「離婚しても子に会いたい」は親のエゴか

2006年にジュリストに共同親権の民法改正試案を公表した水野さん。
最近では、「逃げる自由」を標榜して、実子誘拐の違法化反対の論陣を張るようになりました。
民法学者としての良心よりも、男性排除による権益保護のほうが重要と結論付けたのでしょう。現場から見ると「ほんとかなあ」という現状認識と歴史観を構築しつつありますが、いくつか数字のレトリックによる印象操作をしていますので、指摘しておきます。

一つは、フランス・ドイツでの親権制限による件数と、日本の親権停止、喪失件数を比較し、日本の虐待への介入が圧倒的になされていないと指摘している点。

水野さん自身も別のところで指摘しているように、一時的な親権制限の立法がある国と、親権を奪ったら親の権利がないどころか、単独親権で親権のない親への弾圧を正当化する日本とでは、根本的な対応の手段の違いがあるわけで、同列で比較できません。むしろ、裁判所の介入がなされない中で、行政による子の拉致がなされているのが現場ですから、あんまり裁判所の措置の数字比較をしても正確じゃないかもしれません。

もう一つは、「逃げる自由」を提唱するなら、それは男性にも保証されないとただのご都合主義です。DVシェルターは女性限定、刑事介入は男性が被害者でもなされない、裁判所の親権取得率は女性が9割。こんな中で「連れ去り無罪」を言って「逃げる自由」を提唱することこそが犯罪的で、むしろ女性の権利能力を無視していると言えるのではないでしょうか。要するに自分は専門家だから、もめる男女をバカにしているだけです。自分は専門家と匂わせながら、「専門家にまかせろ」という。うさんくさいよね。

「逃げる自由」があるなら、実子誘拐の犯罪性も同時に認めるべきです。そうじゃなきゃそれは「連れ去る自由」の言い換えでしかない。

親子断絶防止法がこんなご飯論法を引き起こすなら、廃案にしたほうがいいのは、水野さんと同じ意見ですけどね(ご飯論法は水野さんだけど)。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190121-00027273-president-soci&p=4

「離婚しても子に会いたい」は親のエゴか

1/21(月) 9:15配信

プレジデントオンライン

日本では離婚した場合、子の親権は父母のどちらかに移る。「共同親権」となるのは婚姻中だけだ。だが欧米では離婚後の共同親権制度が導入されている。日本でも導入すべきなのだろうか。東北大学の水野紀子教授は「離婚後も両親が子供と交流できることは望ましいが、日本では家族へ介入する社会福祉が貧弱だ。DVや児童虐待などがあったときに、子供の安全が脅かされる恐れがある」と指摘する――。

■40代男性が「共同親権」を求めて最高裁へ

2018年10月、東京都内の40代男性が共同親権を求めて最高裁に上告したことが話題になった。離婚後の単独親権は、「家」制度の名残で憲法違反だという主張である。「家」制度のない欧米諸外国も、かつては単独親権であったから、「家」制度の名残とはいえないであろう。

だが、そんな欧米諸国も、近年は非嫡出子を含めた共同親権に道を開いている。また、日本でも2014年から批准の効力が発生している「ハーグ子奪取条約」は、片親が子を連れて国境を越えて逃げた場合、もとの居住国に戻すことを命じており、締約国が当事者の自力救済を封じることを原則としている。

日本国内でも、片親が子を連れて逃げる事態を減らすために、「共同養育支援法(旧:親子断絶防止法)」が超党派の議員連盟から提唱されている。たしかに夫婦としては失敗した2人でも、両親として子の育児に協力できるのであれば、もちろんそのほうが望ましいだろう。それでは、これらの主張のように、両親の仲が悪くなった場合でも、両親が共同に親権を行使できるように法改正すべきだろうか。

■家族への「公的な介入」が少ない日本は特殊

この問題を考えるためには、日本家族法の特徴を理解しなくてはならない。151年前に成立した明治政府は、日本語になかった「権利」「義務」「時効」という法律用語の翻訳語をつくるところから始めて、主にドイツ民法とフランス民法に倣った「明治民法」を30年かけて立法した。しかし家族法の部分は、モデルになった母法と日本法との間に、大きな相違がある。

明治民法の起草者たちは、西欧法は、離婚をすべて裁判離婚とするなど、手間のかかる不要な国家介入が多すぎると判断した。そこで、戸籍の記載を単位に「家」制度を作り、「家」の自治にすべてを委ねる、極端に私的自治を重視した独自の家族法を立法したのである。

