子どもに会えない親たちの運動をはじめて10年になった。今年は法務大臣が7月に共同親権について「検討する」と発言したため、共同親権という言葉が報道されたので、それなりに関心を持った人もいただろう。もちろん反対論も出ている。反対論は通常「保守」として括られる陣営から出されるのではなく、護憲や革新、人権などの言葉となじみ深い人たちから出され、それが議論の混迷を招いている。そこでここでは、親権問題をめぐる論点の所在を探る試みをしてみたい。
昨年から共同親権反対の論陣を張るようになった憲法学者の木村草太は、沖縄タイムスへの連載エッセイで、以下のように主張する。
「別居親が、主観的に『自分との交流は子の利益になる』と思っていても、DV・虐待・ハラスメントなどの要因で客観的にはそう認定できないことがある。そうした場合には、面会交流は避けるべきだし、ましてや親権を与えるべきではない。面会交流の不全は、裁判所か、別居親の問題であり、親権制度とは関係がない。」(木村草太の憲法の新手(86)共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切、8月19日ネット配信)」「この点、『裁判所は、別居親に監護の機会を与えてくれない』という批判の声もある。しかし、それは、裁判所の人員や運用に問題があって、裁判所が適切な判断をできていないか、あるいは、客観的に見て別居親の監護が『子の利益』にならないことによる。法律の定めるルールの内容に問題があるわけではない。」(同(87)続・共同親権 父母の関係悪いと弊害大きい、9月2日ネット配信)。
こういった主張は世間一般の先入観の所在をよく指摘してはいるけれど、デマだ。裁判所は子どもと引き離された側の親権を単独親権のもと奪うので、親権目的の子の連れ去りが横行する。子どもと引き離された親が裁判所に子どもに会いたいと申し出ても、取り決め率は54%。そのうち4割が約束を守られず会えなくなっている。彼が弁護士だったら100%勝てない。
親権争いでDV・虐待・ハラスメントなどの主張が同居親側から出るのは普通だ。しかしそもそも子連れで家を出るときにそれらの客観的な認定があるわけではない。男性の親権取得は裁判所を経由すれば1割だ。それは男性が子どもを連れて出たところで、女性のシェルターのような行き場所がないことによる。そもそも虐待の加害者の割合で一番高いのは実母で、DV被害も男性の5人に1人は受けている。「子の利益」にならないのは同居親も同居カップルの親にも当てはまり、裁判所の人員の問題ではない。
こういう発言は、昨年週刊金曜日でも「問題のある別居親のための法律はいらない」という記事で登場している。週刊金曜日には抗議後、公開質問状を提出し、投書して誌面で公開討論会を呼びかけた。しかし週刊金曜日は黙殺している。この結果、ぼくは取引先を一つ失った。現在不買運動をしている。
沖縄タイムスにも電話して担当者と話した。「木村さんは性別で区別をしていませんよね。男性へのヘイトではないんでは」という担当者に、「でも被害者は女性しか想定していませんよね」と言って、先ほどの暴力被害の実情を数値で指摘した。「それは知りませんでした。周りでも聞かず、どうしてそういう実情を知る機会がなかったのか」と逆に聞かれた。「それは男性は被害を言うのが『男らしくない』からでは」と答えた。沖縄タイムスには公開質問状を出した。
弁護士グループが出版も行なったり、女性のDV被害者支援団体が集会をもっているので、共同親権反対の運動は組織的になされていることは明白だ。人権問題として女性問題を取りあげることは、リベラルなオピニオン誌では普通なので、女性の運動が男性の危険性を主張すれば彼らが正義感をもってそれに答える。したがって、男性の多い別居親の主観は前提として否定するが、女性の多い同居親の主観で別居親子の権利侵害がなされることには無頓着だ。
DVは精神的なものが含まれる(モラハラ)。であれば男性の側の主観からの被害者意識もまた制度的な保証が与えられるべきだ。女性の側は主観で居所秘匿がなされる制度保証はある。しかし、男性の側がDVと言っても子どもに会えたり親権を得られたりしない。これは子どもと引き離された女性においても同様だ。
実は、「虚偽DVなんてない」「被害者が逃げてきているのがDVの証拠」という言説自体が、DV被害者支援の制度的な欠陥、つまり男性の側の権利侵害への無自覚を自ら語っているに過ぎない。しかしこれは世の中は家父長制社会、男性優位社会である、ということをもって正当化される。そして、社会的弱者である女性の側からの被害の訴えに耳を貸すのが優位にある男性の側の理解ある態度となる。たとえ男性の側の権利侵害があったとしてもそれは女性からの過剰防衛の結果として罪が問われない。そして木村や週刊金曜日が無自覚に別居親に反省を促す。
なぜこんな不毛とも言える対立が生じるのだろうか。
今年、アメリカの男性の権利運動について紹介した映画「レッドピル」を上映した。この映画は性役割に基づく生きづらさは、女性のみならず男性にもある、という当たり前のことを主張すると、いかにその主張がフェミニストからの猛反発を受けるかをうまく描写している。またぼくが、この10年の間に体験したことそのままでもあったので、「あるある」と思って見ていた。
この映画をぼくたちに紹介した翻訳家の久米泰介さんは、「日本じゃフェミニスト対保守派、みたいな対立軸で考えられているけど、アメリカでは、イガリタリアン(平等主義者)対フェミニスト、という対立軸になってきている」と指摘していた。男性の側が被害を訴えることは男女平等のためには歓迎されるべきなのに、実際には女性が優位を占めていた部分での権益を侵害されると受け止められ、その不利益の指摘が封じられるということのようだ。結果男性差別は市民権を得られず、男性の被害の訴えは嘲笑の対象となる(ミサンドリーと呼ばれる)。
久米さんは、「男性も損しているのに、どうして家父長制、男性優位社会なんて言えるんでしょうか」とこの概念への違和感を表明していた。仮に家父長制という概念がなりたつにしても、少なくともそれは男性のみで支えているものではない。女性がポジティブアクションを求めるのは、政治家や経営者、マスコミなど権力を持っているところだ。東京医大の差別入試問題では、同じ成績でも性別で差があり、職業選択の自由を侵害されるのはもちろん不公正なのだけれど、その不公正を医師が激務だからと正当化する理由には男も怒っていい。「バカでもいいから男は過酷な仕事しろ」という本音が込められているからだ。
男女平等のためには、権力の集中をどう等配分していくのかというのが同時並行的になされる必要があるのだろう。共同親権運動は、子育ての領域におけるアファーマティブアクションを求める運動だ。そうすると、それへの反対意見は、権力を奪われる側からの反発であって、必ずしも男女平等の視点からのものではないということになる。(つづく)
(宗像 充、2018年10月7日、「越路」8号、たらたらと読み切り148)
ブログ「おおしか家族相談」から
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