昨日は結婚や離婚率、婚外子の割合についての各国の比較について冒頭ミニ学習会があった。家族の問題も、社会の仕組みで影響されているので、それを無視して相手が悪い、と言っているだけじゃ問題は解決しない、という趣旨で、この問題意識は共同親権運動と共通する。
その中で、「単独親権がよくない」といっても、単独親権を存続させているのは何なのか、単独親権は何の役にたっているのかというのを考える必要があるのではないか、という参加者の発言があった。共同親権運動でも、この点については触れずに、単独親権が子どもの奪い合いを引き起こし、親子を引き離すからよくない、と言いさえすればよい、という意見が別居親の中からよく出る。
これは、引き離されたほうからすれば当たり前の意見ではあるのだけれど、制度の存続を願うほうからすれば、被害者が出ようがそれに勝るメリットがあれば、制度の存続は社会的に見れば是となる。したがって、この点について触れようとしなかった別居親たちの運動は成果を上げなかった。
味沢さんも少し触れていたが、その制度を支えた側にいて、自分が当事者になったら制度がよくない、と言ってもそれだけじゃ説得力がない。根本を変えようとする気がなかれば、制度も変わらない。だから、共同養育支援法の制定運動は失敗した。
単独親権制度は、家制度の存続にとって必須の制度だ。家制度とはつまり戸籍制度だ。戸籍は現在では父母子の単位で成り立つが、同姓の同じ籍に入っているものを日本の国民の最小単位として認定する。この枠組みから外れた人は、味沢さん曰く、「二級市民」のような扱いを受け、民法上も差別されてきた。
戸籍は徴税と徴兵のために設けられた国民支配のための制度だが、籍に入れること=福祉で、だから「子どもの福祉」が籍への所属とイコールとされてきた。これはいまも税制上の扶養などの優遇措置として残存している。この制度のもとで、福祉を家庭に押し付けて安上がりにして戦後は経済成長を成し遂げることもできた。こういった戸籍事務で食っている人は、法務関係の役人から福祉の現場まで隅々にまで及んでいて、その中にDVの被害者支援も含まれている。
戸籍は一夫一婦制の世帯単位が基本なので、離婚や婚外子の親など、登録の必要があるのに型にはまらない個人が出てきたときには、無理やり戸籍の形に当てはめようとする誘因が生じる。その際、両方が親権者で離婚した後の双方の親や、婚外子の親などが、親権を主張して正当性を主張しようとすれば、戸籍の型が壊れてしまう。壊れてしまえば、一級市民としての日本国民にだけ国家の承認という特権を与える(得る)ことができなくなってしまう。だから無理やりにでも戸籍の型に当てはまるように、離婚の場合は一方の親権を奪うか、未婚の場合はもともと一方が主張できないようにしておく(非嫡出子の親でも結婚すれば養父母として子どもを嫡出子にすることができる)。
いまのは性中立的に解説したが、親権者を持てないのが、女性、男性と変遷する過程はあるが、母系か父系かの違いはあっても家制度は家制度で、性差別的なことに変わりはない。つまるところ、家制度が本来の役割を果たすように機能するためには、単独親権制度は必要なのだ。
だから右派が連れ去り問題に着目して、引き離しの問題で発言しつつも、共同親権に対しては反対するようになったのは、当たり前と言えば当たり前だ。連れ去り問題は父親からの親権はく奪に行きつくので、子どもに対する権限が何もなくなる。連れ去られさえしなければ子どもは家のもののまま、ということにもなるので、最終的にはだったら離婚しなければいいじゃない、やっぱり「問題のある別居親」となって、この点は右も左も別に変わりはない。
なんてことを昨日一通り考えた。この後の展開も考えてるよ。
2019年5月13日
「宗像充のホームページ」から