届出のみで成立する協議離婚は、この日本家族法の特徴を代表する制度である。「家」制度を廃止した戦後の民法改正は、この極端な「家」の私的自治をそのまま家族当事者の私的自治にスライドさせた。その結果、日本家族法は、比較法的には、家族への公的介入が著しく少ない特殊な立法となっている。

戦後改正の基準となった日本国憲法は、自由と平等を機械的に要求するだけであって、「合意」を至上とする家族法の欠陥を是正する力を持たなかった。形式的な自由と平等は、他人間の関係においては基準となるルールであったとしても、家族間には妥当しない。

家族内部は、実際には決して平等ではなく、意思すら抑圧する力関係の差があり、当事者の相互依存は極めて強く、離脱することは容易ではない。法による弱者の保護がなければ、実質的な平等が保たれないどころか、悲惨な抑圧や収奪も生じうる。家族当事者の協議に委ねることは、一見、家族の自由を認めるように見えるが、実際には家族のむき出しの力関係のなかに家族内の弱者を放置することになる。

■「協議離婚」に慣れすぎている日本人

日本人は、家族に問題の解決を委ねてしまい、家族の出す結論を公的にチェックしない協議離婚などの制度に慣れてしまっている。一刻も早くDV加害者から逃れて子供と生活保護で平和に暮らしたいと切望する被害者が、加害者の離婚合意を得るために、金銭的な妥協はもちろん、形式的な親権の帰属についてさえ妥協することは珍しくない。仮にもし日本の協議離婚制度をフランスで立法しようとしたら、基本的人権を侵害する憲法違反として許されない離婚制度と評価される可能性もある。

明治民法が立法された頃には、まだ自営業を担う「家」が中心の社会で、人々は地域共同体や大家族に包摂されて生活していた。「家」の私的自治に委ねても、実家が力を持っていれば対等に交渉できたであろうし、地域共同体のいわゆる「世間」による家族介入もあり、親に問題があっても子供たちはまともな大人と触れあうことによって健康に成長できた。

このような大家族や地域社会での「群れによる育児」は、子育ての社会的安全弁となっていた。しかし家族を囲む環境の変化は著しく、産業構造の変化により都市化、職住の分離が生じて、それまでの「群れによる育児」が崩壊した。戦後の高度成長期には、サラリーマン階層が大規模に増加し、マンション等における都市生活においては近所づきあいも急速に失われ、家族が孤立するようになった。

■家庭内暴力にも介入できない日本社会

近代化によって孤立した家族の生存を支えるために、必要な財とケアを社会福祉が担うようになったのが、西欧諸国の展開であるが、日本では、軽量な「日本型社会福祉」が採用された。財は、企業の常勤社員となった男性が生活給として獲得し、ケアは主婦が担うものとして、家族内の自助努力に任された。とりわけケアの側面で、家族へ介入する社会福祉は、日本では極めて貧弱である。

かくして日本社会は、孤立した家族に必要な社会的介入が行われない社会となった。特に深刻なのは、家庭における暴力の問題である。閉ざされた家庭内の暴力は、エスカレートしがちである。肉体的暴力はもちろん、経済的暴力や精神的暴力も、被害は大きい。

家庭の中にこのような暴力による支配の関係があると、子供の健康な共感能力の育成不全が生じる。子供の脳にも形態的な異常が生じ、その問題は成人後に長く尾を引く。かつての「群れによる育児」は、虐待があっても他の大人たちとの健康な交流によって子供の脳が回復する、自然な安全弁を提供していた。しかし閉ざされたコンクリの箱の中で育つ現代の子供たちには、もはやそのような安全弁はない。

■DV被害者が求めれば「別居命令」が出る欧米諸国

欧米諸国の家族法は、婚姻中でも家庭内暴力被害者が求めれば別居命令を下し、扶養料を取り立て、扶養料債務の不履行には刑事罰を科し、不当な親権行使には積極的に介入するという支援や強制を準備している。ハーグ子奪取条約では、このような国内体制が前提とされている。「国内で公権力に求めれば必ず救済する。従って、自分で逃げるな」という自力救済を封じる体制である。

翻って日本では、支援と強制が乏しく、DVや児童虐待などの家庭内暴力対策が極めて貧弱である。DVを見せることは深刻な児童虐待であり、子の脳の成長を損傷する度合いは、身
体的虐待やネグレクトよりも大きいといわれる。しかし子供に高等教育を受けさせるために、被害者は暴力のある家庭にとどまろうとする。そして、いよいよ限界をさとった被害者に残されているのは、逃げる自由しかない。自ら逃げて別居を実現することによって離婚が具体化するという、自力救済を前提とした家族法なのである。

