「あなたとはもう一緒に住めません。しばらく別居します」。2年前、当時地方勤務だった東京都の会社員男性(47)は仕事中、妻から受けた電話に耳を疑った。それまで何の相談もなかった。当時7歳と4歳の息子と家族4人で幸せに暮らしていると思っていた。慌てて自宅に戻ると、妻と義父が引っ越しの荷出しをしていた。子供たちは義母がどこかに連れ出したようだった。
「こんなやり方、ひどいじゃないですか」。義父に訴えたが、「娘が決めたことだから」と取り付く島もない。その後、子供との面会を求めると、妻側は「子供の精神状態が不安定」として弁護士を通じ拒否。役所や子供たちの学校に問い合わせても、転居先や転校先を教えてもらえない。住民票には、妻から閲覧制限が申請されていた。これは家庭内暴力(DV)が理由とされるケースが多いという。男性は妻や子供に手を上げたことは一度もない。
子供たちとの面会を望む男性は嘆息まじりに吐露する。「妻や義父母はこんな卑劣な手段を使うような人たちではなかった。それがまかり通る今の法制度に問題があるのではないか」
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近年、夫婦の一方が相手に黙って子供と家を出る「連れ去り」が頻発している。離婚や親権の問題に詳しい上野晃弁護士によれば、離婚時の親権争いで、家庭裁判所は育成環境が一変するのは子供に不利益になるとの考えから、同居している親を優先する「監護の継続性」を重視するため、連れ去りが親権を勝ち取るテクニックとして定着しているのだという。
「連れ去った側は『DV被害を受けた』『夫婦不仲で子供の成長に悪影響』といった理由を主張すれば、裁判所は安易に容認してしまう。『連れ去った者勝ち』の状況だ」(上野弁護士)
平成28年3月に千葉家裁松戸支部で判決が言い渡された親権訴訟は、こうした司法判断に一石を投じるものとして注目された。長女を不当に連れ去られたとする男性側と、男性からDV被害を受けたとする元妻側との訴訟で、男性側は「親権を得たら長女と元妻を年間100日程度、面会交流させる」、元妻側は「面会交流は月1回程度」と主張。判決は妻のDV主張を認めず、男性側の提案を「長女が両親の愛情を受け、健全に成長できる」と評価して男性側を勝訴とした。
だが控訴審の東京高裁は29年1月、「面会交流が他の事情よりも重要度が高いとはいえない」として、監護の継続性などを重視し男性側を逆転敗訴とした。最高裁もこれを支持した。
こうした現状に歯がゆさを覚え、連れ去りを犯罪だとして刑事告訴に踏み切る当事者も出てきた。連れ去られた側の関係者によると、昨年ごろから少なくとも全国約20カ所の警察署や地検に告訴状が出され、受理された。
兵庫県の自営業男性(48)は、28年に当時5歳の長男と3歳の長女を連れ去ったとして営利目的略取誘拐罪で元妻と元妻の代理人弁護士を県警に告訴した。受理されたものの、後に不起訴となった。元妻は連れ去り時にDV被害を県警に訴えたが、これも不起訴に。それでも監護者争いでは元妻が勝訴した。男性は「虚偽のDV申告を盾にした連れ去りは誘拐だ」と憤る。
司法統計によると、子供の引き渡しを求め、家裁に審判や調停を申し立てるケースは年々増加。昨年は約3700件で、この10年間で倍以上に増えている。
親権争いが起きる背景には、日本の民法が離婚後の「単独親権」制度をとっていることがある。一方、欧米では離婚後も両親が親権を持つ「共同親権」制度を採用している国が多い。
日本では親権のない親はほとんど子育てに関わることができず、面会交流も親権者の意向で制限される。親権者の再婚相手などによる児童虐待にもつながっているとの指摘もある。法務省は選択制などでの共同親権導入を含めた制度見直しの検討に乗り出している。
上野弁護士は「昔と違って今は父親も育児に参加する。これからの時代に合った法制度や裁判所の運用が必要だ」と強調する。
一方で慎重な意見もある。東北大の水野紀子教授(民法)は指摘する。「日本は他国と異なり、DVや虐待に対する支援が貧弱で、被害者に残されているのは逃げて別居する自由だけ。支援が整わないうちに共同親権を導入するのは危険だ」
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親権制度が大きく揺らいでいる。親権をめぐるトラブルや訴訟が相次ぎ、親権を失った親が子供と会えず生き別れとなるケースも少なくない。傷ついた当事者の声をたどり、制度のあり方を考える。
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親権 未成年の子供に対して父母が持つ権利や義務。民法では、日常の世話をする監護や教育のほか財産管理などが定められている。結婚していれば原則、2人が親権者となるが、離婚した場合、日本は一方を親権者に定める「単独親権」をとっている。