上げる)は、「共同親権」を推し進める人々から熱い支持を集めた。
それは当欄が始まって以来かもしれない数で、その支持コメントには「書いていただきありがとうございます」の連発だったため、少し恐縮してしまった。
それだけ、「共同親権」はこれまでタブーの話題であり、強引な別居によって取り残された親たちの多くはある種のマイノリティだったのだと思う。
前回の記事にも書いたとおり、ようやく共同親権が法務省にも研究対象としてとりあげられ(「共同親権」導入の是非検討 法務省、研究会立ち上げ)、世界基準に合わせた共同親権化に日本社会も近づいていくことだろう。
これに対して単独親権派は、DVの危険性、子の鬱化(自死含)のおそれ、(たとえば進学等で)親の意見が分かれた時の事態の遅滞等の問題を持ち出して執拗に反対する。
確かにそうなのだ。僕も支援の仕事で、悲しいが若者たちの自死とはこれまで巡り合っている。そのことを思い出すだけで胸が痛くなってしまうが、そうした「単独的な出来事」と、今回のような共同親権といった「社会システム」の提言は、議論の地平が違う。
■単独性
ちょっと小難しくなってしまうけれども、世の中のあらゆる出来事には「単独性」と「一般性」という問題が並列している。
単独性とは、我々が生きているなかで毎日出会っているすべての出来事を指す。
それらの出来事は、それは「単独的な出来事」としてしか表現できない。たとえば、僕が今朝食べたトーストと、あなたが今朝食べたトーストは、一般的には「ジャムトースト」として名付けられていたとしても、そのジャムの質や塗り方、パンの焼き方、トーストを乗せる皿などを合わせて考えると、まったく違うジャムトーストだったりする。
また、僕が昨日焼いたジャムトーストと、今日僕が焼いたジャムトーストも、焼き方の加減が違ったりする。
あるいは、今日食べたアイスクリームと、昨日食べたアイスクリームは、同じ商品だったとしても、その日の気温や食べる環境(自宅か職場か、等)で、それが人に与える感触は違っていたりする。
つまり、我々は毎日、同じ「アイスクリームを食べる」としか表現できない出来事でも、それら日々の出来事は違う事情だったりする。食べる時間、誰と食べるか、何時に袋を開けるか、その時の気温、気候、環境、いっしょに食べる友人の表情、あげたしたらきりはないものの、すべての出来事はその瞬間ごとに「単独的」な意味合いをもつ。
■単独性からの脅し
世の中でDVと呼ばれる事象も単独的である。
新しい夫のその日の表情は毎日ちがう。
その日の疲労感によってバイオレンスの力加減が変わってくる。
バイオレンスに行き着く前の口論も、毎日若干傾向が異なる。
新しい夫の気分によって暴力の反応が異なる。
怒鳴り方も異なる。
パンチの出し方やキックの角度も異なる。持ち出す武器(包丁やカッター)も、妻の出血や骨折のあり方も大きく異なる。
こうした「出来事」ごとの違いを、単独性という。厳密にいうと、すべての出来事は単独的である。日々のパンチ、日々の出血、日々の武器。それらはすべて一つひとつ異なる。
こうした「単独性」に準拠して、単独親権派はこれでもかと悲惨な出来事の可能性を述べ、脅す。多くの普通の人々は、これらの単独的な悲劇の可能性に怯える(上に触れたようにあらゆる出来事には単独性と一般性の2つのオーダーが宿る。もちろん「一般性としてのDV」という視点も存在するのであるが、今のところDVは、「単独性のエゲツなさ」が、一般論としてのDV問題を凌駕してるように見える。日本においても、DV対策法といった一般性の議論よりは、単独的被害の強調により、ここで取り上げた権利としての共同親権への移行がストップさせられている。このDV問題の単独的強烈さ〈エセDV疑惑問題を含む〉は機会を見て書く予定です)。
■共同親権は「システム」=一般性
けれども、共同親権とは「システム」なのだ。つまりは、世界にひとつだけ存在する無限の単独性(たとえばそれの暴力の個別的リアル)とは別の地平でそれは鳴り響いている。単独的な悲劇(たとえばDV)はもちろんケアする必要はあるが、その単独的な事象と「システムとしての共同親権」は別の地平にある。
個別の悲惨な暴力(DVや虐待)は「単独性」の地平にあり、共同親権のシステム設立は「一般性」の地平にある。この2つのどちらかがいいとか悪いとかを混同して語ると、すべての出来事が混同されてしまう。
つまり、現実の単独的な場面では単独的に対応し(僕は毎日その立場でひきこもりや虐待サバイバー支援をしている)、それとは別の地平でシステムを構築する(今回であれば共同親権システム)。
その2つを混同するとなかなか「決定」できない。決定の困難さについては、次回以降書きますね。