■虐待対応への公費が“桁違いに”少ない日本

児童虐待への関心は、悲惨な事件の報道によって高まっている。しかし日本における児童虐待対応施策の実情が西欧諸国のそれと大きく異なっていることは、それほど知られていないように思われる。まず虐待対応にかけられている公費が、日本は西欧諸国より、文字通り桁違いに少ない。この事実は、将来の日本社会に高価なツケとなってまわってくるだろう。

日本子ども家庭総合研究所の試算によると、虐待対応支援費用として支出されている直接費用約1000億円に対して、虐待の結果として生じる間接費用、具体的には精神疾患にかかる医療費、反社会的行為による社会の負担、自殺による損失などは約1兆5336億円にのぼるとされる。

より端的にイメージがつかめるのは、裁判所の判決数かもしれない。育児の下手な親が公的介入に同意すればよいが、同意しない場合は親の意思に反して介入する必要がある。行政権によるこのような強制介入には、司法の許可が必要である。ドイツにおける親権制限判決数は2万9405件(2015年)、フランスにおける親権制限判決数は9万2639件(2016年)になる。

ドイツの人口は、日本の約6割、フランスの人口は、日本の約半分である。日本の児童虐待対応がフランスと同じように行われているとすれば、人口比でいえば年間約20万件の親権制限判決が下されているはずだ。しかし日本の親権喪失審判数は、25件、親権停止審判数は、83件(2016年)である。

■DVや虐待があれば被害は永続化する

日本の離婚は、約9割が協議離婚だ。残りの1割つまり10%のうち約9%が調停離婚で、裁判離婚は1%にすぎない。冷静に話し合えて、離婚後も子にとって親との交流が必要と判断できる両親であれば、現行法の単独親権のままでも、実質的に交流できるように、面会を実行するだろう。調停離婚は、年間2万件余りである。家庭裁判所に現れるような対立が深刻な離婚事件は、背後にDVや児童虐待を抱えている可能性が高い。それらへの対応がなければ、面会交流や共同親権は、その被害が永続化することを意味する。

もちろん離婚後も親子の交流があるほうが望ましく、子の奪い合いには時に強制力のある介入も必要である。しかしそれは物理的・精神的暴力から子を守りながら行わなければならない。パーソナリティの偏りや精神的暴力の有無などを見抜く力のある精神科医や臨床心理士などのプロフェッショナルが調査・介入して、加害者に働きかけてリスクを軽減して初めて可能になる。

ドイツやフランスであれば、婚姻中から児童虐待対応としてこのような介入がある程度、行われているだろう。しかし日本では、介入されないまま、離婚紛争として家庭裁判所に現れる。日本の家族法に必要なのは、家族への支援という公的介入であって、むき出しの力関係のなかに放置される家族への道徳的教化や義務づけではない。

■“逃げる自由”を奪う「共同養育支援法」

大家族や地域社会での「群れによる育児」が失われた現在、被害者が頼れるわずかな支援は、行政の相談窓口である。近年提案されている「共同養育支援法(旧:親子断絶防止法)」などの立法案は、地方公共団体等に両親の継続的関係の維持を促進する義務を課すことが盛り込まれている。子供を連れて逃げるために被害者が頼れる行政支援を封じることによって、この最低限の逃げる自由を奪いかねないものである。

さらに離婚後の共同親権の立法提案も、日本の現状では、その果たす機能に不安がある。もとより離婚後も両親が継続的に子供と面会交流できるほうが望ましいが、そのために不可欠な条件は、面会交流の際に子供の安全を図ることができる公的支援である。それが確保できていない現状では、子供の基本的人権保障という観点から、共同親権の強制には消極的にならざるをえない。

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水野紀子(みずの・のりこ)
東北大学大学院法学研究科 教授
1955年生。東京大学法学部卒。同助手、名古屋大学助教授・教授を経て、1998年より東北大学教授。民法・家族法専攻。法制審議会の各種部会における民法改正など、立法作業にも従事する。近年の編著として、『信託の理論と現代的展開』商事法務(2014年)、『財産管理の理論と実務』日本加除出版(2015年)、『相続法の立法的課題』有斐閣(2016年)など。
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東北大学大学院法学研究科 教授 水野 紀子 写真=時事通信フォト

5か月前